第八章 冬の陣


「承前」にも書いたが、ここで若干の説明をする。


 通説では大坂の役は二回あったことになっている。つまり冬の陣と夏の陣だ。この頃の暦は旧暦で今の季節感とは異なる。この物語では「冬の陣」は正月前の戦いだったのでこれを「秋の陣」とした。余程のことがない限り寒い冬に戦うことはない。敵将と戦う前に「冬将軍」と戦わなければならないからだ。冬将軍に敗れたナポレオンやヒットラー、それに冬将軍ではないが「神風」に敗れた元がそうであったように、自然の軍隊との勝負は避けるべきだ。


***


「用心深いな」


「泣くまでまとうホトトギスか」


 秋たけなわの大坂城天守で秀頼と幸村が冷たい夜風を受けながら満点の星空から城下に視線を落とすと華やかな灯火が見える。


「完全に天下の台所が復活した」


「太閤秀吉もだ」


「それに外堀の外側も……」


 夏を過ぎて夜が長くなると、安井道頓は暗闇に紛れて埋め立てられた外堀の土砂を運び出して道頓堀を始め張り巡らされた堀の周辺を宅地化した。ますます街は栄える。


「一石二鳥とはまさしくこのことです」

 

[86]

 

 

 幸村が愉快そうに秀頼を見つめる。


「父は安井道頓をよく可愛がった。小猿も彼に親近感を持っているようだ」


***


 小猿は護衛されているはいえ、ほとんど毎日のように城下に出て町民と交わるのが好きだった。そんな中で道頓堀の整備に汗を流す安井道頓に近づく。


「これはこれは。ますます秀吉様に似てきましたな」


 もの怖じしない安井道頓が泥だらけの顔で笑うと汚れた手ぬぐいで顔の汗を拭う。


「そんな汚いもので拭いて何になる?」


 小猿の言葉は気さくだが格調さも併せ持つようになった。


「わしの顔とこの手ぬぐいとどちらが汚れているのか勝負しております」


 安井道頓が腹の底から笑うと小猿も負けじと笑う。


「これを使え」


 小猿が真っ白な絹の手ぬぐいを差し出すと安井道頓は遠慮なしに受け取る。


「家宝にします」


 安井道頓は懐に収めると小猿は先ほどよりもっと大きな声で笑う。


「出して見よ」


 安井道頓はひょうきんな表情で取り出す。

 

[87]

 

 

「ありゃ不思議!白が黒になってしもうたわい」


小猿が絹の手ぬぐいを取り上げると構わず安井道頓を抱きしめる。


「やめてくだされ!お召し物が真っ黒になりますぞ」


「構わぬ!名は?」


「安ドンでございます」


「安ドン?奇妙な名だ」


 安井道頓は抱き合う小猿の耳元で囁く。


「お願いがあります」


 小猿も囁き返す。


「言って見ろ」


「ほかにも堀を造りたいのですが土砂が足りません」


「?」


「外堀の土をください」


「分かった」


***


 小猿の報告に幸村が即座に決定する。


「安井道頓。ただ者ではない」

 

[88]

 

 

 秀頼が笑う。すでに秀頼は春の陣で安井道頓を匿ったからよく知っていた。


「小猿に任せよう」


「そうは行かない。家康に攻め入る口実を与えてしまう」


 いつもは幸村の言うとおりにする秀頼が首を横に振る。


「家康が知るところになってもいいではないか。少しずつ外堀の土を運び出せばいい」


 幸村がハッとする。


「いつの間にか用心深くなりました」


「『小猿に任せること』賛成してくれるか?」


「もちろん!」


 幸村が秀頼の両手を取って握りしめる。


「動かぬ家康は不気味だ。歳を重ねることを強く意識しているはず。だから先を急ぐと思った」


「それにしても小猿の成長はすごい。北政所も『もう教えることはない』とおっしゃった」


「小猿が安井道頓の願いを受け入れて外堀の土の採取を許可すれば城下の者は驚くはず」


 幸村が秀頼から離れる。


「ひょっとしてこれは安井道頓の調略なのでは?そうだとすれば家康の重い腰が動く!」


「確かに安井道頓は父に可愛がられた。しかも情が深い」


「腕前も一流だ」

 

[89]

 

 

「安井道頓を信頼する小猿も大したものだ」


「ここは小猿と安井道頓に任せて我々は家康の攻撃に備える準備をしよう」


「大坂城を浮かせるカラクリをお教えします。一緒に考えましょう」


 幸村が頭を下げようとしたとき先に秀頼が頭を下げていた。


***


 珍しく家康が大声を出す。


「誠か!」


「複数の隠密から同じ報告を受けております」


「町民たちも協力しているとのこと」


「秀吉そっくりの、いえ、今や秀吉だと町民は思っているようです」


 ここで自分の読みが父より勝っていたと自負する秀忠が進言する。


「出陣しましょう」


 しかし、家康は目を閉じる。


――何かある


 じれったそうに返事を待つ秀忠が決心する。


「私は征夷大将軍です。幕府に謀反を起こす者は成敗しなければなりません」


 家康の目が開かない。

 

[90]

 

 

「常々『何としても内堀を』と言われていたのに、今や外堀が復活します!」


 秀忠の意見には説得力があるし、理にかなっている。


「父上が出陣しなくとも私が全軍を率いて大坂城を叩きます」


 やっと家康が目を開ける。


「分かった。旗本と有力大名を駿府城に集めろ」


「そんな悠長な。すぐさま軍勢を引き連れ岐阜城に集結させるべきです。作戦はその後でも遅くはありません」


 秀忠がそう言い切ると側近の者に言い放つ。


「今言ったこと、旗本、有力大名にすぐ伝えろ」


 しかし、家康は止めはしなかった。側近の者が消えると高ぶる秀忠を見つめる。


「幸村は手強い。影武者のお陰で難を免れたが、一歩間違えば徳川家は消滅していた」


「それは心得ております。今度こそ幸村を討って見せます」


「違う!」


 この家康の強い言葉にそれまで元気いっぱいだった秀忠がひるむ。家康は周りに誰もいないことを確認すると秀忠の耳元で囁く。


「今から言うふたつのことを心得よ」


 家康から征夷大将軍の職を引き継いだとは言え秀忠にとって父親は絶対だ。家康が秀忠の右耳の裏側を探る。家康は秀忠に重要な話をするとき必ずする行為で秀忠も心得ている。家康は目を細めながら小さなホクロから短い毛が二本出ているのを確かめる。目の前の秀忠が本物かどうか確かめたのだ。

 

[91]

 

 

「ひとつ。秀吉の生まれ変わりと言われる猿のような若者はどうも幸村の、そして北政所に操られているとは言え、大坂城下だけでなく京でも人気を集めている」


「ヤツはまやかし者。芸者のような存在」


「黙って聞け。ヤツは秀吉の影武者ではない。幸村は影武者ではない本物そっくりの秀吉を担ぎ出したのじゃ。こんな作戦を立てることができるのは幸村だけだ。侮るな」


「確かに」


「ふたつ。我が徳川一族は影武者、つまり服部一族に守られている」


「服部半蔵以下、服部一族の献身的な働きに感謝しております」


 家康は平常の声に戻った秀忠の口に手を当てる。


「服部一族は元は伊賀の忍者。声を落とせ」


 秀忠は納得できない表情を家康に向ける。


「幸村、豊臣だけが敵ではない。服部半蔵に裏切られたら徳川家は簡単に崩壊する」


「えっ!」


 幸い家康の片手が口を封じていたので秀忠の驚きは声にはならなかった。

 

[92]

 

 

「大坂城は恐ろしい城だ。何としても内堀も埋めたかったが、そんなことは大したことではない」


 再び秀忠は驚くが冷静さを取り戻していた。


「出陣は?」


「すべきではないと思った。それは『蘇った』という秀吉の素性がまったく分からないからだ」


 家康は相手の性格を研究し尽くしてから作戦を立てる癖がある。分からないまま攻撃すれば甚大な被害を受けることを身を持って体験していた。現に幸村の考え方をよく調べずに戦ったから何とか勝利したとはいえ気分的には敗北に近かった。


「動きが速すぎる。しかも人気がある。今回の戦いは春の陣のような影武者対影武者の戦ではない」


 父親の言葉の一つ一つに秀忠が頷く。


「今回の出陣に際して、服部半蔵を同行させるな。後ろから撃たれるかも知れない」


「父上は?」


「もちろん出陣する。準備しろ」


 秀忠はこれまでと違って家康が戦いを急ぎ始めたことに驚く。それを察してか家康が促す。


「冬をやり過ごしてからと考えていたが、そうも行かなくなった。急がねば。冬が来る前に」


 ここで秀忠は父親の深遠な思考に気付く。

 

[93]

 

 

「大坂は江戸に比べて冬でも暖かいというが、こちらは野営しなければならない」


 秀忠が家康の次の言葉を先取りする。


「相手は大坂城で寒さを凌げる」


「それなりの装備をしろ」


「心得ました」


***


 関ヶ原の戦い以降、世代交代をほぼ終えた東軍の有力大名たちが徳川軍に合流する。目指すは大坂城。


「春の陣での約束を反故にして外堀を復活させている。明らかな謀反だ」


 岐阜城で戦略会議が開かれる。


「聞けば秀吉が復活したと」


「どこかで秀吉に似た芸人でも見つけたのであろう。風評に惑わされるな!」


 秀忠が活を入れる。幸い世代交代を終えていたので昔の秀吉を知る者はわずかだ。


「猿芝居だとおっしゃるのですな」


 笑い声があげる。


「油断はできない。秀頼は成長した……」


 失礼にも秀忠の言葉を遮る若い大名がいた。

 

[94]

 

 

「過保護で育った秀頼など大したことはない」


 家康の鋭い視線がその者に向かう。


「秀頼の後ろには真田幸村がいる」


 数少ない長老の大名も同じように厳しい視線を向ける。


「幸村を侮るな。あやつは数少ない手勢で大軍を何度も討ち破った知将だ」


 家康が頷くとおもむろに口を開く。


「お前たちを首にしても味方にしたかった。何度も寝返りを調略したが、ことごとく退けよった」


 家康のにらみが深くなる。


「幸村は秀吉を信奉している。いいか。それ以上にお前たちはわしに忠実であれ」


「もちろんでございます。必ずや幸村の首を取って見せます。命にかけて」


 しかし、家康は頷かない。秀忠が繋ぐ。


「幸村だけではない。外堀が復活すれば大坂城は再び難攻不落の城となる。肝に銘ぜよ」


***


 家康は大軍を三つに分ける。


 第一部隊は京に入り支配下にある二条城、伏見桃山城、淀城などで兵糧を調達し城兵とともに淀川沿いを下って大坂城に向かう。

 

[95]

 

 

 第二部隊は、伊賀を避けて奈良から河内に向かって大坂城を目指す。


 第三部隊は大回りして紀伊国に向かう。ただし、この部隊は小規模だ。幸村の第二の故郷である九度山やその付近で石山本願寺と交流があった雑賀衆、さらには根来衆を牽制するために派遣する。場合によっては堺に進軍し第二部隊と合流して大坂城を目指す。巨大軍団だからこそ三手に分けることができる。


 一方、京や伊賀や紀州からの情報が幸村の耳に入る。もちろん家康はそのことに気付いている。だが、家康自身も承知していることだが、大軍は威力はあるものの、どうしても動きが鈍い。その点をどう対処するかが冬の陣の成否となることも理解している。


***


「しびれが切れたようだ」


 幸村が秀頼と小猿に微笑む。


 先読みしていた幸村が大きな地図を広げてこれからの対応を説明する。


「いい時期だ」


「?」


「正月の儀式も終わって城下は引き締まっている。しかも今年は寒くなるようだ」


 水軍を擁する雑賀衆からの情報によれば紀州の海が例年になく荒れている。こんなときは温暖な紀州でも大雪になるという。

 

[96]

 

 

「雪が味方になるとでも」


「いずれはな」


 前置きが長くなることを嫌って幸村が地図を指し示す。秀頼とともにいつの間にか存在感を増した小猿も熱心に説明を聞く。


「まず、淀川を下る徳川軍には舟に穴をあげる程度の攻撃でいい。舟が沈没すれば後は冷たい川が始末してくれる」


「幸村様」


 珍しく小猿が発言する。幸村が驚きを抑えて小猿を促す。


「雪の季節に攻めるのなら、それなりの覚悟と準備をするはずでは」


「頼もしい意見だ」


 しかし、小猿はそれ以上意見しない。幸村が小猿を見つめてからにこやかに応える。


「すでに手は打っている」


 小猿ではなく秀頼が首を傾げる。


「伏見の酒を買い占めた」


 察しが鈍いはずの三好清海入道が大声をあげる。


「寒い冬は酒に限る。その酒を買い占めてしまうとは」


「もちろん、全部ではない」

 

[97]

 

 

「?」


 得意満面の三好清海入道が幸村に説明を求める。


「残ったわずかの酒を徳川軍は取り合いするはず」


 秀頼が口を挟む。


「酒だけではなく米も買い占めなければ」


「米は酒の原料でもあるが、新米もほとんどを買い占めた」


 誰もが幸村の作戦を理解する。


 大坂城に籠もって戦うには兵糧が必要だ。兵糧が尽きれば城は陥落する。一方、攻める方も同じで途中で調達しなければならない。


「買い占めは商人に任せればいい。少なくなった米や酒は京の盗賊石川五左衛門に略奪させる」


 この幸村の発言に一番感心したのは小猿だったが黙っている。そんな小猿を見つめながら静かに言葉を収める。


「雪を待つ」


***


 もちろん家康も兵糧を重視して大坂城に攻め入る戦術を構築する。兵糧はある意味武器より重要である。


 豊臣は大坂で経済を握ったが、江戸はまだ発展途上にあった。「徳川の兵力」対「豊臣の経済力」の戦いが始まる。

 

[98]

 

 

 正月気分はとっくの昔に消えていた。ところが大坂は冬の降水量が少ないので、復活したものの外堀は空堀だった。だがその外側には安井道頓が掘削した道頓堀などの大外堀が形成されていた。水運が盛んになり大坂の経済力はますます発展する。


 寒いというより凍えるような本格的な冬が大坂を包み始める。すでに伊賀者から徳川軍の情報が届いている。


「慎重な家康ならこんな時期にと思っていたが、本気で攻めるつもりだ」


 幸村に小猿が応じる。


「真田丸があった清水谷や安井道頓が掘削した二ツ井戸の湧き水は凍結しないそうです」


「雪を水代わりにすることは難しい。湧き水が豊富な場所にはそれなりの兵を配置させよ」


 現場を確認していた三好清海入道に幸村が指示する。


「馬には高麗人参をたらふく食わせておけ。馬用のわらじの用意に抜かりはないな?」


「十分用意しました」


「町民の食糧は?」


「町民はよく心得ております。心配には及びません」


「雪が降ったら鎧は軽装にとの指示は徹底しているか」


「口うるさく指導しています」

 

[99]

 

 

 幸村の点検作業が確実に進められた。このとき根来忍者が許されて天守に入ると幸村が驚く。名前は知らないが顔見知りだった、


「九度山では世話になった」


 幸村が深々と頭を下げる。


「あのとき、お前の助けがなかったら、私はここにはいない」


 しかし、根来忍者が感傷にふける幸村を制する。


「その九度山で徳川軍を足止めしました。奴らは進むことも退くこともできない状態です」


「ありがたい!感謝する」


 幸村は素直に頭を下げ直す。


「我らはもちろん雑賀衆も今回の徳川の攻撃に備え、さらには大坂に向かい微力ながらも幸村殿支えるつもりでしたが、紀州は地震で混乱しております」


「大きな地震か!」


「津波もあって被害が広がっています」


「ここはまったく揺れなかった」


「大坂城は徳川の攻撃だけでなく地震にも強い城と聞いております」


 幸村は根来忍者に近づき手を握る。


「この戦が済めば紀州に救援隊を派遣する。それまで堪えてくれ」

 

[100]

 

 

 根来忍者は表情を変えずに応える。


「徳川軍の情報を伝えるために参っただけ。それでは」


 根来忍者が姿を消すと幸村は消えた当たりに向かって大きな声をあげる。


「そなたの心ゆき、肝に銘じた!」


***


 タイミングというものがある。天候を予測することは困難だ。一方踏み出せば後退できないこともある。深夜から降り始めた雪が天守閣はもちろん夜明けには大坂城の周りの景色を一変させる。雨が降っても何とか鉄砲に着火できるが寒い冬となるとそうも行かない。指先が凍えてどうしようもないからだ。


 根来忍者の忍耐力と冷静さに加えて、地震に見舞われた地元の民を守るという気持ちに幸村は感動したからか、戦いを前にして心構えを指示する。


「敵兵を皆殺しにせずに場合によっては助けるのだ」


 この言葉に秀頼はもちろん真田十勇士も首を傾げる。


「心配するな。徳川軍から武器を取り上げるのが目的だ。奴らは武器より暖かいお茶の方がいいに決まっている」


「それなら殺してからでもいいではないか」


 日頃過激なことを言わない秀頼が疑問を呈する。

 

[101]

 

 

「違います。やり方によっては徳川軍を味方にできるかも知れない」


 秀頼が一言発する。


「甘い!」


 こんなことを秀頼から言われたことのない幸村が驚くが、そこはふたりの友情が修復する。


「自信はないが我々には経済力はある。でも兵力は徳川軍の半分以下だ」


「経済力で家康を倒せるのか」


「いいえ。もうひとつ問題があります。武器を最新型にする必要があります。紀州から供給される鉄砲を除いてほとんどの武器が旧態依然です。信長がなぜ数々の戦いを制したのか。石山本願寺の攻撃を思い出してください」


 秀頼の側で小猿が瞬きもせずに幸村を見つめる。秀吉の様々なやり方を吸収した幸村から、逆に小猿は幸村の戦術をすべて吸収しようとする。


「この戦いは五分でいい。次の、そしてその次の……戦いが勝負。関ヶ原の負けを一気に取り返すことは不可能。階段を着実に一歩ずつ登る覚悟が必要です」


 石田三成と違って幸村は自分が天下を取るなど考えないからこそ、周りの人間から共感を得た。秀頼、北政所、小猿、真田十勇士、百地三太夫、猿飛大猿、根来衆、雑賀衆などなど。


「まさしく家康の戦略がそうです。秋の陣、春の陣と段階を踏んでじわじわと大坂城に迫った。一気に攻めるには大坂城は余りにも堅牢な城。余力を残して戦わなければ全滅の恐れがある。家康から見れば大坂城はそう見える」

 

[102]

 

 

「敵の視点を分析しろと言うのだな」


「信長、秀吉は名将です。そして家康はそれ以上です。この三人のやり方の中で一番いい方法を選択する」


「よく分かった。いつもながら深い読みをするな」


「必死度が勝負の分かれ目」


***


 次の朝には雪がやんで快晴で空気は澄み渡り天守閣から遠くの南や東方向を見渡すと徳川軍の陣がはっきりと確認できる。


「すぐに攻めてくるはず」


 幸村は北の空を確認する。どんよりとした分厚い雲が覆っている。


「本格的な冬が来る前に家康は秋の陣を起こしたが、用心さが邪魔をして今はこの時期に攻撃せざるを得なかった。家康も歳を取って大局観を失いつつあるようだ」


 秀頼の緩みを幸村が制する。


「この寒さ、敵味方どちらにも与しません」


 しばらくすると徳川の陣営がかすむ。炊き出しを始めたのだ


「朝飯を取っている」

 

[103]

 

 

「腹ごしらえか。そうするといよいよだな」


 秀頼が二の丸、三の丸に視線を移して暖かい朝飯を食っている兵士を確認する。


「よし、食事が済んだ者から抜け穴に潜るよう指示を出せ」


 今回の作戦は抜け穴を通って外堀遠くの出口から徳川軍を討つ奇襲攻撃だ。すでに何度も穴の広さ長さを調査して整備した。狭いので槍は三本に分けてそれぞれの中に鉄線を通して抜け穴から出たらその鉄線を引くと元の槍になるという武器を開発した。そして刀の代わりに苦無くないを持たせた。


 真田十勇士の指導の下これらの武器を使いこなすまでになり、すべての兵がまるで忍者となった。しかも抜け穴の中は暖かい。にわかに秀頼の表情が緩むのも無理はない。


「実戦でどれだけの兵を抜け穴を使って最前線に送り込めるか、楽しみだ」


 この辺の話になると幸村はいつも心配になる。どうしても秀頼は奇襲作戦の重みより興味が先立つのだ。戦いはゲームではないのに真剣味が欠けるのを幸村は心配するが、秀頼は自信にあふれた言葉を連発する。


「万全だ。いつでも抜け穴から出て攻撃できる」


 もちろんそのように計算して幸村は屈強な兵を配備しているが、この作戦の本質はそうではない。無数に近い抜け穴が最後の決戦のときに本当に役に立つのかという確認に過ぎない。そしてあくまでもこの秀頼を天下人にさせるという目的に揺らぎがないからだ。

 

[104]

 

 

 やがて朝飯のかまどの水蒸気のかたまりが消える。つまり徳川軍の進軍が始まる。幸村が秀頼を厳しく見つめたまま命令を発する。


「二の丸、三の丸の騎馬隊、出撃!」


 幸村は遠眼鏡を放り出すと天守下にの愛馬を目指す。飛び乗ると軍扇を前方に向けて本丸から森ノ宮を目指す。すぐに馬の鼻から白い息が出る。


***


 幸村率いる騎馬隊は分散して多数の抜け穴の出口から少し離れたところで徳川軍を待つ。幸村は真田丸があったところと四天王寺の中間地点で真田十勇士の報告を待つ。さすがに徳川軍は積もった雪をもろともせずに向かってくる。しかし、徳川軍は寒さを凌ぐため厚着をして甲冑を身にまとっていた。それを知った幸村が総攻撃を仕掛ける。ところが、刃をまみえたところで信じられない命令を下す。


「後退!後退」


 敵を欺く幸村得意の作戦だが、世代交代を終えた徳川軍にその作戦を理解できる将はいない。この間に抜け穴を出た精鋭部隊が待ち構える。騎馬隊だけだと思っていた徳川軍が目の前の大軍に狼狽える。


「どこから来たのだ?」


 抜け穴で体力を温存していた兵の動きは素早い。すると後退を中止した騎馬隊や遅れて到着した足軽部隊が総攻撃を仕掛ける。

 

[105]

 

 

 このような戦いが抜け穴の出口付近で繰り広げられる。いつの間にか北の空が真っ黒になっている。冬将軍の到来だ。すかさず幸村が命令する。


「抜け穴の出口を塞げ!塞いだらすぐ撤退する!」


 伝令が馬に乗ると鞭を入れる。すべての戦場に幸村の命令を伝えるためだ。さらに幸村が追加する。


「深追いするな。もはや敵は徳川ではない。敵は今の今まで味方だった冬将軍!」


 チャンスとばかりと気負っていた兵に幸村の独特の冗談を飛ばす。


「大坂城に戻って宴会だ!酒はいくらでもある!」


 この戦いで膨大な凍死者を出したのは徳川軍だった。一方豊臣軍に凍死者はいなかった。大坂城やその周辺では燗酒が振る舞われ、町民から脂がのった魚が寄付された。次なる戦いのためと深酒は許されなかったが、家康は撤退を選んだ。大敗したが損失を最小限に留めた。


 秀頼以下淀君も喜んだが、幸村や北政所は引き締めを忘れなかった。もう冬の陣はない。次はどの季節で戦いが始まるのか、幸村はすでに先を考えていた。


「家康が恥など考えずに引き上げた」


 秀頼がそんな幸村に酒を勧めると乱暴に振り払う。


「これからが大変だ」

 

[106]