「いらっしゃいませ」
大家が高層マンションの一階にある銀行の支店に恐る恐る入ると行員全員が立ち上がって頭を下げる。すぐさま支店長が何かを手にすると丁重に頭を下げながら近づく。大家はその支店長とは面識がないので思わず一歩下がる。
「こんなに早くお見えになるとは驚きました。大家さんはいつも若々しいですね。これが新しい預金通帳です。百兆円単位まで印字できる通帳に変えました」
支店長がいつもと少し違う雰囲気の大家に気付くとまじまじと見つめる。
「どうされたのですか。真っ青ですよ」
「いや。通帳?」
「そうです。大家さんの預金額が十兆円を越えましたので特別な通帳を用意させていただきました」
支店長は大家の使い古した革の鞄を見て驚く。大家は真新しい通帳を受け取るとその鞄にしまう。後ろにいた田中が声をかける。
「大家さん、戻りましょう」
田中が大家に寄りそうように銀行を出る。明るく輝く超高層ビルやマンションの間から、今
[190]
にも雨が降り出しそうな鉛色の空がふたりを威圧する。
「どこへ?わしの家はなかった」
周りの状況が一変して大家は自分の家がないことに気付いた。そして何十年も時代が進んでいた。大家が最初に思いついたのが、自分の預金だった。金があるのか無いのか。あるとすれば、いくらあるのか。金さえあれば、時代が変わろうとなんとかなるという発想だった。なんとかなるどころか、新しい通帳にはおおよそ十兆円の残高がある。インフレで残高が過大に表示されているというわけでもなさそうだ。
「わしが持っていた土地に高層マンションが建ち並んでいる」
「あれ?あれは?何か奇妙なものが……」
「地面に突きささっているように見えるわ」
「消えた!」
大家が目をこすると田中が叫ぶ
「あっ!こっちを見てください」
「!」
「アパートだけが昔のままだ」
「アパート以外は超高層の建物ばかり。それに道路も立派になっている。区画整理でもしたのか」
[191]
「取りあえず、アパートに戻りますか」
今までの興奮した語調から田中がたった一つしかない選択肢を惚けたような口調で提案する。
「そうね。それしかないわね」
ポツンと孤立した古びれたアパートがやけに暖かく見える。一階はすべて空室で、中にはドアの代わりに鉄板が貼り付けてある。階段は錆びているというより腐っていて、いつ建物から離れて落下してもおかしくない。腫物に触るように一段ずつ慎重に上って二階の廊下に到達する。よく見ると彼方此方に穴が開いている。足元に気をつけながら一番奥の田中の部屋を目指す。自分の部屋にあと数歩というところで田中が大声をあげる。
「山本!」
田中の部屋の手前のドアに「山本」という紙の表札が貼ってある。そして、田中の叫び声に反応するかのようにギギーッという音をたてて薄い木造のドアが開く。ふたりは反射的に抱き合うと「わあ!」という声をあげてヒザからくずれる。ドアの隙間からふたりを見つめる山本は、真っ昼間にもかかわらず夜のような暗い中でまるで幽霊のように見える。
「田中さん、大家さん」
「やっ、山本さん?」
こわばった田中がなんとか声にすると老婆のようにも見える山本が頷く。
――まるで浦島太郎……いや、浦島タロ子だ
[192]
気丈夫にも田中が山本に挑む。
「山本さん。あなたに尋ねたいことが山ほどある」
「わかっています」
なんとか上体を起こした大家が咳きこみながら山本を見つめる。
「あんた!いったい何者だ」
「田中さんの部屋でお話しします」
雨が落ちてくる。すぐに大粒の激しい雨に変わる。トタン屋根に大きな音が広がる。そして稲妻が走り、大音響の中で古びれたアパートが揺れる。田中は反射的にズボンのポケットを探って鍵を握る。ノブに鍵を差し込むとギーという音がしてドアが開く。部屋の奥では例のテレビが薄気味悪く輝いている。無言で三人がテレビの前のテーブルに手を突くと鮮明な画面に変わる。
「イースター島海戦でグレーデッドは全滅しました。かろうじて国連軍が勝利しましたが、全軍、被曝しています。あの海域はグレーデッドの核攻撃で汚染されました。モアイが泣いています」
「モアイが?」
山本の目から涙が溢れるとテーブルに顔を付ける。余りにも変わり果てた山本の容姿とその神妙な態度に田中は何を話していいのか困惑する。
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「山本さん」
「どこから尋ねたらいいのか、わからない。そうでしょ」
すぐさま田中は首を縦に振る。昔のあの若い山本なら、田中は自重せずに抱きしめたかも知れない。だが、今はそんな雰囲気どころか、何とも言えない異常な空気のなか、息をするだけでも大変な状況にある。現に大家の呼吸は異常なぐらい早い。
「少し横になりたい」
大家はそういうとゴロッと床に倒れる。
「大丈夫ですか」
冷蔵庫からタンブラーを取り出してコップに水を注いだのは山本だった。器用に大家の首に腕を回して、コップを持った手を顔に近づける。大家が美味そうにその水をすべて飲み干す。山本がそのコップを田中に差しだす。
「あなたも飲んでください」
田中がそのコップを受け取ると山本が残った水を全部注ぐ。
「こんな美味い水を飲んだのは生まれて初めてだ!」
大家がうれしそうに上体を起こす。それを見て田中も水を飲む。思わず全部飲んでしまいそうになるのを無理矢理止める。
「山本さん」
[194]
「ありがとう。この水しかないのよね」
山本が田中からコップを受け取ると残った水を飲む。
「あー、美味しい」
山本は飲んだ水の量と同じだけの涙を流すほどのうれし泣きをする。白粉を塗ったような、それでいて細かな皺が多い肌が急に赤味をさして輝き始める。唇は紅をさしたように輝いて田中を魅了する。若干曲がっていた腰が伸びて背筋がピンとする。このように上半身が整うと胸が震えるように少し揺れる。その胸から発せられたような張りのある声が田中と大家に向かう。
「私は事故を起こしたあの原子力発電所に潜入して作業員にインタビューを試みました。不思議なことに関東電力の社員に遭遇することはありませんでした。下請会社の社員どころか孫請会社の社員もわずかで、結局、人材派遣会社から派遣された人がほとんどでした」
しかし、ここで山本が涙ぐむ。一旦大きく息を吸いこむと不用意なしゃっくりが起きないように吐きだすリズムを小刻みにする。
「原発がメルトダウンしていることを知りました。そのころ政府はメルトダウンのことは発表していませんでしたし、もちろんどのマスコミもまったく報道していませんでした。疑いすら抱く者がまったくいないなか、作業員は黙々と仕事をしていました。なぜこんな危険な作業に従事するのかと尋ねてもまったく返事がありませんでした。それどころか逆に尋ねるのです」
「何を?」
[195]
田中がはじめて声を上げると、山本が低い声で応える。
「『女だてらに、こんなところに来て何が目的なんだ。スクープ記事でも書いて有名になりたいのか』と詰めよられました」
そう言いながら山本が大きく首を横に振る。
「事実を報道したいのです。皆さん、腹立たしい思いをしていませんか。政府も関東電力も真実を発表していないじゃないですか」
山本はまるで田中や大家をそのときの作業員と勘違いしたようにしゃべり続ける。
「被曝しても構いません。現場がどうなっているのか、そしてそこで作業している人の現実を取材して隠すことなく正確に報道したいのです」
田中も大家も山本の鬼気に迫る口調に沈黙する。
「姉ちゃん。言っておくがそんなきれい事、通用する世界じゃない。さっさと帰れ。ここにいれば子供を産めない身体になるぞ」
山本はそのときの状況を一人二役のように再現する。
「女も男も関係ないわ。あなた方も女に妊ますことが出来ない身体になってしまうわ」
ごく自然に田中が作業員役を引きうける。
「俺たちは構わない。嫁も子供も津波で失った。俺の命はどうでもいい。生き残って頑張っている隣人や職場の同僚のためになればそれでいい」
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山本が田中を睨む。
「だから、ここに来て、現場を見て、そこにいる人の気持ちを聞きたいのです。そしてそれを全世界に伝えたい。皆さんの気持ちを全世界に!」
陶酔するように山本はヒザをついて田中にひれ伏す。
「私はこの取材を終えたら、沖に停泊しているグレーデッドの潜水艦に向かいます。これまで取材した記録はこのメモリースティックに収録しています。どなたかこれを信頼できる人に届けてください」
目元を拭うと山本は我に返ったように冷静なトーンに戻してから田中を見つめる。
「それから私はみんなの反対を押し切って、グレーデッドの潜水艦にゴムボートで向かいました。もちろん横山という先輩のあとを追って取材するためです」
山本が例の不思議なテレビの画面をタッチしながら器用に操作する。
*
「よくも、こんなにたくさん撮影できたもんだ」
「私もよく分からないの」
「どういうこと」
田中と山本に親密感が高まる。
「イースター島海戦でグレーデッドの敗戦が確実になったとき、私はグレーデッドから追い出
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されたの」
「えっ。放射能だらけの海に?」
「グレーデッドの言い分を報道して欲しいということが目的であることは理解していましたが、おっしゃるとおり、周りの環境は劣悪でした」
随分前からテレビにはイースター島海戦の様々な映像が繰返し映されている。
「どうやって助かったんだ。それになぜここにいるんだ」
「まず、前半の質問の答えから」
画面に旧式の潜水艦が現れる。
「サブマリン八〇八です。この潜水艦に救助されました。記録は残っていないと思います。この潜水艦はイースター島海戦のあと国連軍から離脱して日本に向かいました。だから私はそのまま日本に戻ることができました。不思議なことにサブマリン八〇八はまったく放射能に汚染されていなかった……」
山本の最後の言葉に首をひねってから田中が次の質問をしようとしたとき、大家が大声をあげる。
「大体のことは分かった!それより現状を説明してくれ。ここだけがボロボロの長屋で、周りは超高層ビルだらけ。しかも一気に時間が進んでいる。なぜだ!」
「説明してもいいですが、知らない方がいいかも」
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山本がはじめて微笑む。田中も微笑みながら同調する。
「要は知っても知らなくても現状が変わるわけでもない。そして知ったところでこれから先のことに影響するワケでもない。今までのことはそれほど突拍子もないことだと言いたいんだろ?」
山本はただ笑うだけで肯定も否定もしない。
「わしは知りたい。なぜ、わしの預金通帳に十兆円もの残高があるんだ。それだけでも教えて欲しい」
「分かりました」
山本の言葉に田中と大家が生唾を呑みこむ。
「原発事故のあと日本中、放射線量に対して神経質になりました。市役所の職員がたまたま大家さんの古い貸家の裏庭を計測したところ、健康に差しつかえはないのですが、かなり高い放射線量が測定されたのです。その職員がそこを掘るとレアメタルが大量に見つかりました。そのころ中国がレアメタルを国家戦略物資として……」
「ストップ。とにかくそれで大家さんは大金持ちになった。そういうことなんだろ」
山本が首を縦に振ると、山本の説明を中断した田中を大家が恨めしそうに見つめる。
「わしがいない間にすごいことが起こったことは置いとくとして、当のわしはまったく知らない支店長や銀行員が違和感なくわしに頭を下げた。どういうことなんだ」
[199]
「わかりました。説明を続けましょう」
山本がテレビのリモコンを手にすると、ボタン4を押す。目の前の山本が消えるとテレビの画面にリモコンを持ったまま現れる。
「わあ!」
田中と大家の驚きに反応することもなくテレビの中の山本が真剣な表情でリモコンの先端を田中に向ける。赤い光線がテレビの中から外にいる田中に到達すると田中が消える。大家は腰を抜かしてテレビから離れる。横にいた田中が消えてテレビの中の山本の横にパッと現れたのだ。
「大家さんもこちらに」
再び山本がリモコンを操作する。大家が赤く輝くと、山本と田中の間に割りこむ。そして三人の目の前に同じようなテレビがあるが、誰も映っていない。
「全員こちらの世界に移動したのでテレビには誰も映っていません」
田中が周りを見渡してから、今いる場所を自分の部屋だと確信する。
「うそだ!ここは僕の部屋だ」
大家も田中に負けない大きな声で頑張る。
「ここはどう見てもスタジオじゃないぞ!」
山本が無理矢理大家の手を引いてドアに向かう。そしてドアを開けると大家に外へ出るよう
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に促す。大家は声もあげずに周りの景色を眺める。続いて外に出た田中が驚愕して振り返る。山本を睨み付けて口から泡を吹く。
「今、あなたの頭を駆け巡っている想像どおりの世界があのテレビの画面のこちらとあちらで起こっているのです」
「僕や大家さんをどうするつもりなんだ!」
「どうするつもりもありません。でも、今は大家さんをあなたのベッドに寝かせましょう」
気が付けば大家が廊下で倒れている。どこを見ても高層マンションやビルはない。あるのは古びれた木造の建物ばかりだ。そう、ここは元の世界だ。
*
「これからのことを考えよう。断言出来ないが過去は振り返らないように」
「わしが信頼できるのはこの通帳じゃない。目が覚めたら残高がゼロ、いやマイナス数兆円になっているかも知れない」
大家が通帳から田中に視線を移して言葉を続ける。
「独身の老人が頼れるものといえば金なのかも知れないが、金がないとしたらわしが頼るもの、失礼、頼れる人間は田中さんしかいない」
「いずれにしても、これから先、どんなことがおこるんだろう。あっ、そうだ。地震と津波でメルトダウンした関東電力の原発はどうなったんだ」
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山本は自分が応えなければならない立場を理解しているが、首を横に振って何も言わない。田中は今までの経緯からなぜ山本が応えようとしないのか模索する。そしておもむろに尋ねてみる。
「逆田さんはどうしている」
「随分前にテレビ局を辞めて、今どこにいるのか分かりません」
「山本さんはテレビ局に留まっているのですか」
「いえ、私や逆田がいたテレビ放送会社は倒産しました」
「えっ!あんなに忌憚なく権力に対して批判すれば、視聴者に評判がよかったんじゃ?」
「もちろん、そうでした。でも広告が取れず、倒産しました。原因ははっきりしています。関東電力を筆頭に様々な広告が打ち切られたようです」
「『ようです』とは、どういうことなんだ」
「分かりません。でも、どこの誰かか知りませんが放送を続けています」
急にテレビに画像が現れる。
「日本の原子力発電所がすべて停止して廃炉の作業に入ったものの、完全に廃炉になった原子力発電所はまだありません。さて関東電力は廃炉費用が巨額になるとして、被災者の補償に応じません。さらに多数の従業員を解雇したので、電力供給がままならないと計画停電を繰り返しています」
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「現実は悪い方向に向かっている。結局、庶民が犠牲になる。電気がなければ生活できないもんな」
田中が山本に意見を求める。しかし、声をあげたのは大家だった。
「わしに考えがある」
驚いて田中も山本も大家を見つめる。大家は使い慣れた革の鞄から例の通帳を取り出して宣言する。
「この金でなんとかする!」
田中も山本もあ然としてその通帳を見つめる。
「わしの知らんうちに貯まった金だ。汗をかいて稼いだ金じゃない。困った人がいるなら、すべて寄付してもいい」
「十兆円という額は国家予算の十パーセントですよ。すごい!」
田中が躍り上がって大家の肩を叩く。
「今の大家さんのセリフ、僕も言ってみたいなあ。ごく親しい人が言うのを間近で聞けるなんて、誰もが経験できることじゃないもんな」
「でも、どのようにして困った人にお金を配るの?」
山本の冷静な言葉に雰囲気がガラリと変わる。
「国に寄付するなんて、一番バカげているな」
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「かといって、困っている一人ひとりにお金を配るなんて不可能だわ」
「それに困っている人かどうか、どうやって見極めるんだ」
ふたりの反応を伺っていた大家が応じる。
「そうか。マスコミや国民は国のばらまき政策を批判するが、金をばらまくのは意外とむずかしいのかも知れん」
「だから、寄付を受け付ける団体があるのです。でも、その団体も寄付を受けた資金をすぐに配ることはしない。たとえ世間から早く被災者に渡せと催促されても、誰にいくら、いつ、どのような方法で、つまり手渡しなのか、銀行口座に振り込むのか。振り込むとすればその口座番号などの情報をどうやって手にするのか、などなど、結構問題があるわ。本当に困っている人に救いの手を差し延べるのは大変なことなんです」
山本が一旦目を閉じる。そしてキッと見開くと一気にしゃべり出す。
「グレーデッドは違うわ。彼らは被曝した人間に救いの手を差しのべた。そして健康状態を調べて適切な治療を行った。もちろん無料よ。その無料の意味はあとで説明するけれど、とにかく献身的に被曝者を援助した。被曝した人は簡単に判定できます。被曝線量を計ればいいのです。被曝線量の多い順番に適切な処置を行います。そしてその人の命を助けるのです」
「その恩義を感じてグレーデッドの一員となることは問題だが、仮に僕がそういう目に遭えば、グレーデッドに身を捧げるかも知れない」
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大家が落ちこむ。善意を人に伝え実行することがいかにむずかしいかを理解したからだ。永らく人間をやっていたが、このことに気が付かずに年月を経た自分に腹だたちさえ覚える。
「本当にグレーデッドは全滅したんだろうか」
山本は首を横に振ると今は何も映っていないテレビの画面を見つめる。田中も感慨深くテレビを見つめる。
「徐々に色々なことが明らかになっていくわ」
「今すぐ、明らかにすることは出来ないということか」
「私たちが見たり、聞いたり、経験することは、このテレビのようにほんの一部のことですべてじゃないわ。これだけ情報が溢れているけれど、それは脚色された情報。しかも、いつの間にか見る方も脚色された情報を好むようになってしまったわ」
少しはぐらかされた答えに田中は素直に追従する。
「現実を直視するのが怖くなったとでも?」
「あなたは原爆ドームの展示品や映像を直視できますか」
「初めは目を背けたが、徐々に慣れてきたというか、いや、違う!事実、歴史の事実から逃げてはいけないと、思い直して展示品のひとつひとつを見た」
「田中さんは正直な人ね。誰でも積極的に見たい展示品ではないわ。でも逃げないで現実を直視すると前向きになる。でも一方では慣れてくるという極めて危うい感性が人間にはあるの」
[205]
「絶対に、慣れじゃない!」
珍しく田中が興奮する。
「田中さんの気持ちを否定しているのではありません。もし、そのように思われたのなら、私の言い方が悪かったのです」
田中が恐縮すると、大家が山本に感心したような目線で言葉を掛ける。
「斬新なテレビ局のアナウンサーをしたり、グレーデッドに潜入したりして、修羅場をくぐってきた経験に裏打ちされた重い意見だ。若いのに感服した」
田中が大家に頷きながら「慣れ」について自説を展開する。
「いつかの番組で、バーチャルな世界の残酷な映像に慣れて、それを現実だと誤解して未成年者が人を殺すという特集を見ました。そういう場合の『慣れ』というのは人間本来持っている理性を破壊してしまうほどの恐ろしい『慣れ』だ」
「そうです。『慣れ』というのは、上手に使えば前に進むための大きなエネルギーになりますが、そうじゃない場合、人間を非人間化します」
「なんと、恐ろしい!」
*
「怖いが、あの未来の世界に戻ろう」
大家が預金通帳を見つめながら山本に要望する。
[206]
「やっぱり、お金が気になるんですか」
「あほ。あの世界のことが知りたい。ただそれだけだ」
「分かりました」
山本がリモコンに手を掛けると大家と田中が目眩を覚える。その目眩が落ちついて足元がしっかりしていることを確認した大家と田中が山本を見つめる。山本はドアに向かってノブに手を当てる。三人が部屋を出ると、雨はすっかりあがっていて眩しい日差しに驚いて空を見上げる。
「さあ、この街をじっくりと見学しましょう」
山本に続いて田中が大家に告げる。
「大家さんが億万長者、いや兆億長者になったこの街は、僕らがいた町とは超高層ビル以外にどこが違うんだろう」
「まず、レアメタルが大量に発見されたという場所に行こう」
「わしは知らん」
「だいたい分かります。あっ」
「どうした。田中さん」
「この世界というのか、ここで一儲けした大家さんはどこにいるんですか。ここにいる大家さんとは違う大家さんでしょ」
[207]
山本に質問したのは田中だったが、声を出したのは大家だった。
「確かにわしはレアメタルなんか知らないし、大金持ちになったという報告は誰からも受けておらん」
田中が山本を睨む。しかし、山本は気後れすることもなく田中に、そして大家に優しく説明する。
「私にはうまく説明できません。でも、こういう時間や空間の異常な状況をきっちりと説明できる人が現れるはずです。たとえばアインシュタイン博士のように」
「えっ!アインシュタインの理論なんて僕にはまったく理解不能だ。この場面で本当に分かり易く説明してくれる人が現れるなんて考えられない」
「わしはどっちでもいいというのか、元々理解するつもりはない」
「大家さん。そうじゃないのです。レアメタルで大儲けした大家さんと、細々と儲けていた大家さんのふたりが存在している。どちらが本物の大家さんか、僕には気がかりです」
「なるほど。でも、わしが本物だ」
「残念ながらそうじゃないわ」
大家が驚いて山本を仰ぐ。
「どちらの大家さんも本物で、目の前の大家さんはテレビに出演しているだけなんです」
「この大家さんがテレビに出演中だとすると、この世界の大家さんはテレビに出演したことが
[208]
ない大家さんなのか。なにがなんだかわからなくなっちゃった」
田中は顔全体で笑ってはいるが、視線だけはきびしく山本に向ける。山本がその視線から逃げるように天を仰いだとき一番立派な高層マンションに近い駅ビルの方から大きな声が聞こえる。
「駐車違反?この街の道路はすべてわしのものじゃ」
真っ黒な大型の高級乗用車の横で老人が警察官に罵声を浴びせる。
「あっ!テレビに出演していない方の大家さんだ」
「何か偉そうなこと言っているわ」
山本と田中が警察官に近づく。大家は背が高いふたりに隠れるようにして付いていく。
「自分の土地に車を止めただけじゃ。何が駐車違反じゃ」
立派なスーツを身につけたもうひとりの大家が警察官に噛みつく。
「ここは公道です」
警察官は躊躇することなく、タブレットを操作する。
「ここの路線価は三百六十五万円です」
「なんじゃ。その路線価というのは」
「国税庁が発表している土地の単価を道路に書きこんだ一平方メートル当たりの価額です」
目の前の土地を見て大家が呟く。
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「この土地の一平方メートル当たりの単価は三六五万円もするのか。かなり上がったな。ところで何を計算している?」
「罰金の額です」
「罰金!自分の土地に車を止めてなぜ罰金じゃ!」
「えーとこの車が道路を専有している面積は、大型車だから十平方メートル。そうすると三六五万円×十平方メートル÷三百六十五は」
「なんじゃ、その÷三百六十五というのは」
「違法駐車時間が十分でも一時間でも一日駐車したとみなしますので、占有していた土地の値段を三百六十五日で割るのです。罰金は一〇万円です。犯則ポイントはその一パーセントの百ポイント。今お持ちのポイントが五百ポイントですから、あと四百ポイントで運転免許停止。そしてあと九千六百ポイントで免許取消になります」
大家は胸の内ポケットから財布を取り出すと何枚かの一万円札を出して警察官に押しつける。
「持ってけ!ドロボー」
さすがの警察官も怒り出す。
「警察官に向かって泥棒呼ばわりするとは!罰金は裁判所から納付命令書が送られてきますから、それを持って銀行の窓口で払ってください」
今度は警察官が大家に犯則ポイントカードを押しつける。
[210]
「なんだ。その態度は」
小柄な大家が大柄な警察官を下から睨み付ける。山本がショルダーバッグから少し変わった形のカメラを取り出したとき、警察官が大家にくるりと背を向けて止めていた自転車に乗って去る。山本がそのカメラを不満そうに遠ざかる警察官の背中を見つめる大家に向ける。一方、山本と田中の後ろにいた大家が、犯則ポイントカードを持ったもうひとりの大家の顔を確かめようと一歩前に出たとき、犯則ポイントカード共々大家が山本の持つカメラの小さなレンズに吸いこまれるように消える。そして山本がニッコリと笑う。
「テレビに出演して貰うことにしました」
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