第十二章 京の独立


 北政所が京の高台寺に戻る。京は徳川の勢力下にあるとは言うものの、都人は余り気にしていない。戦乱の都度混乱するが今は平穏だ。都の行事は多彩だが、秀吉が街並みを整えてからはきらびやかになった。秀吉は遊び上手だった。成金と誤解されることもあったが、意外と繊細な心の持ち主だった。特に職人を可愛がり見事な腕を持つ者には驚くような褒美を与えることが多かった。


 さて、徳川の隠密に監視されていても北政所は意にも止めず御所を訪れる。徳川家の配慮が足らないのか、土塀の一部が剥がれたり瓦がずれたりしているのを北政所が気付く。


――家康と言えども戦費調達に苦労している


 すぐに接見が許されて御殿の待合所に待機すると直接天皇が現れる。


「これはこれは。久しぶり」


 平服で天皇自らが北政所を屋敷内に迎え入れる。意外に質素な部屋だが威厳はある。


「かなり傷んでますね」


「修理しようにも……」


 天皇が北政所に耳打ちする。


「家康はケチだ」


 北政所が笑い転げる。


「戦などせずに京を繁栄させればいいものを」

 

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「大坂は持ちこたえたそうだな」


「大坂の商人は家康と比べようないほどケチでございます。戦に金を出すことはありません。ただし……」


 天皇がじれったそうに尋ねる。


「どうやって冬の陣を凌いだ?」


「簡単なこと。大坂の商人はここぞと言うときに金を出します」


「ほう」


 天皇が膝を乗り出す。


「京の酒を買い占めたのです」


「そういえば京から酒が消えたと聞いた。幸い私は酒をたしなまないので気にならなかったが」


「冬の戦では酒は必需品です」


「確かに酒を呑むと身体が温まる」


「酒をたしなまれないのによくご存じですね」


 嘘がバレた天皇が爆笑すると手のひらをポンポンと叩く。


「酒の用意はまだか」


***


「一時期酒に苦労したが、すぐに元に戻った。どういうことだ?」

 

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 天皇が北政所に杯を持たせて酒を注ごうとする。


「もったいのうございます。私がお酌を」


「何を言う。北政所は私にとって姉のような人」


「ありがとうございます」


 北政所が酒を受けると銚子を取り上げ天皇が杯を持つのを待つ。


「戦はすぐ終わりました」


「圧勝だったと聞く」


「いえ、家康が形勢不利と見て兵を引き上げただけです」


「あの家康が?」


「いずれにしてもお酒の件でご迷惑をかけたのですから、すぐ京に戻しました。多少失敬したかもしれませんが……」


 ふたりは大笑いしながら酒を飲みほす。


「実は折り入ってお願いしたいことがあります」


 酔いが回らないうちにと北政所が話の核心に入る。「なんなりと」


「京は特殊なところ。これまでのように戦で傷を負うのを避けなければなりません」


「まったく、そのとおり。戦は迷惑千万だ」


「京は独立して存在しなければなりません」

 

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「独立?」


「大坂もです」


 天皇は首を傾げながら真剣に北政所を見つめる。


「大坂が万が一、転ければこの国は混乱します」


「よく分からぬ」


「今回の戦でも分かるように、京の酒を買い占めただけで家康の戦意は衰えました。冬の戦では鉄砲や槍より酒なのです」


 ここで北政所が天皇の杯に酒を注ぐ。


「家康は勇猛ですが、実は下戸。ご存じでしたか」


「知らなかった。と言うことは酒の効用を理解していない」


「いいえ。下戸だからこそ酒が手に入らないと大変なことになると兵を引いたのです」


「ふむ」


***


 町民に変装した幸村は真田十勇士の根津甚八が操船する沈胴船で伏見まで上る。極秘の行動が故に根津甚八以外の十勇士を伴わずに伏見に上陸する。その後は石川五左衛門が目立たないように護衛する。そして無事御所に到着した。


「よう来た!そちがあの勇猛な幸村か!」

 

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 天皇が上機嫌で幸村を出迎える。


「長居はできません」


「分かっておる」


 狭い茶室に通された幸村が一礼するとおもむろに切り出す。


「今や二条城も伏見桃山城も淀城も城兵しかいない」


「そうなのか。しかし、守りは堅いと聞いておる」


「表面的にはそうです。しかし、遠く故郷を離れての単身赴任者がほとんどです。京の文化に触れることができるという特典はありますが、城を出て花街に通うことはできません」


 天皇が鼻の下を伸ばす。


「花街のことは知らぬが、世も死ぬまでに一度行きたいものだ」


 この言葉に幸村が手応えを掴む。


「今、行かれてはどうですか」


 天皇が色めく。


「天皇が城兵を花街に招待するのです」


 天皇が狭い茶室で膝を乗り出す。


「始めは各城の責任者を招待します。その後はその部下。そして次はそのまた部下を」


 ここで天皇は尻込みする。

 

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「遊ばすには金子がいる。ここには金子がない」


「心配には及びません。金子はたらふくあります」


「?」


「先の冬の陣で買い占めた京の酒を高値で徳川に売りました際に大坂商人はボロ儲けしました。


もちろん京の民にはただでお返ししました」


「そのことなら北政所から聞いた。粋な計らいをするな」


「私ではありません。商人です」


「そうか。城兵たちにたらふく呑んでもらおう」


 天皇が両手を打って高笑いすると幸村も大笑いする。


***


 ちょうど桜が満開になる。天皇主催の花見が八坂神社や高台寺や南禅寺で催される。あちらこちらにこれでもかと言うぐらい一斗樽が山積みされる。すでに京では樽酒が中心になっていた。城兵たちは甲冑を身にまとってはいないが、槍や刀は携行している。


 昼間は動くと汗をかくぐらい暖かい。始めは警戒していたが、桜の美しさに城兵たちの緊張感が徐々に薄れる。そして着ていた厚手の鉄線入りの防御服を脱ぎ出すが刀は手放さない。桜を見ながら片手で食べ物を食べながら同じ手で器用に杯の酒を口に運ぶ。


「いつもお役目ご苦労様でございます。この度の宴は天皇からのささやかなお礼でございます」

 

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 公家たちが酒を勧める。


「元征夷大将軍の家康様や今の征夷大将軍の秀忠様にこの京は守られております」


 上級の城兵に公家の一人が近づく。


「そんな厚着をされていては酒が旨くありません」


 言葉をかけられても脱ぐことはない。


「もう誰もが服を脱いでいます」


 周りを見ると防御服を脱いで中には上半身裸同然の城兵もいるし、刀を手放している者もいる。


「私どもも、それこのとおり」


 公家たちが次々と服を脱ぐ。それは武器など持っていないという証にもなる。


「本日は十二分にお楽しみください」


 やがて気が緩む者が多くなって遠慮なしに酒をおかわりする。この様子を高台寺から見ていた北政所と幸村が微笑む。


「今襲えば奴らは全滅だ」


「ほほほ」


 北政所が口元を押さえて笑う。


「でもそんなことをすればこの作戦の意味がなくなる。ここは我慢、我慢」

 

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 幸村が子供のような悪戯っぽい表情をする。


「もうすぐ陽が落ちます。宴たけなわとなりますね」


***


 周りは薄暗い。昼間から呑んでいるので理性が働くような状況ではない。城兵たちがわがままな要求を始める。


「女はいないのか!」


 さすがに天皇主催の花見であることを忘れずに深酒を避けた上級の城兵が釘を刺す。


「黙れ。我々は征夷大将軍の秀忠から京を守るという任務を受けている。このことを忘れるな」


「そんな堅いこと、言わずに」


 同じ上級の城兵でもいい加減な者もいる。それに同調する城兵が騒ぐ。


「どうせ偉いさんは現場など分からんし、バレることなんかない」


「そうだ。そうだ!」


 このとき艶やかな女たちが次々と現れる。


「ようお越しやす」


 もう歯止めが効かない。上品な香りを放ちながら女たちが上級の城兵を見定めて酒を注ぎ回る。ある城兵は腰の刀を抜いて部下に預ける。


「なくするなよ」

 

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「そんな」


 部下が困惑する。するとそばにいた他の上級の城兵も同じように次々と刀を抜いて部下に預ける。中には不謹慎なことを言う者もいる。


「今夜はもっと切れ味のいい刀を使う」


「ほほほ。どんな切れ味か楽しみ」


 この女の言葉に城兵たちが大笑いする。


「夜が更けるまで飲み明かしましょう」


「腹が減った。つまみはないのか」


「すっかり忘れていました。では私をつまみに」


 女が甘い言葉を鼻から繰り出す。


「そうか!どこをつまめばいいのか」


「お分かりの癖に」


 女を抱こうと身を寄せるがスルッと逃げられる。それほど酔っているのだ。酒が強い者ばかりではない。中には吐いたりイビキをかいて寝ている者もいる。完全に陽が落ちると周りは灯明だけで足下は真っ暗だ。


 冬の陣があり、しかも酒が消えたから長らく口にできなかったせいもあって酔いの回りは早い。幸い酒を呑んでいたからある程度花冷えを凌げるがしれている。そんな闇に紛れ込むように鋭い眼光を放つ数人の黒装束の男に城兵を相手にしていた女たちが気付く。

 

[144]

 


「捕らえよ」


 一人の女が艶やかな衣を脱ぐと何人かの女たちも同じように脱ぐ。脱いだ衣の下は身体に密着した真っ黒な衣装だった。


「徳川の隠密に違いない」


 女たちはすべて伊賀のくノ一だった。苦無を手にすると隠密に襲いかかる。数で圧倒するくくないノ一に隠密は始末される。


***


 宿直に当たる城兵しかいない伏見桃山城以下、京の各城に石川五左衛門率いる同族が潜入する。手薄な上に士気が低下している。石川五左衛門は難なくすべての金子を盗む。


 城を取れば安泰と考えていた家康だったが、いとも簡単に幸村の調略で失う。しかし、こういう事態になったのを知るのは随分後になる。報告すべき隠密が皆殺しにあったからだ。もちろん定期的な隠密の報告が途絶えたので家康はおかしいと思ったが、後の祭りだった。


 城兵はこの花見で京の文化力を体験した。応対した女たちがくノ一だとも知らずに。しかも家康から賜れた刀を失った城兵もいる。叱責を恐れた城兵たちは居場所を失って天皇の指揮下に組み込まれる。天皇はそれなりの軍を持つに至ると上機嫌で北政所を御所に招く。


「おっしゃるとおりになった」

 

[145]

 

 

「私も高台寺で安心して過ごせます」


「来春は高台寺で花見をしたいものだ」


「それは時期尚早。高台寺は家康の許しを得たとはいえ秀吉の寺でございます」


 北政所は今回の結果を冷静に分析している。


「それに征夷大将軍は秀忠です」


「確かに」


「秀忠を首にできますか?」


 温和な北政所の言葉に天皇は絶句する。


「私も歳ですが、家康も歳です」


 北政所の言葉の意味することは分かるが、意図が理解できない。


「寿命の問題だとは分かるが」


 北政所が笑う。


「それは誰にでも分かること。ごめんなさい。バカにしたような言い方で」


「姉者。教えてください」


 北政所を姉と慕う天皇が頭を下げる。


「天皇が頭を下げることは絶対にしてはなりません」


「今回の件で天皇という地位がいかに無力なものか分かりました」

 

[146]

 

 

 この弱気に気付いた北政所が話を戻す。


「歳をとると足下の時計が不安定になります。そういう意味で家康の次の手が不気味なのです」


「狂うかも知れないと言うことか」


「そうです。ひょっとしたら、もう家康の時計は狂っているかもしれません」


「どういうことか」


「家康が正常なうちに動かなければなりません」


「まだ正常なのですか」


「一応は」


「今、独立宣言をせよと申されるのか」


 北政所が返事をしないので天皇が続ける。


「正常であれば家康は激怒して京に攻め入るはず。京には大坂城のような戦を凌げる城はない」


「元城兵がいるではないですか」


「兵を維持する金子が必要」


「御所の蔵に金子がないとでも?」


 そのとき大きな足音が聞こえてくる。


「申し上げます。申し上げます」


「入れ!何事か?」

 

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 天皇の許しを得て侍従が部屋に入る。


「蔵が金子で一杯です」


***


「石川五左衛門も狂ったのかもしれません」


「?」


「石川五左衛門と言えば金持ちから金子を取り上げて貧乏な民に与える盗人。それが泣く子も黙る地頭になるとは」


「おっしゃる意味が分からない」


「地頭は貧乏人から金子を巻き上げるげすな役人」


「それは知っておる」


「冬の陣で貧乏になったとはいえ、二条城、伏見桃山城、淀城にはそれなりの金子があります。それをかき集めれば相当な金子になります。元々徳川が城兵に与えるための金子。それを使って城兵を意のまま使うのです」


 勘が鈍いと言ってもこの説明で天皇が納得する。


「徳川の金子で徳川の兵を雇う」


「そうです」

 

「姉者!すごいぞ」

 

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「私ではありません。これを考えたのは幸村です。先だって会ったとき、そのような話はなかったのですか」


「なかった」


「敵を欺く前に見方を欺く。幸村らしいやり方。ほほほ」


 北政所が一礼して立ち上がると部屋を出ようとする。


「まだ幸村が京にいるのなら呼んでくれ」


 一転して北政所の表情が厳しくなる。


――権力に守られた者は甘くなる


 北政所の脳裏に秀頼の顔が浮かぶ。


「あなたは天皇。威厳を持って行動すれば京の底力で必ずや徳川の支配から独立できます」


「分かった」


 天皇には北政所がまるで女帝のように見える。


***


 天皇が京やその周辺を天皇領と宣言する。慌てたのは家康と秀頼だった。京の各城に御所を攻めるように命令を下すが、動く兵はいなかった。


「隠密からの情報は」


 家康が秀忠に尋ねるが秀忠は首を横に振るだけ。

 

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「お前は何をしていたのだ!」


 家康は脇差しの小刀を抜くと秀忠を切りつけようとする。


「お待ちください」


 驚いた側近が家康を羽交い締めにする。


「ここは気を落ち着けて……」


 なおも小刀を握りしめる家康が喀血する。着ていた白い着物が真っ赤に染まる。


「父上!」


「離せ!」


 側近の押さえが甘いのか、身体をふらつかせながらも家康は鋭い言葉を連発する。


「医者を!」


 側近が叫んだとき秀忠が小刀を取り上げると家康の耳元で強く囁く。


「倒れてもらっては困ります。一緒に京に攻め入って天皇を討ちましょう」


 この言葉に頷くと家康の全身から力が抜ける。秀忠は何とか家康を支えて叫ぶ。


「医者はまだか!」


 家康の身体は強靱だったが頭は狂う前に機能しなくなった。結果として京は独立した。

 

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