第五章  放棄


* 防衛省 *

「雨がほとんど降らない」


「地球全体の温度がドンドン上昇しています」


「海が分断されて陸地に到達できないため、すべての海上物流が停止しました」


「旧大陸棚では死んだ魚や枯れた海藻が腐って異臭を放っています」


「そんなことは分かっている。新しい発想で知恵を絞って対処方法を考えろ」


「大臣、それは無理です。こんなことは今まで経験したことがありません」


 優秀な官僚といっても所詮この程度だ。いざというときに何の役にも立たない。しかし、大臣の言葉も似たり寄ったりだ。


「各国の対応は?」


「分かりません。どこの国でも食料を求めて暴動が頻発しています」


「唯一日本人だけが自重しています」


「我が国でも暴動が起きるかもしれない。その前に俺は大臣を辞職する」


「防衛大臣、辞任していないのは防衛大臣だけです」


「何!先を越されたか」


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 大臣はもちろんのこと高級官僚も防衛省緊急司令部を出て行く。そして自衛隊の幹部までもが部屋をあとにする。司令部に残った下級指揮官がため息をつく。その中のひとりが大声を出す。


「メキシコ湾の状況は?」


「大きな穴の周辺に湖、いえ、沼が点在しています」


「若狭湾に特殊潜航艇があるはずだ。使用できるか調べてくれ。その特殊潜航艇を積める大型輸送機を若狭湾……もう湾ではないが、同地の海上自衛隊に派遣しろ」


「鈴木一等海佐、何を考えているのですか」


「その潜航艇を使ってメキシコ湾、いや、メキシコ沼に潜る。サブマリン八〇八がいたという場所で何が起こったのか調べてみる。今すべきことはこれしかない」


「無謀です」


「何と比べて無謀だと言えるんだ」


「特殊潜航艇の潜水可能深度はしれています」


「沼に潜るのだ。心配はいらない」


「誰が命令を出すのですか。上層部は全員、職場を放棄しました」


「私が指揮を取る」


「まるでクーデターじゃないですか」


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「無血クーデターだ。戦争をしでかすんじゃない。この異常事態の原因を把握しなければ対応できない」


「分かりました。やれるだけのことをやりましょう」

 

* サブマリン八〇八 *

「少しだけ成分が異なるが、大きな違いはないなあ」


「普通、海辺どころか海に近いところは塩分が高くて農業には適さないはずなのに」


 ノロは返事をせずに分析器のデータを見つめる。そして電子手帳を取り出すとタッチして頁をめくる。


「うーん、信じられないな。でも理にかなってるなあ」


「何に気付いた?教えてくれないか」


「メキシコ湾の魚はほかの海の魚より成長が早いということ、聞いたことがあるか」


「知らない」


「元々、メキシコ湾の底を栓していたトリプル・テンはもっと大きかった。」


「それは昨日聞いた。あんなに固い物が徐々にではあるが溶けるなんて信じられなかった。でもトリプル・テンはダイヤモンドのように固いが、ゴムのような性質も併せ持つと聞いて納得した」


「そのとおり。メキシコ湾の底のトリプル・テンは想像できないほどの年月をかけて徐々に溶


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けて小さくなった。もうこれ以上小さくなると水圧に耐えきれなくなって湾の底のまた底に落ちてしまうから、この作戦を敢行したのだ」


「トリプル・テンが水圧に耐えきれないほど小さくなって、我々が回収しなくてもいずれメキシコ湾の底から抜け落ちて、結局、今起こっていることと同じことが起こると言いたいんだな」


「そうだ。どうやら、溶けたトリプル・テンが生物の成長を……」


「どうした?」


「トリプル・テンは恐竜時代のメキシコ湾に突入した隕石だと言われているが、そうじゃない。生命が誕生した三五億年前の古代の地球に到達した不思議な物体だ」


「トリプル・テンの地球衝突が恐竜絶滅の原因ではないのか」


「その約三十億年後に巨大なパンゲア大陸が分裂して大移動したとき、地中深くめり込んだトリプル・テンも今のメキシコ湾辺りに移動した。その後、隕石が衝突して巨大なすり鉢状のメキシコ湾ができた。その中心にできた大きな穴に丸いトリプル・テンが転がって栓をした」


 艦長がゴクリとツバを呑み込み身構える。


「分かった。それで」


「海中で何億年もかけて溶けるような緩慢なスピードではなく、地球に到達したときは一瞬のうちに何十%もの表面積を失って落下したはずだ。もし、トリプル・テンに生命に関わる役割


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のようなものがあったとしたら、そのとき生命が誕生したのかもしれない」


 艦長が唇を咬む。


「チリとなったトリプル・テンの欠片が重大な作用を地球にもたらした」


「生命誕生の一説に、隕石に付着した生命の元が地球に到達して生命をもたらしたという説がある」


「俺の考えは全く違う。トリプル・テンは生命の元ではなく、生命の種になるものに作用して飛躍的に成長させる触媒みたいなものではないかと、思っている」


 イリがノロを見つめる。


「トリプル・テンは生命の起源じゃないけれど、生まれようとする、生まれて成長しようとする幼くてひ弱な赤ん坊を手助けする物質だと言いたいのね」


 誰もが驚いてイリを見つめながら大きく頷く。


「そのとおりだ。姉さん!そして今姉さんの故郷の砂漠に幸福をもたらした」

 

* 防衛省 *

 南極大陸がほとんどの大陸と繋がる。温かくなったのでペンギンがほかの大陸に移動することはない。彼らにとって南極だけが避暑地なのだ。しかし、飛べない彼らは魚を求めて遠くなった海へ汗をかきながらヨチヨチと歩き出す。


 北極海は北極大陸となる。白クマは泳がなくても移動できるようになって、海に逃げること


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ができないアザラシを手当たり次第、お腹に収める。


 各大陸はメタボ状態になる一方、海はダイエットしたようにスリムになる。海洋国はその領土を拡大させるが、地表に現れたといってもぬかるんでいて海藻や魚や貝など様々な生物の死体が異臭を放っている。大陸棚を過ぎると急斜面となって海溝に残った海水に向かって陸地が伸びる。その海面には様々な国籍の船がなす術もなく浮かんでいる。帰るべき港は遙か彼方の内陸にある。客船、フェリー、貨物船、タンカー、漁船はもちろん空母、巡洋艦、潜水艦が目的や任務を放棄して浮かんでいる。特に軍艦はミサイルや大砲を用心深く敵対する相手に向けて「なぜ、お前がここにいるんだ」と言いたげに睨み合う。


 それぞれの本国もなす術がない。客船の乗客は航続距離の長いヘリコプターで救助されるが、各船舶の乗務員には待機命令を出す。船舶を漂流させるわけにいかないからだ。その代わり水と食料が先ほどのヘリコプターで補給される。つまり、ヘリコプターは水や食料や薬品を各船舶に届けると病人や乗客を乗せて本国に引き返す。


「まず、陸路を確保しなければ。陸上自衛隊を中心に大陸棚の先端まで道路を建設しよう」


「航空自衛隊にも協力させるんだ」


「海上自衛隊は出る幕がないな」


「もう、陸海空という区別は必要ない。お互い助けあうんだ。もちろん周辺国ともだ」


「韓国と台湾から援助要請と協力の申し出が先ほど入電しました」


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「中国は?」


「ありません」


「こちらから、協力要請をしろ」


「我々、下級士官の要請を受けるでしょうか」


「中国海軍のチェン大佐に連絡しろ。彼は私の友人だ」

 

* 中国 *

「食料が欲しければ独立させろだと!」


「新疆ウイグル自治区だけではありません。砂漠地帯の自治区がこぞって要求しています」


 チェンが人民解放軍の将軍に報告を続ける。


「ロシアでも同じです。今まで貧しかった遊牧民が暮らしている地域が急に緑豊かな穀倉地帯に変身しました。まるで消えた海水が砂漠に移動したかのようだ」


「塩分が多い海水で植物が育つはずがない」


「現地からの調査報告によると、消えた海水が砂漠に現れたという事実はほぼ間違いありません。突然現れた巨大な湖では海に生息する魚類が数多く釣れています。それに鯨までいるという報告も入っています」


「まさか、そんなことを誰が信じることができようか」


「今までの海岸に近い平野の田畑では雨が少なくなって砂漠化しています。すべての農作物が


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枯れ果てて収穫の見通しはゼロです。そして内陸部にできた湖から溢れた海水が河となって流れだすと農地は消滅します」


「なんということだ」


「彼らを懐柔しても乗ってこないでしょう。我々は治安維持という大義で弾圧してきましたから……」


「弾圧などしていない!チェン、言葉を慎め!」


「そう、そこが問題なのです。弾圧した方はそうとは思っていないかもしれませんが、された方は絶対にその屈辱を忘れません。我々だって、随分昔の大戦での日本軍の屈辱的な占領を決して忘れない。それと同じです。殴った方はすぐ忘れるが、殴られた方は死ぬまで覚えている」


「我々は日本のような暴挙をしていない」


「人民がどう思うかです」


「しかし、塩分の多い湖の付近が……しかもあっという間に緑の楽園になったのはどういうことなんだ」


「それが最大の謎です。脱塩装置があるわけでもないのに」


「チェン大佐。わしはどうやら誤っていたようだ。想像でも何でもいい。大佐の思うところを自由に発言してくれ。この難局を超えるには君のような若い者の発想が必要だ」


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「ありがとうございます。頑張ります」


チェンは一呼吸置いて将軍の顔を覗き込む。


「疑心暗鬼になるなと言っても無理かな?しかし、君を左遷したわしをにわかに信用できないのは、先ほどの殴られた者は決して忘れないという君の意見のとおりだな。わしは殴ったことを思い出して深く反省する。このとおりだ」


 将軍が頭を垂れる。


「分かりました。吹っ切れました」


 ふたりは笑顔でがっちりと力強く抱き合う。


「経済成長を錦の御旗にして環境破壊を続けてきました。海岸という海岸は埋め立てられ、工場が建設され、海は汚染されて自然破壊を続けました。かつての日本がしたことです。そういう意味では日本といういい先輩がいて助かりました。でも先ほども申し上げましたが、我々は日本を憎んで……」


「その話はいい。確かに横目でもいいから日本の環境に対する反省と対策を学ぶべきだった。先を進めてくれ」


「これから先の話は少し感傷的ですが、我慢してお聞きください。何が原因か、あるいは何者かの陰謀、あるいは仏の思し召しか分かりませんが、長い海岸線から汚染物質をたれ流す人間に海が不快感を表明したのかもしれません。つまり海が人類を否定したのです」


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「明晰に分析して判断する君にしては随分おかしなことを言うな」


「だから、感傷的な話だと前置きしたのです。しかし、現実は現実です。これらの異変はメキシコ湾から始まっています。そのメキシコ湾に日本の旧式の潜水艦が向かっていたことが分かっています。その潜水艦にノロという男が乗っています」


「そんなことまで把握しているのか!そのノロとはいったい何者だ」


「北京大学を断トツの成績で卒業した男です」


「そんな話は聞いたことがない」


「日本人だと分かったのは最近のことです。彼はトンガ王国の留学生として北京大学に入学して四年間でなんと五学部をすべて主席で卒業したのです」


「信じられん!しかし、そんな天才なら大学が注目したはずだ」


「それが残念なことに誰も気付かなかった。なぜなら、大学もお馴染みの縦割り管理体勢なので、各学部ではこのノロという学生に多少興味を持ったとしても、横の連絡はないまま、彼は卒業してしまったのです」


「ということはトンガに戻ったのではなく日本に戻ったのか」


「分かりません。日本でも彼の成績が評判になったことはなく、卒業後の足取りは全く不明です」


「君はなぜそのようなことまで知っているんだ」


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「日本の海上自衛隊に心から許せる親友がいます。でもご心配なく、スパイ行為をしたことはありません」


「もう、そんなことは気にするな。君の過去に多少の問題があっても、わしは責めるつもりは毛頭ない。むしろ、よくもここまで……」


 ノックもなくドアが開く。


「チェン大佐!大佐宛に奇妙なFAXが入っております。『問』という一文字だけの……」

 

* 尖閣諸島 *

「何の因縁か。鈴木一等海佐」


「チェン大佐、元気そうで何よりだ」


「チェンでいい。鈴木、あれから、もう十年は経ったな」


「十年か。この付近が海だったころ、睨み合ったのがまるで昨日のことのように思い出す」


「私も鈴木に再会して尋ねたいことがあったのだ」


「我々の国の首相や大臣は職場を放棄した。他の国では辞任要求を無視して最高権力者に留まって自分の立場を正当化しようとするのに、我が国では困難にぶち当たるとさっさと逃げる」


「潔くていいじゃないか。羨ましいよ」


「隣の庭の芝は青く見えるだけさ」


「本論に入ろう。海面が後退した太平洋に向かって道路を造って新しい海岸に港の建設をした


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い。これは一国でできるプロジェクトではない。協力して欲しい」


「大賛成だ。しかし、私の一存では前に進まない」


「もちろん、そうだろう」


「検討する。しかも協力する可能性は高い」


「私は下級士官だが、航空自衛隊や陸上自衛隊の下級士官も私にすべてを一任した。国民に意を問うことは準備中だ。しかし、たとえ反対されても実行しなければならない」


「腹をくくったな、鈴木」


「そちらの質問は?」


「ノロという男を知っているか」


 鈴木は絶句してチェンを見つめる。


「知ってるんだな」


「彼は今回の大事件に深く関わっている」


 今度はチェンが絶句して鈴木を見つめる。ふたりは黙って固く手を握る。


「鈴木、私は総書記長に直接進言できる。あらゆる情報を交換して、まず、東アジアを安定させるんだ」


「君のような心強い友人を持ってよかった。韓国はすでに協力を表明している。それに……」


「台湾もだろ。ただ、北朝鮮は外してくれ」


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「むしろ、その方が賢明だろう」


 ふたりは感極まって抱き合う。


「今日は極秘で会ったが、チェン、これからは隠さずに公式の窓口を作って話し合おう」


「それは」


 チェンの躊躇を鈴木が制する。


「そうすれば、お宅の最高権力者の人気が上がるはずだ。こちらは選挙をする暇がないから、公開することによって毎日、私の行動の善し悪しを評価、監視されることになる。むしろ私はこういう緊張感を持ってこの大事件に対処したい」

 

「命がいくつあっても足りないぞ」


「心配してくれるのか。そのときはチェンの不屈の精神を分けてくれ!」


 チェンは「逆だ!」と叫んでから首を激しく横に振って言葉を続ける。


「ノロのことを詳しく教えてくれ」


「さっきも触れたが、ノロが今どこで何をしているのか、全く分からない。しかし、宇宙にでも旅していない限りノロは現れるはずだ」


「分かった。どうやらノロという男は鈴木の親友なのだな」


「親友ではない。わけの分からん不思議な男だ。小学生のとき同じクラスだったことがあった」


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ふたりは随分前に尖閣諸島と呼ばれた高い山の上で別れる。


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