第五章 石川五左衛門


 関ヶ原の戦いが終わると京の街に華やかさが戻る。それは家康が朝廷から征夷大将軍の官職を得るために秀吉色を一掃すべく投資したからだ。その甲斐あって征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開く。形式的に朝廷を尊重することで京の人々の信頼を得て大坂を攻めるためだ。


 しかし、所詮家康は公家や町民から見ると田舎者だった。経済的にも大坂に頼っているので口には出さないが、秀吉びいきの者が多い。現に北政所は東山の高台寺で何の不自由もなく暮らしている。北政所には独特の魅力がある。さすが秀吉の嫁である。石田三成を討った後も家康は北政所に一切手をつけなかった。秀吉と違って北政所はすべての戦国大名と分け隔てなく付き合った。もし、関ヶ原の戦いで北政所が指揮を取っていれば、家康の調略は空振りとなっていただろう。しかし、北政所にそのような野心はなかった。それほど清い心の持ち主だった。


 しかし、今回は少し事情が違う。高台寺でその北政所が秀吉そっくりな小猿を匿っている。やがてその噂は家康の耳に入る。


***


「噂が誠ならやっかいだ」


 秀忠の報告に家康が案ずる。


「北政所と親しい者を高台寺に行かせて探りましょうか」


「それには及ばない。北政所は不思議な方だ。あのお方は淀君と距離を置いている。現に関ヶ原の戦いに勝利できたのも北政所が動かなかったからだ」

 

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 信長にも慕われ、秀吉と結婚し、家康にも影響を与える。


「とにかく不思議な方だ」


 ここで北政所の話題が消える。そして秀忠が本題に入る。


「それより今、京では夜な夜な奇妙な盗賊が現れております」


「なんだと!」


「公家や豪商の蔵を襲い金銀を略奪している」


 もう一度家康が驚くが冷静に言葉を発する。


「石川五右衛門は秀吉が成敗したはず」


 当時秀吉は朝廷から関白という役職を授けてもらうために数々の戦で焼き払われた京の街を復興し思うがままに改造した。家康もいつの間にかまったく同じことをしていた。このことに腹を立てたのかどうかは別として、反発する京の庶民から石川五右衛門は人気があった。秀吉に媚びへつらって蓄財する公家や商家を狙って金銀を盗んでは庶民にばらまいたのだ。しかし、秀吉によって捕らえられ釜ゆでの刑に処せられた。


「もちろん石川五右衛門ではありません」


「正体は?」


「不明です」


「浪人か?」

 

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「浪人ではありません。手口が余りにも見事です」


「忍び者か?」


「世の中、太平になりましたから失業した忍びの者かもしれません」


 徳川家も一部の忍者を隠密として温存したが、ほとんど解雇した。


「それに盗んだ金銀財宝を惜しげもなく庶民にまき散らしております」


「石川五右衛門にそっくりだ」


 当時の石川五右衛門が何のためにそのようなことをしたのかは分かっていない。家康は盗賊の本意がどこにあるのか考えながら秀忠に指示する。


「捨て置けぬ。すぐさま隠密に調べさせよ」


「手配済みです」


 秀忠の返事に年取った家康はよろよろと立ち上がると寝室に向かう。そして横になると秀忠との会話を整理することなく考えを巡らせる。


――いったい誰が石川五右衛門の真似をしているのだ


 ここであることに気付く。


――秀吉の匂いを払拭するために京の街並みを整備した


 確かにそうだが、朝廷の気を引くためだ。


――だから征夷大将軍を拝命できた

 

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 ここで数年前に二条城で凜々しくなった豊臣秀頼と会談したこと思い出す。


――秀吉の晩年の気持ちがよく分かる


 歳を考えればこの先のことが心配でなかなか眠れなかったがやがて眠りに着く。そのとき寝室の天井の隅の一角が少しだけ開く。服部半蔵だった。


――ただならぬ事態だ


 かといって半蔵も動けない。影武者の家康が直接京の街を調べることができないことは当然だが、すでに服部一族は忍者集団ではないからだ。半蔵も影武者として二条城で凜々しい秀頼と面会していた。


***


 三太夫は無事に北政所と小猿を大坂城へ移動させるために石川五右衛門のやり方を石川五左衛門に引き継がす。世の中が落ち着いた今がそのチャンスだと考えた。徳川方の忍者はもはや伊賀者の敵ではなかった。徳川方に付いた忍者軍団は隠密忍者軍に組み替えられて弱体化していた。一方、ある意味戦乱を熱望していたとは言え、志を重んずる三太夫を筆頭に伊賀者は豊臣家再興を願っていた。江戸幕府は余りにも疎遠な地にある。京や大坂は彼らにとって庭のような存在だ。それ故に今回の作戦は絶対に成功させなければならない。


 京の街が石川五左衛門の夜盗で大混乱している間に、ある朝、北政所と小猿は伏見で待機する根津甚八の沈胴船に乗り込む。見かけは後の十石舟と同じだが船体の下半分は沈胴式でそこにいれば外からはまったく見えない。

 

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つまり潜水艦のように潜れないが、下半分は水面下にある。水上部分には伏見の酒が入ったこも樽が積まれている。船頭役の根津甚八は別として、北政所や小猿、それに佐助が舟底に隠れているなど分かるはずもない。


 やがて伏見の運河から宇治川へ向かう。京の街では石川五左衛門の夜盗が激しくなる。さらに沈胴船は宇治川から淀川に入り大坂を目指す。もちろん要所では徳川方の眼が光っているが、酒を運ぶ単なる運搬船を怪しむ者はいない。根津甚八が操船する船は半日で大坂城近くの、後に八軒屋と呼ばれる船着き場に到着する。真っ赤な太陽が浪速の海に落ちる中を立派な衣服をまとった小猿が舟から出てくる。酒を受け取りに来た酒問屋の長老が腰を抜かす。


「太閤殿下だ!」


 他の者がこも樽を引き取りながら長老の視線を辿る。その昔大坂城を築城した秀吉はざっくばらんに街に出た。だから秀吉を知る者は多い。


「確かに似ている」


 何人かが納得の声をあげる。


「蘇った?」


「信じられない」


 商人が小猿に近寄ろうとすると佐助と根津甚八が制する。


「北政所様に頼まれて京から大坂にお連れした」

 

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 秀吉そっくりの小猿に目を奪われていた商人の視線が小猿の後ろにいる北政所に気付く。


「北政所様だ」


 驚きが重なった後一同がひれ伏す。しかし、北政所も一同に頭を下げる。


「お願いしたいことがあります。これから大坂城に向かいますが、もう辺りは暗い」


 顔をあげると信じられないほどの夕焼けが周りを包んでいる。北政所の言いたいことをくみ取った先ほどの長老がしわがれ声をあげる。


「分かりました。お送りいたします」


 ある商人も同調する。


「積み荷の酒の引き取りは後だ。まず秀吉様と北政所様を大坂城へお連れするんだ」


 佐助は商人に変装して紛れ込む。


***


「ならぬ。汚らわしい」


 北政所の入城に淀君が激怒する。しかし、侍女の誰もが従わない。その淀君に秀頼が今までになかった強い言葉を発する。


「母上。ここは北政所様の言うとおりに!」


 淀君は狼狽えながらも詰め寄る。


「母に楯突くのか」

 

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「滅相もない。豊臣家のため、日本のためです」


 そのとき廊下から声がする。


「北政所様が登城されました」


 秀頼がはっきりした声を出す。


「お通ししなさい」


 北政所が入ると淀君に微笑みかける。


「茶々(淀君の本名)。ご機嫌斜めのようですね」


 北政所は上座に座ろうともせずに小猿を招き入れる。そして秀頼に近づく。


「やっと一人前になりました」


 秀頼がひざまずくとそのまま正座して深々と頭を下げる。


「よくぞご無事で」


「町民がここまで案内してくれました。ところで幸村は?」


「母上が所払いしました」


「命の恩人を所払い?」


 緊迫していた雰囲気を北政所がゆっくりと変えていく。秀頼は「ご免」と言って部屋を出る。


「茶々。この子藤吉郎にそっくりでしょう」


 若いときの秀吉を彷彿させる小猿が茶々を見据える。恐れおののく茶々は思わず側にあった湯飲みを投げつけるが小猿は機敏にその湯飲みを左手で補足する。

 

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「ほほほ。随分派手な挨拶」

 

 北政所が大笑いすると秀頼と幸村が入ってくる。笑い声に反応した幸村が淀君に一礼する。


「新しい大坂城主を気に召されたようですね。よかった、よかった」


 秀頼が追い打ちをかける。


「母上。今までの苦労が報われるときが来ました」


 淀君は立ち上がりながらわめく。


「狂っている。みんな狂っている。正気の沙汰じゃない」


 そう言って秀頼を押しのけて部屋を出ようとすると小猿から先ほどの湯飲みが差し出される。淀君が振り払おうとするが空振りに終わる。小猿が初めて声を出す。


「お茶が残っております」


 不思議なことに投げつけられた湯飲みにはキチンとお茶が残っている。しかし、淀君はそんなことより小猿の声に驚く。その声は秀吉そのものだった。


***


 水菓で手なずけられたわけではないが。小猿は北政所を慕う。慕うと言うよりは実の母親と思うようになった。大猿も小猿を我が子のように育てたが、やはり母性は強い。いつの間にか小猿は木下藤吉郎として振る舞うようになった。百姓から関白にまで上り詰めた秀吉より振り出しがもっと下位だった。

 

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つまり狼少年のように猿に育てられた野生の人間だった。大猿に育てられ北政所の愛情を受けた。小猿にはすべてを受け入れる素養があった。


 始め幸村は躊躇したが意外なことに秀頼がそんな小猿を受け入れてから事態は急変した。淀君を除くすべての人々が、もちろん大坂庶民も含めて小猿を秀吉の生まれ変わりとして受け入れる雰囲気が広がる。


 すでに京を恐怖のどん底に陥れた石川五左衛門の役目は終わった。今五左衛門は三太夫の屋敷にいる。


「ご苦労であった。お前の活躍で無事北政所様を大坂に送り届けることができた。


「これからは?」


 さすがの三太夫も即座に答えることができない。すると石川五左衛門が悪戯ぽく笑う。


「お前の親父もそうだが、頭領を頭領とも思わない性分は同じだな」


「楯突くつもりはない」


「何を言いたい」


「俺は小猿が気に入った」


 三太夫が首を傾げる。統率が取れた組織と言えども必ずや変わった者がいる。それが石川一族だった。


「父五右衛門が京で暴れまくったが、秀吉に釜ゆでの刑に処せられた。ご存じか」

 

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 上司を上司とも思わないものの露骨な反発心はない。少し間を置いてから三太夫が応える。


「もちろん。釜ゆでの刑を受ける場に居合わせた。釜の中の五右衛門と視線が合ったときその目元が笑っていた。頭領のわしにやんちゃな五右衛門は笑って応えたのじゃ」


「そうか。でもなぜ笑ったのか分かるか」


「分からぬ。迷惑をかけたという懺悔ではないかと思った」


「浅はかな」


 五左衛門が大笑いする。それほど石川一族は自由奔放なのだ。しかし、三太夫は威厳を崩すことはないが叱責はしない。それどころか頭を下げる。その三太夫に五左衛門は真摯に応える。三太夫を困らせるためにここに来たのではなかった。


「俺も釜ゆでの刑になりたい」


 三太夫が驚いて顔をあげる。


「何を考えておる?」


「ずっと先のことになるだろうが、俺は蘇った秀吉に釜ゆでの刑に処せられるのだ。それまでゆっくりさせてもらう」


 どちらが頭領で部下なのか分からないような会話が続く。


「いずこへ向かう?」


「駿府。そして江戸だ」

 

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「何故に」


「盗みの腕を磨くのだ。もう京は飽きた」


 五左衛門が高笑いする。


「聞けば家康は故郷の駿府を商都にするつもりらしい。その思いを砕いてやる。その次に幕府となった江戸を混乱に陥れる。そして再び京に帰り……」


 もう付いていけないという表情をして三太夫が優しく応ずる。


「そんなことをすれば釜ゆでの刑を執行するのは家康か、秀忠だ」


「それはない。俺は必ず京に舞い戻り再び関白になる小猿こと秀吉に釜ゆでの刑を受ける」


 まだ五左衛門は若い。それに引き換え家康は年寄りだし、若かった幸村もそれなし歳を取った。もちろん三太夫もだ。


――時代が変わる。だがその方向が分からない。

 

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