第十四章 天の川


 激しく二条城を攻撃した秀忠に朗報が入る。男山に防衛線を敷こうとした豊臣軍が枚方の天の川まで撤退して対岸の天王山を目指すという情報を得たからだ。しかし、それは正確な情報ではなかった。


 幸村は小猿と安井道頓に天ヶ瀬から男山まで戻るよう指示した。天ヶ瀬の堰を建築した人夫の総数は数百人そこそこだったが、この集団を甲賀者が大軍と勘違いした。安井道頓は更なる指示に基づいて男山から天の川までの地形を綿密に調査しながら天の川が淀川に注ぐ手前の河口で幸村が手配した多数の人夫と合流する。これらの集団をまたしても甲賀者は兵隊と見誤って淀川から天王山方面に移動するとという報告を秀忠に伝えた。


 一方宇治川と木津川を渡る橋は完成間近だ。すべてがうまくいっているように秀忠には思えた。しかし、どのような橋ができるかまでは確認していない。現場を見ていない秀忠は奇妙な自信を持つ。


 安井道頓はすぐに天の川の拡幅工事に取りかかる。天の川の川底を上流に向かって掘り下げ淀川に向かう水の流れを逆流させようと大改造するのだ。その作業は小猿の励ましを受けた人夫によって時間をかけずに成し遂げられる。つまり「秀吉の生まれ変わり」と揶揄される小猿の影響力は安井道頓すら驚くほどであった。


「もうできたのか」


 白馬に乗った幸村が現場に現れる。すぐさま小猿と安井道頓が駆け寄り手綱を引き寄せる。

 

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馬から飛び降りると幸村は小猿の前で座り両手を地面に着けて頭を下げる。驚いた小猿が同じような体勢を取ろうとすると幸村が囁く。


「お前は秀吉。偉そうにしていればよい」


 戸惑う小猿に今度は大きな声で叫ぶ。


「本来なら私がここで安井道頓の指導を受けて指揮監督すべきだったのに誠に申し訳ありません。お許しを」


 どう返事していいのか分からない小猿に安井道頓がざっくばらんに助言する。


「『許す』と言えばいい」


「許す」


 この小猿の一言に人夫たちは大歓声をあげる。小猿は素直に周りに笑顔を向ける。これがある意味猿芝居の限界だと思った安井道頓が立ち上がる幸村に近づく。


「いい芝居を見せていただいた」


 そして幸村の肩をポンと叩くが幸村の表情は堅い。


「思惑どおり淀川が増水すれば天の川の河口から上流の河内湖に向かって水が逆流するのか」


「もちろん!」


「その後は?」


「河口より少し入ったところで決壊する」

 

[169]

 

 

「決壊すればこの辺は池になるな」


「池というようなちっぽけなものではありません。湖だ。がっはっは」


 しかし、幸村は真剣に尋ねる。


「この辺の民は土地を失うことになる」


「仕方がない」


「そういうわけには行かない」


「おっしゃる意味が……」


 幸村は小猿と安井道頓とともに人夫が起居する粗末な小屋に入る。


「まずは所払いを」


「そんなことしなくても誰もこの小屋には入らない」


 人夫とともに安井道頓が出ようとする。


「勘違いするな。お前がいなければ話が進まない」


 幸村が初めて笑う。


「さて問題はこの付近の民のことだ。天ヶ瀬で堰き止めた水を一気に流すと本当にこの地域は湖となるのか」


 逆に安井道頓の表情が厳しくなる。


「なぜ天の川を逆流させなければならないのか?わしは黙って幸村の言うとおりにしたが……」

 

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「分かっている。徳川軍が宇治川を渡ろうとしたときに一気に水を流せば宇治川どころか木津川も渡れない」


「そうだ。男山にも到達できない」


「そのとおり。しかし、いったん天ヶ瀬の堰を切ればすぐに水を蓄えることはできない」


「確かに。もう一度天ヶ瀬に堰を作れと言われても……」


「宇治川や木津川に橋を造ったら徳川軍は強力な大砲を優先して男山に向かわせるだろう。もちろんその前に阻止するのが本来の戦い方だが、天ヶ瀬に堰を造るより宇治川や木津川に橋を造る方が簡単だ」


 珍しく小猿が口を挟む。


「天ヶ瀬の堰は切り札」


 幸村が驚くより先に安井道頓が小猿の手首を握る。


「もう秀吉そのものだ。小猿、いや秀吉様。今まで以上にこの道頓を好きなように使ってくだされ」


 安井道頓の目に涙が浮かぶ。しかし、小猿は意外と平静だ。


「この作戦を立てたのは幸村。私は幸村の部下です」


 幸村の脳裏に秀頼の姿が浮かぶが振り切って応じる。


「徳川の強力な大砲をここですべて葬りたい。そのための作戦だ。小猿!いや秀吉様!それに道頓!頼むぞ!」

 

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***


 徳川軍は困難と思われた全軍を男山に集結させることに成功した。


「さすが秀忠様。後は大坂を目指すのみ」


 各軍の旗本、大名が満面の笑みで石清水八幡宮を参拝する秀忠を取り囲む。奢りを自制しようとするが表情は緩む。遅れて到着した家康も、もちろん服部半蔵の影武者だが、合流して参拝する。


「ここを押さえれば大坂は近い」


 すでに砲兵部隊は男山を迂回して天の川に向かっている。重い大砲を移動させるには時間がかかるから参拝を省略した。


「梅雨は避けたい」


 余裕があるのに欲が先立つ。本物の家康ならここで作戦を見直しただろうが、すでに徳川軍は世代交代が進んで先代がなした関ヶ原以降の勝利を自分たちのものと過信する風潮が蔓延していた。しかも強力な大砲を持っている。そこで長老が引き締める。


「天皇や二条城の動きは?」


「心配には及ばない」


「侮ってはなりません」

 

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「未だ天王山方面に気が移っているようだ」


「そう見せかけているのかも知れません」


 やがて若い世代の旗本や大名たちは長老たちを無視するようになる。関ヶ原の戦いから長い年月が流れて世代間に溝が生ずる。それほど権力惚けが生じていた。その意味で攻められる側の幸村には絶えず緊張感があった。この違いが今後の戦いを決することになる。


「さて我らも出陣する。梅雨が近い」


 石清水八幡宮から徳川軍の幟の数が減る。大軍故に遠くからでも徳川軍の動向がはっきりのぼり分かることに秀忠は気付かない。その男山の南側から光が宇治川の川上方向へ向かう。伊賀者が鏡板を使って連絡を取っている。


 男山近くの宇治川に水位の変化は見られないが、すでに琵琶湖の周辺は梅雨入りしている。


もちろん甲賀者から徳川軍に伝えられてはいるが、意に介する者はいない。


***


 露払い程度の兵隊を先頭に砲兵隊がゆっくりと進む。その後方を追いついた本隊が続く。天の川に到着したとき本隊が砲兵隊を追い越し始める。ここからは豊臣軍の支配下だと認識したからだ。それと小川とはいえ天の川を渡るのに砲兵隊は時間がかかる。


「火薬が濡れないように油紙で厳重に包め。そのまま大坂まで運ぶ」


 梅雨が迫っているし、大坂城まで大砲を使うことがないからだ。

 

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「小さな川にしては意外と川底が深い」


「おかしいぞ。淀川に合流する川だと聞いていたが流れが逆だ」


「河内湖に向かって流れているのだろう。心配するな」


「とにかく渡るぞ」


 思いのほか天の川を渡るのに苦労する。そのとき男山に残っていた後方支援部隊から伝令役の甲賀者が到着する。


「宇治川の水量が急激に増えた!気をつけろ!」


 しかし、何を意味するのか誰にも分からない。


「気をつけろと言われても……」


「とにかく天の川を渡る!」


 何とか先頭の何台かの大砲が渡り切ったとき淀川の方から不気味な音が届く。


「なんだ?」


 地響きではない。水と水がぶつかり合うような音がする。


「急げ!」


 急に天の川の水位が上昇する。後退すればいいのに焦りからか大砲を運ぶ馬の尻に鞭を入れる。馬のいななきと砲兵隊の叫びが混ざり合う。天の川は三角波を立てながら上流に向かう。溺死する兵士と馬が川底に消える。流れは収まるどころかまるで海岸を打ち付ける大波のようになる。

 

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その波は高くない堤を超えると自由奔放に周辺へ拡大する。天の川は地獄の川となり周りをなめ尽くす。


 すでに天の川を渡った秀忠が自慢の砲兵隊の惨事に狼狽える。やがて陽が落ちて何もかも見えなくなるが、馬の鳴き声と兵士の嘆き声がやまない。天を仰ぐと梅雨が明けたのか満天の星が輝いている。


「雨が降っていないのになぜ川の水位があがったのだ?」


「ここはいったん後退すべきでは?」


 家康が秀忠に耳打ちする。もちろん影武者としての意見だから秀忠はすぐ否定する。


「ここで逃げれば徳川の恥」


「もし、これが幸村の作戦ならば相手の思う壺」


「幸村と言えども天変地異を味方にするなど不可能」


「それならば後退したとしても恥にはならない」


「それは……」


 秀忠は意味もなく夜空を見上げる。そして丁重に家康に告げる。


「夜明けを待ちます。被害の程度を確認してから判断します」


 しかし、晴れた朝を迎えても秀忠の心は曇っていた。


***

 

[175]

 

 

 夜半過ぎには水は引いたが周辺は泥沼化していた。雲ひとつない月夜で水死した兵が無残に転がっているのがはっきりと見える。夏の夜明けは早い。青白い風景が赤に変化する。朝焼けに見とれる余裕などない。しかし、目の前の悲惨な光景とは裏腹に被害は思ったより大きくなかった。


「大砲の半数近くが無事です」


「兵隊は天の川を渡りかけていた部隊が全滅しただけです」


 そうはいっても精神的なダメージは甚大だった。呼応する声に力がない。指揮官が一番気にするところだ。


「火薬は?」


 油紙で包んでいても水をかぶればただではすまない。大量の大水で我が身を守るだけでも精一杯だから荷車に積まれた火薬や弾は流された。


「濡れた火薬は放置しろ。とにかく天の川を渡り切るのだ」


 秀忠は危険を承知で天の川を渡った先で陣を張る。ここで飯を食わなければ戦えないと判断した。そして天皇が二条城に兵を集中していたことを思い出す。それが幸村の指示なら大問題だと気付くとまったく無傷な先頭隊に命令する。


「対岸(天王山方面)の見張りを怠るな」


 やがて第一報が入る。

 

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「淀川の水位がかなり低い」


「何?」


 秀忠が理解に苦しむ。桂川、宇治川、木津川の水を集めて大坂湾に向かう淀川は大河だ。


「どれぐらい?」


「腰程度の浅さです」


「そんなに浅くなったのか!」


 さらに後方から報告が入る。


「天の川の水が引きません。大水の時ほどではありませんが水位が落ちません」


「どういうことだ!」


 落ち着きを取り戻しかけていた徳川軍に動揺が広がる。行軍を共にしていた老兵が咳き込みながら進言する。


「その昔、秀吉は備中高松城を水攻めで落とした。川を堰き止めて高松城を孤立させた。その堰き止めの工事はわずか数日だったという」


「昔話など聞きたくない」


 秀忠が退ける。しかし、老兵は引かない。


「今の技術なら一日で可能かもしれません。しかも幸村は秀吉を上回る知恵者」


 続いて第二報が入る。

 

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「天皇軍が淀川を渡ってこちらに向かってきます」


「何だと!備えよ!」


 不意を突かれると相手が大きく見えるものだ。徳川軍は余儀なく後退を迫られるが、天の川に阻まれる。かろうじて後退した秀忠は逃げ延びるが、大砲のほとんどが豊臣軍に奪われる。幸いなことに火薬が使い物にならないから、その大砲で逆襲を受けることはなかった。


***


 二条城を出発した天皇軍は天王山の麓から対岸の天の川あたりで右往左往している徳川軍に近づく。天皇に忠誠心を誓ったとはいえ元徳川軍の行動を監視するため石川五左衛門やその部下が紛れ込む。


 そのとき家康が岸辺の小高いところに現れる。そして老人とは思えない大きな声を発する。


「わしはお前たちの主君の家康である!」


 水量が少ないので流れは静かだから家康の声は難なく天皇軍に届く。


「大坂攻めに協力するのならこれまでのこと、まさしく水に流そう!」


 鉄砲を頭の上に乗せて淀川の真ん中まで進んだ先頭集団に動揺が広がる。このまま渡って戦うのか、それとも合流するのか、京の文化に触れた城兵たちの心が決心を鈍らせる。


「それどころか、この戦で武勲をあげた者はそれなりの褒美を授ける!」


 家康扮する服部半蔵も必死だ。しかし、どこからともなく不安な声がする。

 

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「所詮、俺たちは裏切り者だ。合流すれば最前線隊に組み込まれて捨て石にされるだけだ」


「しかし……」


 迷う者の心を揺さぶる声がする。


「天皇は我ら田舎侍に花見までさせてくれた」


 調略には調略。家康の誘惑に石川五左衛門らは周りの兵士に同じ誘惑を持って対処する。


「ここで合流すれば天皇を裏切ることになる。二重の裏切りは許されない。ここで徳川軍に打撃を与えれば手柄は手柄。そうすれば永遠に京に住めることになる」


 この言葉にある兵士がその声の主に首を傾げる。


「見かけない顔だ。名を名乗れ!」


 部下では心許ないと石川五左衛門本人が返答する。


「私は御所の警備をする藤原の桜花という公家。天皇の勅命を受けて紛れ込ませていただいた。本当に天皇を守るために戦うのか確かるためだ。天皇は豊臣に与しろとはおっしゃらなかった。京は都。そしてその文化を守るために独立した。その京を徳川は踏み台にしている。ところが豊臣はその京を守ろうとする。よくよく考えて欲しい」


 これ以上説明するのは無駄と考えて足軽に扮した石川五左衛門は背を向けて引き返そうとする。そのとき大坂方面から豊臣の幟を掲げた多数の兵士が天の川に向かう光景に天皇軍の兵士が気付く。

 

[179]

 

 

 家康がそれに気付いたのか、大きな声を発する。


「返事は!」


 全員の視線が家康に向く。


「裏切り続けるのなら皆殺しにする!」


 これが取り返せない言葉となる。もし本物の家康がこの場にいればもっと粘り強く説得したに違いない。


「見ろ!」


 腰まで水に浸かりながら岸辺を見る。さすが元徳川の城兵。鉄砲隊が見あたらないことに気付く。


「火薬が濡れて使い物にならないのだ」


 頭上の鉄砲の先に耐水性のある皮袋に入れた銃弾と火薬がぶら下げられている。


「ここで家康を討てば俺たちは天皇の直属隊になれるぞ」


「花見のお返しだ」


 家康が慌てて後退する。天皇側の兵士たちが鉄砲に水がかからないように用心しながら対岸へ向かう。徳川軍は家康が後退したのを見て統率がとれなくなる。それを見た石川五左衛門が檄を飛ばす。


「今だ!必ずや手柄を立てた者をきちんと天皇に伝える!」

 

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 誰もが我先に進軍する。そして対岸に到着すると鉄砲の準備をしてすぐさま隊列を整える。


「逃げるな。戦え!」


 秀忠の必死の命令も天皇軍側の興奮した歓声にかき消される。


「撤退!」


 この家康の命令に秀忠の命令は力を失う。


「男山まで撤退する。今ごろ幸村はこちらに兵を差し向けているはず」


 この辺の判断は影武者とはいえ家康の方が上回っていた。天皇軍の総攻撃が始まる。石川五左衛門もいつ幸村が現れるのか期待する。そのときある足軽が石川五左衛門の腕を取る。


「五左衛門」


「才蔵!」


「十分だ。二条城に戻れ」


「なんと!今攻めれば徳川軍は全滅だぞ」


「いや。徳川は岐阜城から伏見桃山城までの経路を確保している。補給はいくらでもできる」


「幸村の考えを知りたい」


「幸村様は徳川軍の前線の兵站をできるだけ長くしたいのだ」


「分からん」


 ピンポイントの攻撃を得意とする五左衛門に理解できない。

 

[181]

 

 

「総力戦となれば兵站が長いほど体力が消耗する」


「まどろっこしい。結論を言え!」


「声を落とせ。誰が聞いているかも知れない」


 ふたりは水辺に生えた葦の中に身を移す。


「今回の徳川軍の攻撃は伏見桃山城から大坂に向かう一経路に集約されている」


 反論しようとする五左衛門を押さえて才蔵が続ける。


「すべてをこの経路に集中している徳川軍は強力だ。まるで大蛇のよう」


 やっと素直に聞く耳を持った五左衛門にたたみかけるように才蔵が説得する。やがて五左衛門が納得する。


「大蛇と言えども長い身体を維持するのは難しいと言うことか」


「せっかく天の川まで誘い出した。しかも幸村の戦い方に恐怖感を持たせることに成功した。大半の大砲も使い物にならなくなったた。それでも徳川軍は強力だ。この天の川の戦いで勝利しても、逆に伏見桃山城から近江を経て岐阜城を攻め落とすことは不可能。決戦は大坂。大坂城のすごさを見せつけて全国の諸大名を味方に付なければならない」


 ここで五右衛門は自分の存在がちっぽけなものだと気付く。


「そこまで考えてのことか。だがここで存分に戦う。そして引き上げる。大坂だけではない。京の底力を見せつけてやる」

 

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「はやるな。ほどほどでいい。では」


 才蔵が葦の野原から消えるとすでに鉄砲隊が対岸に上陸していた。五左衛門が檄を飛ばすまでもなく徳川軍を容赦なく攻撃する。まるでこの天の川周辺で勝負がつきそうな勢いだ。


 五左衛門の父五右衛門は秀吉に釜ゆでの刑に処されたが、その秀吉を支える幸村になぜか惚れ込んでしまう。そして苦笑しながら遠眼鏡で戦況を確認する。


――誰が際立った武勲をあげるか公平に見定めなければ……


 ところが目に飛び込んできたのは戦場から離れた少し小高い徳川軍方の本陣だった。


***


 天の川の氾濫に次ぐ氾濫で本陣と言っても名ばかりで手薄で、なんと家康と秀忠以外に誰もいない。遠眼鏡で覗いていた五右衛門が武者震いする。どちらが家康か秀忠かはすぐわかる。


――今襲えばこの戦、豊臣の、いや幸村の勝ちだ


 部下に指示を出す決心をしたとき遠眼鏡の中で家康が秀忠の首に短刀を差し込んだ光景を目の当たりにする。


――何だ!


 すると不思議なことに秀忠がもう一人現れる。その秀忠が家康の前で息絶えた秀忠に藁布団を掛けて隠してしまう。そして軍扇を高々とあげて裏返す。これは撤退を意味する。


 即座に五左衛門は天皇軍の指揮官の下に向かう。そして忠言する。

 

[183]

 

 

「撤退するんだ」


「桜花殿。何をおっしゃる?徳川軍は全滅に近い」


「違う。家康はこの戦いを放棄して京に戻る」


「二条城の城兵たちの戦いはつぶさに見せてもらった。見事だった」


「ここで家康や秀忠を討てば我らはこの先安心して暮らせる。ここが正念場だ」


 勢いに乗るこの指揮官に譲る気持ちはない。


「よく考えろ!徳川軍が作戦を変更して京に戻って二条城や淀城を再び支配下に置いて体勢を整えてから再度大坂攻めを再開する作戦に変更するとしたら京は大変なことになる」


 さすがに指揮官が考え直す。


「確かに。我らが京に戻るより早く家康が戻れば驚異だ」


「そのとおり」


「しかし、この機会を逃したくない。弾が尽きたら京に戻る」


「欲を出すな。戻る途中でどんなことがあるかも知れない。弾は大事に取っておくべき」


 指揮官は大きく頷いてから五左衛門をにらむ。


「桜花殿。本当に公家の方か?」


 そのとき貧相な老人が近づいてくる。


「川は氾濫するし、わずかな田んぼも戦で踏みにじられる。お前ら一体何を考えている?」

 

[184]

 

 

 曲がった腰を伸ばそうと背伸びしたとき「ボキボキ」と骨がこする音がする。


「もういい加減にしてくれないか」


 指揮官も五左衛門も不意を突かれる。特に五左衛門は気配なく現れた老人を見て驚く。


「とっとと帰ってくれ」


 水を差されたというのはこういうことかと指揮官は全軍に撤退命令を出すためこの場を離れる。五左衛門は周りに誰もいないことを確認すると老人に近づく。


「四貫目……どうしてここに」


 四貫目、百地一族きっての忍術の使い手だ。余程のことがないと現れないので幻の忍者とも呼ばれる。驚いても大きな声をあげなかった五左衛門に四貫目が囁く。


「お前はちっぽけな屋敷を襲うのは旨いが、戦の術はまったく素人」


 恐縮して五左衛門が膝を着いて礼をする。


「ほう。お前でも人様に膝を着くことがあるのか」


「お耳に入れたいことが」


「ほっほっほ。分かっておる」


「秀忠を家康が殺しました」


「いずれそうなるとは思っていたが」


「えっ?」

 

[185]

 

 

「三太夫もそう読んでいた。幸村もだ」


 もう五左衛門に驚く気力さえない。


「天皇軍の指揮官に言ったように、お前もここは上手に京に戻ることだ」


「分かりました」


「随分素直になったな」


 頷きながら立ち上がると五左衛門は京を目指す。

 

[186]