第八章 社会保険料に仕込まれた罠


 田中さんと大家さんの国では国立中央銀行の総裁がデフレ脱却と称してインフレ政策を頑固に続けているが効果が上がらない。


「インフレ率が2%になると給料は2%以上アップしなければ喜ぶ者はいませんよね」


 この田中さんの言葉に大家さんが驚く。


「そのとおりじゃが、どうしたんじゃ?体調でも……」


「失礼ですね。こう見えてもあのテレビでいろんなことを勉強してるんですよ」


「すまん、すまん。ところで何を言いたいのじゃ?」


「僕の場合、給料は雀の涙ほどしか上がりません。銀行の預金金利並みです」


「そういえば、ついこの間定期預金が満期になったが、利息は八百円だった」


「いくら預けていたんですか」


「一千万円じゃ」


「一千万円!」


 田中さんは利息の金額より預入金額に驚くが大家さんはかまわず続ける。


「たったの0・01%しか利息が付かんのじゃ。しかも20%もの税金を取りおうる」

 

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「そういえば最近利息なんかもらったことないなあ」


「預金が少ないからじゃ。無駄遣いせずに預金するのだぞ」


「だって家賃が……」


「わしは田中さんから家賃はもらっておらん」


「そうでした。テレビを見せる代わりに家賃はタダだった」


「ところで何を話していたのじゃ?」


「給料が上がらずにインフレになると困るのです。中央銀行の総裁が『インフレ、インフレ』


と言ってますが、デフレの方が暮らしやすい」


「そうじゃのう」


「しかも最近給料が減りました」


「どういうことじゃ?」


「残業がなくなったのです」


「最近過労死が多いので労働監督署がうるさいからな。でもサービス残業じゃないのか?」


「三時間残業しても一時間分しかつけてくれません。でも貴重でした」


「ブラック企業じゃ!」


「いえ、白いビルで営業しています」


***

 

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 首相は働き方改革で残業を減らすという。でも残業が減れば給料は下がるが、副業をしてもいいという。副業と残業の違いは?サラリーマンにとってどちらも同じだ。残業の方が慣れた仕事の延長だから動かす筋肉は一緒だ。まともな残業代を受け取れるのなら割り増しも付く。


 残業はともかく給料がインフレ率と同じだけ上がっても増えた分に掛かる税金と社会保険料を差し引くとインフレ率を下回ることになる。


 さておき、この国では給料にかかる税金は所得税と住民税だけだが、社会保険料は健康保険料、介護保険料、高齢者援助保険料、子供教育援助保険料、年金保険料、失業保険料、労働災害保険料と多岐にわたる。労働災害保険料は全額会社負担だがそのほかの保険料は会社と労働者が折半する。この中で一番安い保険料は失業保険料だ。最近この保険料を下げたと言って政府は自慢するが、他の保険料をどんどん増額するばかりか子供教育援助保険制度など新設した。元々介護保険料、高齢者援助保険料、子供教育援助保険料はなかったが、財政が持たなくなったのだ。本来増税で賄うべきだが、増税すれば選挙が怖い。


 そうすると税金より社会保険料を活用する方がやりやすい。少し前に百年安心の年金制度を構築したとある社会保険省の大臣が胸を張ったが数年で破綻した。要は安心が欲しいなら保険料を納めろと言うことに他ならない。保険料が多少上がっても国民は保険料を支払うと高をくくっている。いわゆる資産家は老後に心配はない。心配するのは社会的弱者だ。健康保険にしてもそうだ。資産家は先進医療が高額であっても躊躇せずに受ける。だが社会的弱者は最低の医療しか受けられない。

 

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 保険というものはわずかな掛け金で不測の事態に備えるものだ。いわゆる助け合いだ。そして最後は政府が助けてくれるという信頼関係が根本にある。その政府はこの根本原理を無視して言い訳に終始する。保険制度に言い訳は通用しない。なぜなら保険制度というものは信頼関係を基本としているからだ。


 転じて民間の保険会社はどうだろうか。


 まず勧誘に関しては国よりも比べようがないぐらい親切だ。だが契約してしまうと冷たい。釣った魚に餌は要らない。つまり商売だ。


 保険会社は許認可企業だ。だからきっちりしているのかと言えばそうではない。詐欺師というのは紳士的で優しい。徹底的に相手を信頼させる。社会保険省の役人が紳士に見えないのは仕方がないのかもしれないが、保険会社の営業マンは契約するまではとにかく親切だ。


***


 田中さんが例のテレビの電源を入れると社会保険制度に詳しい学者が現れる。


「この人はまともなことを言うことで有名な学者じゃ」


 その学者が屈託なく持論を述べる。その持論とは……。学者がテレビの画面から抜け出して田中さんと大家さんの前に立つ。


「私が日本安心第一生命保険会社の営業マンだとします」

 

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「えっ?」


 驚く田中さんを無視して大家さんの手を握ると田中さんが文句を言う。


「なぜ僕を無視するんだ!」


「私どもは貧乏人を相手にしません」


「保険会社は国より親切だと言ってたじゃないか」


「それは相手が金持ちの場合です」


 学者が扮する営業マンが田中さんを鼻であしらってから大家さんに愛想を振りまく。


「健康保険で受けられない先端医療保険をお勧めします。今や先端医療技術は目を見張るほど進歩しています」


「わしゃ騙されんぞ」


「まあ、話を聞いてください」


 学者は完全に営業マンに変身する。


「政府は貧乏人相手に健康保険を売っていますが、私どもは違います。競争を勝ち抜いた栄誉ある企業家や資産家の方に何千万、場合によっては億単位の費用が掛かる先端医療をわずかな掛け金で受けられる素晴らしい保険をご用意しました」


 差し出されたパンフレットを大家さんが受け取る。


「……と言うわけで数十万円の負担で何千万円もの先端医療を受けることが可能なのです」

 

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「へー、そうか」


 大家さんは完全に営業マンのペースに引き込まれる。


「そんな馬鹿な!大家さん!騙されてはいけません」


「いや、いい話じゃ」


「だって数十万円の負担で数千万円の治療費を保険会社が負担すれば会社が潰れるじゃないですか。おかしいと思いませんか」


 大家さんは田中さんの忠告に耳を貸さなくなる。


「もう少し話を聞きたい」


「どんなことでも聞いてください。ていねいに説明しますから。まず先端医療でどんな難病が治せるのか?説明しましょう」


***


「成程!」


 大家さんが得心する。


「素晴らしい保険でしょ」


「気に入った!一番お勧めの保険は?」


「大家さんのようなビップな方には『超スペシャルプレミアム先端医療技術保険』が打って付けです」

 

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「大家さん!」


 田中さんが割って入る。


「その保険の掛け金は一千万円ですよ!それにお任せなんか危険すぎます」


「安い!一千万円でどんな先端医療も無制限に受けられるんだぞ」


「でも症状が出たときに受けるものなんでしょ」


「絶えず健康診断をして大家さんの異変を見逃しません」


 営業マンが切り返すと田中さんも負けてはいない。


「毎日健康診断を受けるなんて非現実的では?」


「毎日とは言っていません。でも体調の変化を見逃しません。本人が『おかしい』と申し出れば超精密検査をします。しかもその検査をする医者は超一流です」


「そんな超一流の医者がいるのなら庶民に寄り添うべきでしょう」


「庶民は検査を受けたがりません。受けるとしても簡単な検査だけです」


「それは何日もかかる検査を受ける環境にないからです。検査のために何日も休めません」


「だから手遅れになるのです。定期検診はいい加減なんものです」


「でも政府や市町村はいい加減な検査とは言ってません。どんどん受診するよう勧めています」


 ここで営業マンがニタリと笑う。


「国や市町村が勧める健康診断を信頼できますか?」

 

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「それは……」


「国は信用できん」


 大家さんのこの一言で田中さんが黙ると営業マンが契約書類を大家さんの前に置く。


「ここに署名してください」


 田中さんはその契約書を取り上げると破り捨てる。怒り出すかと思った田中さんに営業マン、いや営業マンに扮した学者が田中さんの肩をポンと叩いて大家さんを見つめる。


「いい息子さんを持ってよかったですね」


「息子じゃない」


「えっ?まあ、いいか」


 大家さんと田中さんが顔を見合わせる。


「人間は弱いものです。その弱さを突いて親切なことを言えば、身近な者が苦言を呈しても本人は反発する。そして詐欺まがいの話を信用する。心配する身近な者の言葉はきつい。でも保険の営業マンは詐欺師ではないが親切です。つまり優しい言葉が身内の警告を追いやります」


 キョトンとするふたりに学者が続ける。


「今お勧めした保険はまやかしではありません。先端医療を受ける前に死亡する資産家が多いから保険会社にとって非常に儲かる商品です。でも保険内容を完全に理解していなくても一部の契約者が助かれば、その人たちは保険会社に感謝します。その一握りの人々の体験を宣伝すれば加入者を増やせます。だからこの保険は売れるし儲かります」

 

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「思ったとおりだ」


 田中さんが胸を張ると大家さんが尋ねる。


「この先端医療技術保険のどこがおかしいと考えたのじゃ?」


「保険会社が本人のためにと美辞麗句を並べれば並べるほどおかしいと思いました」


 学者が田中さんに訂正を求める。


「そうじゃなくて先端医療技術保険というのは保険じゃないと見抜いたからです」


 まだ田中さんは気付いていないが大家さんが「成程」と手を打つ。


「保険の本質はみんなが少しずつお金を出し合って困った人を助けるという相互補助制度なんじゃ。もはや先端医療技術保険は保険とは言えない。そこを田中さんは見破ったのじゃ」


 学者が田中さんを指さして大家さんに尋ねる。


「どういう関係なのですか?」


「頼りがいのある親友じゃ」

 

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