第十三章 男山


 家康は征夷大将軍を秀忠に譲って隠居したが、些細なことまで口を挟んでいた。だから倒れたなど公表できない。言語が不明瞭で身体が思うように動かない。始めは周りに当たり散らしていたが、やがて大人しくなる。


――晩年の秀吉の気持ち、よく分かる。だが秀忠はもう一人前。それに孫も多い

 

 病床の家康の脳裏に様々な想いが駆け巡る。


――秀吉が世継ぎの秀頼を得たのは晩年。臨終間近の頃でも稚児に過ぎなかった


 信長は全国統一の芽が出たとき明智光秀に裏切られて本能寺で自害した。秀吉は統一を果たしたが秀頼のことを按じながら寿命を終えた。


――わしは幸せ者だ。世継ぎに困ることはない。苦労した甲斐があった


 後の三代目将軍になるはずの幼い孫たちの顔が次々と目の前に現れる。しかし、孫の数を数え始めたとき家康は重大なことに気付く。


――待てよ!


 歳をとっているにもかかわらず全身から脂汗が吹き出る。


――なぜ気付かなかった?


 もちろん以前から分かっていたことなのに、病床の家康は初めて気付いたように驚く。


――世継ぎが多いと言うことは争いが生じる


 あれほどの戦を経験した家康の気持ちが破裂する。

 

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――何とかしなければ


 だが思考は空回りして眠りに陥る。しかし、不安が夢の中に現れる。それは秀吉だった。バカにしたような顔つきで家康に近づく。


「わしの忠実な大家老であり続ければ悩むことなどなかった。バカなことをしたものだ」


 家康は夢の中で言い訳する。


「このままでは日本国に平和が訪れません」


「お前のような者に平和など分かるものか」


「民が苦しんでおります」


「ならば幸村を見習え」


「幸村!」


 ここで眠りが覚めると上半身を起こして明確な言葉を発する。


「ユキムラ!」


 それまでろれつも回らない家康の声に慣れていた病床を囲む侍女たちが驚く。


「大殿様!」


「医者を呼びなさい!」


 何人かの侍女が家康の上半身を支える。


「汗びっしょりだわ」

 

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 家康の目は大きく開いたままで視点が定まらない。医者より早く秀忠が部屋に入ってくる。


「父上!大丈夫ですか!」


「大坂を討てい!幸村を殺せ!」


***


 秀忠が悩む。今の家康の体調では前線に担ぎ出すことはできない。かといって出陣しなければ士気が落ちるのは明らかだし様々な噂が戦の邪魔をする。


――どうしたものか


 算段がないわけではない。その算段とは服部半蔵を使うことだった。だがリスクがある。服部家はすべて半蔵と名乗る。誰が誰か分からない集団だ。だが徳川を裏切るようなことは一度もなかった。それが返って不気味に思える。


――天皇の動きが不穏なうえ大坂は富を蓄積している


 すでに時代は秀吉や家康の時代ではない。関ヶ原の戦いなど遠い昔のことだ。秀頼や秀忠の時代なのだ。しかし、豊臣には知将幸村がいる。


――家康の影武者に服部半蔵を使っても幸村は見破るだろう


 家康が幸村を喉から手が出るほど味方に付けたかった気持ちを理解する。そして家康がかつて用心するように諭した言葉を無視する。


――たとえ見破られようとも士気が大事だ

 

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 秀忠が立ち上がると側近に命令する。


「半蔵を呼べ!」


***


 旗本はもちろん有力大名を集めて大坂攻めの作戦会議が駿府城で開催される。家康が元気であることが分かって一同が安堵するとともに会議が盛り上がる。しかし、現状は厳しかった。


甲賀忍者を使って情報を収集すればするほど冬の陣より劣勢であることが判明する。


「二条城、伏見桃山城、淀城はもはや役に立たない」


「しかし、京を押さえなければ大坂へは行ない」


「京には石川五左衛門というやっかいな輩がいる」


「やっかいと言っても所詮は盗人。大したことはない」


「それに京を支配すれば豊臣の士気は下がる」


「大坂へ向かう他の経路はないのか」


 安全策を模索するがこれぞという策は出てこない。


「奈良から入るのは伊賀のそばを通らなければならない。危険すぎる」


「紀伊国からは?」


「根来衆がいる」


「海路はどうだ?」

 

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「紀伊水道から浪速の海に向かうには雑賀衆と戦わなければならない。彼らに対抗できる水軍を用意するには時間がかかります」


「伊賀者や根来衆や雑賀衆というが忍者軍団だ。甲賀者に任せれば?」


「伊賀や紀伊国や浪速の海は奴らの縄張りだ。甲賀者が優秀でも勝ち目はない」


策がなくなると会議が冷える。ここで初めて服部半蔵扮する家康が口を開く。


「甲賀者の頭領を呼べ」


「本気ですか!」


 一同が驚く。忍者は重宝がられるが武士から見れば賤民に過ぎない。そんな忍者をこの会議に参加させるなど考えられないのだ。家康が全員をにらむ。


「真田十勇士を知っておるか」


 誰も頷くが黙り込む。


「幸村は伊賀者を重視して側近に起用している。春の陣でも幸村は真田十勇士を率いて我が軍を翻弄し、わしを追い詰め寄った」


 だが当時を知る者はわずかしかいない。しかし、家康の言葉に反応した長老がいた。


「あのとき秀忠様の機転がなければ大変なことになった。しかし、幸村を殺すことはできなかった。確かに忍者には忍者を使わなければ対抗できない」


 元忍者の半蔵扮する家康が大きく頷く。そこに限りなく黒に近い灰色の忍者装束の甲賀者の頭領が音も立てずに現れると秀忠が取り仕切る。

 

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ここまで話すのかというほど詳しく説明する。それを受けて頭領が結論する。


「伊賀者、根来衆、雑賀衆と直接対決しません。しかし、近江路を京に向かう徳川軍を支えることは可能です。石川五左衛門のこともお任せください」


 そう言うと頭領はこの場の空気を乱さないように部屋を出る。その後すぐに秀忠が家康に頭を下げてから発言する。


「これまでは二手、三手に分けて大坂に侵攻した。今回は一手に絞る」


 反対する者はいない。京と大坂を結ぶ淀川を中心とした絵図を取り囲んで会議が熱を帯びる。


「まず京のみっつの城を取り返すのか」


「いや京は避ける。伏見から淀川左岸を下って一挙に大坂を目指す」


 すぐ秀忠に疑問が投げかけられる。


「みっつの城兵が天皇に手なずけられたと聞く。後方からの攻撃をどう回避する?」


「私は征夷大将軍だ。天皇に釘を刺す」


「解任されれば大義が消える」


 確かにそのとおりだ。さらに過激な意見が出る。


「代わりに幸村を征夷大将軍に任命すればやっかいなことになる」


 秀忠が即座に反応する。

 

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「だから京を避ける。むやみに天皇を刺激するのは得策ではない」


 だが反対意見が続く。こんなときには家康が意見するのが常なのに扇子をパチパチ鳴らすだけで黙っている。


「右岸は天王山があって道は狭い。それに淀城もある。一方、左岸近くには河内湖があり湿地帯が多い。実際の道は狭い。そうすると一気に大軍を移動できない」


 別の者が追従する。


「幸村なら大阪城に直結する左岸道を押さえているはず。幸村の思う壺では」


 だが反対に反対する者が必ずいるのが常。


「幸村が知将ならその逆手を取れば何とかなる」


「これから梅雨に入る。足下はぬかるんで進軍は簡単ではない。左岸道の南側の小高いところから攻撃されればどうしようもない」


「隊列が長くなれば寸断されて全滅だ」


 ここで秀忠が自信を持って作戦を披露する。


「砲兵隊を先行させて敵の鉄砲隊を破壊する」


 徳川軍には豊臣軍を遙かに上回るカルバリン砲やセーカー砲といった強力な大砲がある。イギリスやオランダから輸入した大砲で豊臣軍にはない武器だ。幸村が武器の近代化を焦った理由がここにあった。しかも時代は徳川に味方していた。つまり諸外国は徳川が日本の支配者だと認めていた。

 

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武器という者はそういうもので支配者に売却される。


「根来衆の鉄砲はもう時代遅れだ。いくら腕がよくても大砲にはかなわない」


「確かに。春の陣では淀君がびびって降伏しようとした」


 家康が大きく頷くと混乱していた大坂攻めの作戦がまとまる。


***


 幸村が伊賀に向かうとすると百地三太夫が大坂城に現れる。


「お困りのようだな」


「どこから入ったのだ」


「わしに入れぬ城などない」


「そうか」


「小猿は仕方がないとして秀頼には秘密にしてくれ」


 幸村と三太夫と小猿が一番小さな櫓で密会することになる。


「家康はこの戦いに加わらない」


「体調が悪いのか」


「いつ死んでもおかしくはない」


「すると再び半蔵の影武者が?」


「そうだ。半蔵も、どの半蔵が家康の代わりに参戦するのかは不明」

 

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「その影武者を討つには?」


「半蔵もバカではないし、今まで以上に警護は厳しい」


「いずれにしてもやっかいな存在」


「いや、知れている」


 幸村が身構えて三太夫の言葉を待つ。


「今までのように何手かに分けて大坂に向かうつもりはないようだ」


「兵力を集中するのか」


「そのとおり」


「しかし、大坂への侵入は並大抵ではない」


「そこだ」


「これまでの常識を捨てるのか」


「もはや常識で幸村を討てないと考えたのだ。というより幸村の非常識な作戦に手痛い目に遭った経験が土台になっている」


 幸村が低い笑い声をあげる。


「私など小さな人間だ。やむを得ず奇策を打っただけ」


「そうではない。計算尽くしている。我ら伊賀者はそんな幸村に惚れてしもうた」


「そうすると奈良経由か」

 

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「いや、京だ」


「まさか……」


 幸村が考え込むとしばらくして尋ねる。


「天王山から大坂へ?」


「伏見から男山に向かうのではと」

 

「夏の宇治川と木津川を渡るのは難しい」


「確かに天王山経由なら桂川一本。しかも水量が他の川に比べて少ない」


 ここで幸村が表情を崩す。


「私なら、ふたつの選択肢があれば『まさか』の方を選ぶ」


「気付かれましたな」


「攻めやすいところは守りやすい。攻めにくいところは守りにくい。どちらが先に失策するかだ。もし男山の麓から淀川の右岸に沿って攻撃してくるのなら石清水八幡宮を先に押さえなけなければ」


「伏見桃山城はいかがする?」


「くれてやればいい。二条城と淀城を守る」


 三太夫が急に笑い出す。


「そうすれば徳川軍は伏見から男山へ向かうほかない。誘うのですな」

 

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 幸村も笑顔を見せる。


「宇治川を天ヶ瀬あたりで堰き止めることは可能か」


「それは分かりません」


 幸村の脳裏に安井道頓の顔が浮かぶ。


「よく分かった。感謝する」


「我らは宇治川と木津川の水量を監視する。念のために五右衛門には桂川の水量を監視させる」


「頼むぞ」


***


 徳川軍はいとも簡単に伏見桃山城を奪回する。


「幸村は我が軍が天王山の麓から大坂へ移動すると考えている」


 服部半蔵扮する家康が満足げに語る。


「それにしても天皇は沈黙したまま」


「いくら城兵を味方にしたと言っても裏切り者どもが家康様に攻撃するなどできないはず」


 秀忠は家康が影武者であることを悟られないように進言する。すると家康ももっともな応対をする。


「それは早計。淀城はともかく二条城に集結していると聞く。決戦の火蓋が開けば死に物狂いで攻撃してくるだろう」

 

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「いずれにしても天王山には行きません。二条城に籠もってくれたからこそ伏見桃山城が簡単に手に入りました」


「ふむ」


 家康は周りをギョロリと見渡すと発言が相次ぐ。


「天王山経由ならその手前の桂川は難なく渡ることができるが、男山に行くには宇治川と木津川を渡らなければならない。特に宇治川の水量は多く流れが速い」


「何度も言うがそれだからこそ天皇、いや幸村は二条城を固めた」


「それはそうだ。今更二条城を攻めるのは無駄なことも承知している」


「それでは宇治川と木津川を渡る手立ては?大軍を速やかに男山へ進軍させるのは大変だ」


「大したことはない。我らは木曽川、長良川、揖斐川を幾度も渡って大坂を攻めた」


 家康がやっと気付いたのかというような表情をするが言葉にはしない。


「我が軍の工兵隊は優秀だ。どんな大河でも渡れる頑丈な橋を造ることができる」


「そうだ!」


「それは早計!まもなく梅雨の季節になる」


「然り!」


「まずは梅雨に入る前に宇治川と木津川に頑丈な橋を建設しなければ」


「間に合うのか」

 

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「梅雨の後にすればいいのでは」


「そんなことをすれば伏見桃山城を取った意味がなくなる」


「と言うと?」


「時間を与えれば男山を目指す我らの作戦に幸村は気付くはず。先に男山に陣を張られてしまうとこの作戦は失敗する」


 秀忠が決断する。


「即刻工兵隊を伏見桃山城へ!伏見桃山城の城兵を二条城へ向かわせる」


「なぜ二条城へ」


「本気で二条城を落とすわけではない。もちろん二条城も手にしたい。だが幸村の目をそらす必要がある」


「分かりました。その役目は……」


 秀忠が制する。


「私がする。二条城を攻める本気度を見せつけなければ幸村の目が狂わない」


 ここで家康がポンと手を叩く。


***


 幸村は動じなかった。しかも秀忠より素早く次々と手を打っていた。その手応えを確認するために自ら現場を確認し遠方の場合は真田十勇士に確認させた。

 

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――何とか徳川軍を半減させなければ五分五分の戦いに持ち込めない


 やっかいなのは強力な大砲だ。その数を減らさないことには大坂城と言えども無事ではない。再び以前にも増して強固な真田丸を建設したところで相手の予行演習になるだけだ。


 思案しているとき猿飛佐助が目の前に現れる。


「いつもながら風のように現れるな」


「小猿と安井道頓が宇治川の上流に大堰を完成させました」


「!」


 幸村が驚く。意図していたより早く完成したからだ。


「悟られぬように宇治川の水位を維持しながら水を溜め込んでいます」


「さすが安井道頓だな」


「いや小猿の尽力があってのこと」


「と言うより猿飛大猿の協力があってのことだろ」


「いえ我が猿一族は手伝いをしているだけ」


「謙遜するな。甲賀者の妨害は?」


「百地三太夫が押さえております」


 ここで幸村が高笑いする。


「小猿と安井道頓が何の心配もなく大堰を完成させたのは大猿と三太夫がいるからこそだな」

 

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 しかし、幸村は先ほどまで考えていた徳川の大砲のことを思い出す。

 

「大堰に貯めた大水はどのくらいの時間で男山周辺にたどり着く?」


「私には分かりません」


「それなら。小猿と安井道頓を大坂に戻せ。作戦を変更する」


「それでは大堰を決壊させる者がいなくなります」


「決壊させるのに腕前は不要。要はここぞと言うときに堰に穴を開ければいい」


「ここぞが問題です」


「そのときはお前に頼む。大猿でもいい」


 幸村の真意を理解したのか佐助の表情が緩むが、現れたときと違って何の気配も残さず消える。


――男山は徳川にくれてやる。徳川軍を半減させるより大砲の数を減らす方が大事 幸村は少数で徳川軍を翻弄したこれまでの戦いを思い出す。


――数ではない。武器だ。武器を封じ込めれば勝てる

 

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