06 本人確認


 今日は雑用があると言い残して大家は朝からくたびれて元の形や色が想像できない黄土色の皮の鞄を抱えて出かけた。昼前に額の汗を拭いながら田中の部屋に転がり込んでくる。


「ほんとに全く銀行というところは慇懃無礼だ」


 大家は挨拶の代わりに文句をぶつける。


「どうしたんですか」


「家賃を集金していたら顔見知りの銀行員に会った。お互い愛想よく『お早う』と挨拶を交わした」


 田中は黙って大家の話の続きを聞く。


「『あとで、入金と振込で寄るから、よろしく』と言うと『はい、お待ちしております』と気持ちのいい返事が返ってきた。そこまではよかった」


 大家がテーブルに例の古びれて脱色した黄土色の鞄を投げだす。


「集金した金を預けるまではよかった。そのあとアパートの修理代を振り込もうとすると本人確認をするとぬかすんだ」


 大家が椅子にどっかと座る


「ひょっとしてその担当者は朝会った銀行員?」

 

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「そのとおり!なのに本人確認だ!少し押し問答をしたが、規則だといって譲らない。仕方ないので運転免許証を渡すと、今度は『コピーするので待ってくれ』といって免許証を持って奥の部屋に消えようとするので、わしは大声をあげた」


 田中はヒザを乗りだして興味深く大家の話を聞きながら想像する。田中の頭の中で大家と銀行員のやりとりが浮かぶ。


「通帳や金を預かるときは預かり証を出すのに、免許証のときは出さんのか」


 大家が真っ赤な顔をしてカウンター越しに銀行員に噛みつく。


「奥の部屋でコピーするだけですから」


「朝、道ばたで挨拶しておきながら、『本人確認』という銀行員など信用できん」


 奥にいた支店長が慌ててカウンターまで出てきて大家に声をかける。


「小林さん。そんなに大声をあげないで……どうされたのですか」


「支店長も知っているわしに本人確認とはどういうことなんだ!」


 大家がますます興奮する。支店長は先ほどの行員に目配せする。一方カウンターの外にいる行員が大家に近づく。


「何分、規則なので。小林さん、堪えてください」


「誰が作った規則だ。わしゃ知らん」

 

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 そばまで来た行員が一礼して大家をカウンターの切れたところから中にいる支店長に引き渡す。そのとき女性の声がする。大家が振り返ると年配の女が大家の前にいる支店長を睨む。


「小林さんのおっしゃるとおりだわ。もういい加減にして欲しいわ」


「井上さん」


 大家がその女の名前を呼ぶ。


「ちょうどいい。井上さんもこっちに来て一緒に直談判しよう」


 この大家の言葉に応じたのは井上というおばさんだけではなかった。店内にいる十数名の客が一斉に「そうだ。そうだ」と声を上げる。カウンター内の行員が総立ちになって戸惑いながら事態を静観する。異常な雰囲気の中で支店長が大きな声をあげる。


「皆様、落ち着いてください。当局からの指示でやむを得ないのです。振り込め詐欺が頻発している以上仕方ないのです」


 大家が身体を寄せて支店長の言葉を遮る。


「そうじゃない。本人だと分かっているのになんという無駄なことをしているのかと言いたいのだ」


 ほとんどの客は頷いたり「そうだ」と声を上げる。中には井上というおばさんの後ろに近づいてカウンター内に入ろうとする者もいる。


「待ってください」

 

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 支店長はおろおろしながら、床にへたり込む。


「私だってこんなバカげたことはしたくない。運転免許証のコピーを振込依頼書に付けないと本店の検査役に叱責されるのです」


「本店?どういう意味だ」


「支店がちゃんと規則どおりに事務をこなしているか検査があります。その中に本人確認がキチンとされているかという項目があります」


「一度確認したら、その後は依頼書に『確認済み』と書けばいいじゃないか」


「検査役から見れば、その依頼書の記載だけではいつ確認したのかどうか、わからない。過去に確認した書類を探しだすのは大変な作業になります。そうすると管理不行き届きだと責められる」


「なるほど」


「私も検査役をしたことがあるから、検査役の立場がよく分かります。支店にとっては顔見知りのお客様でも検査役には分からないのです」


 座りこんだ支店長の声だけが店内に響く。


「待てよ」と、誰かが発言する。


「税金を振り込むときは何も言われないな。税務署に金を払うときは本人確認はなかったぞ」


 この言葉に支店長が反応して立ち上がる。

 

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「税務署の納付用紙は振込先が国ですから、問題ないのです」


「そりゃそうだ。税務署が振り込め詐欺をするはずがない」


「だったら、本人確認より振込先確認の方が重要じゃないか」


「振込先の口座がおかしかったら、振込を拒否すればいいんだ」


「それは時間がかかります。窓口が混んで返って皆様に迷惑がかかります。話を戻します。税務署は国税庁の支店です。その国税庁の親戚のような金融庁が銀行を監督するところなのですが、そこが本人確認をうるさく指導するのです。本店の検査役も金融庁に意見することはできません」


 支店長の真剣でしかも涙ぐむ声に誰もが黙る。


「金融庁の調査が入って振込依頼書に本人確認した証拠がないと業務改善命令、平たく言うと最悪の場合、銀行業の免許取り消しもあり得るのです。我々は金融庁の指導どおりにするしかないのです」


 支店長はカウンターの外へ出てそのカウンターの下に貼ってある『お取引様各位』というポスターを指差す。大家や井上やそのほかの客が支店長の肩越しにそのポスターを見つめる。大家がその集団から離脱して大きく息を吸う。


「よくわかった、が、いくら金融庁がえらいと言ったって預金者の声を聞いたことがあるのか?」

 

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「ありませんよね。でも我々は振込依頼書一枚一枚に運転免許証のコピーを付けないわけにはいかないのです」


「要は銀行は信用されていないんだ」


「そ、そのようなことは……」


 支店長が口ごもる。


「銀行は結構あこぎなことをやってきたもんなあ」


 この時点でおとなしく引き下がって椅子に座る者がいる。きっとこの銀行から結構な額を借り入れている者だろう。大家も支店長の肩を叩くと頭を下げる。貸家の建築や修繕で資金を融通してもらっていることを思い出したのだ。


「支店長の立場、よく分かりました」


 大家が矛先を収めると支店長から運転免許証を受け取る。


「ただ、ひとつだけお願いがある」


「小林さん、何なりと」


「振込窓口の番号札発行機の横に小型のコピー機をおいて欲しいのだが」


「?」


「待っている間にそのコピー機で免許証をコピーする。自分でコピーするから不安はない」


「なるほど」

 

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「そうだ!」


「どうされました?小林さん」


「こんなアイデアはどうだ」

 

「?」


「振込窓口の番号札発行機自体をコピー機にして免許証をコピーした裏面に番号を印刷できるようにすれば、一石二鳥じゃないですか」


「すごいアイデアですね」


「そう思いますか。それなら特許申請しておこう」


「早速、本店に提案してみます」


「ところで支店長」


 カウンター下のポスターの上の方を指さして大家が支店長を促す。


「なんでしょうか」


「このポスターの『お取引様各位』というのはまずいぞ」


「はあ?」


「『各位』というのは『様』という意味だ。これじゃ『お取引様様』と言っているのと同じだ」


「あっ、そうですね」

 

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「『お取引各位』でいいのだ。あるいは単純に『各位』だけでいい」


「なるほど」


 田中が大家に大きく首を縦に振る。


「でも金融庁の意識を変えなければ意味がない」


「そうですね。でも金融庁の偉いさんは銀行で振込したことがないのかなあ」


「そうか。いや、もし自分で振り込みしようと銀行の窓口に行ったことがあるのなら、こんなバカげた規制を銀行に押しつけることはないはずだ」


「偉いさんが自分で振込に行くことはないのか。窓口で経験したら、いかにバカげた規制をしているのか、身を以て分かるもんな」


「現場を知らない役人が庶民につまらない手間を押しつけている」


「その役人って独身なんでしょ」


「独身?」


「結婚していたら、奥さんが銀行の窓口でいやな目に遭ったことを旦那に文句言うでしょ」


「そりゃそうだ。自分でしなくても……いや、独身もいるかもしれないが、大概は結婚しているだろう。田中さん、なんで独身に拘るんだ?」


「振込が大変なことは先ほどの大家さんの話で始めて知りました。僕は振込なんかしたことあ

 

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りません」


「支払いというか、いくら独身でも送金することはあるだろう。そうだ!家賃は?」


「もちろん。ネットでします」


「ネット?」


「インターネットです。パソコンです」


「わしはパソコンが苦手でな」


「振込料は無料か、有料でもとても安いんです。それに銀行に行かなくて済みます。ただし、大きな問題がひとつあります」


「なんだ。その問題というのは」


「預金に残高がないと利用不可能です」


「だから、家賃を滞納していたのか」


「申し訳ありません」


「でも便利そうだ。なぜ支店長は勧めないのかな」


「パソコンが苦手だと言って断ったんじゃ」


「思い出した。そのとおりだ。そういえば、さっき話した騒動に加勢してくれた人はみんな年寄りばかりだった」


「年配者やパソコンになじめない人にもっと親切にすべきですね」

 

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「田中さんは意外と常識がありますな」


「えっ、どういう意味ですか」


「いや、こんなこといったら、気分を害されるかもしれないが……」


「僕は気にしない質です。急に改まらなくてもいいじゃないですか。家賃をただにしてくれた大家さんにぼろくそに言われたって、ぜんぜん気にしませんから」


 大家は何も映っていない例のテレビを見つめながら田中の手を握って頭を下げる。


「このテレビ、これからどんな映像が出てくるのか、わからんが、どんどん意見を聞きたいし、わしも田中さんの疑問に誠実に応えようと思う。年寄りだが、お付き合いよろしくお願いしたい」


 大家が深々と頭を下げる。


「大家さん!何か悪いものでも食べたんですか」


 急にテレビが明るくなる。


「取材はお断りする」


「視聴者の方々から是非長官に聞きたいとの手紙やファクシミリやメールが多数寄せられています」


 女性の声がする。

 

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「長官は多忙です」


「せめて広報部長に取材をお願いできませんか」


 画面は明るいままで声だけが流れる。


「とにかく忙しいのです」


「会社の事務員が振り込もうとすると、会社の登記簿謄本を見せろと窓口で言われたという苦情があります。会社の謄本は誰でも法務局で入手できるのに、なぜ登記簿謄本を要求するのですか」


「そのような行政指導はしておりません」


 ドアを挟んで押し問答する画面が現れると田中と大家が目を見張る。女性の記者では力負けすると判断したのか男性の記者が割りこむ。


「課長!取材に応じてください」


「手順を踏んでの取材なら応じますが、このような唐突な取材を承ることはできません」


「すでに三回取材を申し込みましたが、なしのつぶてじゃないですか」


 数人の守衛がやってきてふたりの記者を羽交い締めにするとドアが閉まる。そのうちのひとりが怒鳴る。


「カメラを持っているぞ。没収しろ」


 どちらの記者か分からないが動画も撮影できるデジカメを放り投げたのか、画面が激しく揺

 

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れて何が映っているのかさっぱり分からない。


「逃げろ!」


「取り押さえろ!」


 画面が真っ暗になる。


「ご安心ください。あのデジカメは無事回収されました。だから放映できました」


 逆田と山本が現れると解説を始める。


「しかし、記者クラブへの出入りを禁止されました。取材違反だというのがその理由です」


「取材拒否された状況を報道したのが取材違反に当たるそうです。映像のとおり、私たちは取材はできませんでした。できなかったのに取材違反だといわれれば、接触すらできなくなります。来るなと言わんばかりです」


「この取材のあと、各省庁の玄関をくぐったところに、まるで駅の自動改札口のような装置が並べられました。定期券、いえ、ICカード化された入館証がなければ中に入ることができなくなりました」


 ふたりの姿が消えて主要省庁の玄関口から建物内を撮影した映像に変わる。


「他社の記者から痛烈な非難を受けています。『おまえらのお陰で取材できなくなってしまったじゃないか』と」


「あるいは私どものこのような取材を待っていたのかもしれません。そうでないと次の日にす

 

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べての省庁にこのような装置を設置することは不可能です」


「私たちはこの装置を設置した業者を取材しました」


「さすがにその業者の本社ビルにはこのような装置は設置されていませんでしたが、取材は拒否されました。政府と違って民間企業ですから、拒否されれば取材できません」


「しかし、政府は違います。質問は許されますが一方的に発表する記者会見は当然のこと、国民が知りたいことについては所轄の責任者や担当者に対する取材は許されるべきです」


 駅の自動改札口だと言われれば、そうとしか見えない装置を通って職員が出入りする光景がその省庁の字幕とともに次々と紹介される。


「記者会見の様子はたびたび放送されていますから、皆様はご存知でしょうが、はっきり言ってつまらないものだと感じている方がほとんどです。記者の質問に真面目に答えていないといった意見や、記者からも鋭い質問がないといった意見がほとんどです」


「辛辣な質問をすると次から出入り禁止処分か、あるいは挙手しても質問をさせてもらえません」


「たとえば、こうです」


 自動改札口の映像から、記者会見の映像に変わる。


「過去にこういうことがありました」


 鋭く質問する記者と官房長官のやりとりから始まって、そのような記者に対する政府の対応

 

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やそれらの記者に対する取材がまるでドラマのように流れる。しばらくして逆田の声が流れる。


「やがて、このような気骨ある記者は少数派になりました。記者もサラリーマン化しました。これでは政府のやりたい放題です」


 山本の声が続く。


「私たちは挑戦します。政府から圧力を受けようと他社から異端視されようとも」


 大家が拍手をすると田中が首を横に振る。


「でもこの放送はこのテレビだけしか見ることができないじゃないか」

 

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