01 山田電気で買ったテレビ


 夏の暑い夕暮れどき。古いアパートの一室で田中は保証書を見ながら何も映らないテレビを腹立たしく睨む。


「山田電気で買ったんだ。まだ五年しか経っていない」


 携帯を手にすると保証書に記載された電話番号を入力して応答を待つ。


「そのテレビではもう放送を受信できません。アナログ放送が終了してデジタル放送に替わりました。お安くしますから地上デジタルテレビの購入をお勧めします」


 取りあえず一通りの悪態をついてから店に向かうと告げる。


「サカタと申します。来られたら私が対応させていただきます」


 田中は薄い財布を薄いジャケットの内ポケットに入れてアパートを出る。日が暮れようとする道を汚いハンカチで汗をぬぐいながらつぶやく。


「テレビよりエアコンの方がいいかも」


「先ほどお電話をいただいた田中様ですね。こちらへ」


 その店員の胸の「逆田」という名札には「サカタ」というフリガナが振られている。


「よく『ギャクダ』と呼ばれます」


[1]

 


 愛想良くテレビ売り場に案内する。


「誰が勝手にデジタル放送に替えたんだ?」


「政府です。我々ではありません」


 大小様々な液晶テレビが並んでいる。


「ご予算は?大きさは?」


「今のが二〇インチだから三〇インチぐらいのがいいな」


「分かりました。これがお勧めですね」


 何も映っていない白いテレビを指さす。


「一〇万円もするのか。あっ!」


 田中はすぐそばの四〇インチの液晶テレビを見て驚く。逆田はニコニコしながら田中を制する。


「六万円の四〇インチより、なぜ四万円も高い一〇万円の三〇インチを勧めるんだと言いたいのでしょ」


 田中は頷くと更に五〇インチの液晶テレビの値札を見る。


「なぜ、五〇インチと同じ値段の三〇インチを勧めるんだ?」


「これは一台限定の特殊なテレビです」


 逆田の薄気味の悪い微笑みに田中は一歩下がる。


[2]

 


「特殊?3D?」


「いえ、3Dよりもっとすごい画面が見られます」


 他のテレビはすべて放送やビデオ映像が映されているが、逆田が勧めるテレビ画面は黒いままだ。


「そのすごい画面を見せてくれ」


「残念ながら、このテレビはアンテナに繋がっていません」


「それならビデオ映像でいいから映してくれ」


「このテレビは番組を録画することはもちろんのことビデオの再生もできません」


「なんだって!そんなテレビを誰が買うんだ」


「あなたです。なぜ録画できないのかはあとで分かります」


 田中は絶句しながらも冷静にテレビを観察する。


「どこのメーカー製なんだ」


 画面の外側を丹念に見るが、ブランド名はおろかスイッチや操作ボタンすらない。


「これはマイナーなメーカーの試作品です。しかし、驚くべきテレビなのです」


「じゃ、あんたが買えばいいじゃないか」


「店員は展示品を購入することができないルールになっています」


「ふーん」


[3]

 


 田中はカラ返事をしてから逆田に詰めよる。


「だったら、退職して買えばいい」


 逆田が田中から視線を外すと用心深く周りを見渡してから言葉を返す。


「実はサラ金から大金を借りています。ここでまじめに働くという条件付で返済を猶予してもらっているのです」


 田中が目を閉じる。田中もサラ金からときどき送られてくる督促状のことを思い出して目眩を覚える。そして逆田に奇妙な親近感を抱く。


「しかし、一〇万は高すぎる。あっ、そうそう。予算は三万円なんだ。三万円で買えるお勧め品は?」
 逆田がうなだれる。そしてヒザをつくと哀願するように田中を見上げる。


「今日はまだ一台も売れていません。このままではブタです。なんとかご購入いただけないでしょうか」


 こんな売り方では誰がこの店員から買おうとするのか。田中は思わず吹き出しそうになる。しかし、すぐに哀れな気持ちになって不覚にも涙を浮かべる。その涙が逆田の顔に落ちる。


 なにがどこでどうなったのか、わからないまま田中は狭いアパートの部屋でテレビを見つめる。取扱説明書もなく電源コードやリモコンも付いていないテレビを値切りもせずに購入して


[4]

 


しまった。当然何も映らないテレビを前にして後悔の念に涙する。


「今からでも遅くない。返品しよう」


 勢いよく立ち上がるとくたびれた段ボールをテレビの横に置く。そのときどこからか声がする。


「こんばんわ。九時のニュースです」


 軽く頭を下げたアナウンサーがテレビの中にいる。


「まさか!」


 アンテナはもちろんコンセントにも繋いでいないのにニュースが流れる。四〇前後の男性と二〇代後半の女性のアナウンサーが並んで、まるで田中に微笑みかけるように頭を下げる。


「最初は台風関連のニュースです」


 画面は台風の進路図に替わる。


「大型で非常に強い勢力を持った台風七号は足摺岬の南、約五〇キロメートルの海上を時速一〇キロの非常に遅い速度で北から北北東に進路を変えて近畿地方に向かっています」


田中は急に画面が現れたことに違和感を感じたが、画面を見つめる。ふたりのアナウンサーの姿が消えて、屋根がないアパートの画面に替わる。


「台風七号は至るところで大きな爪痕を残しました」


 どこかで見たようなアパートだ。田中はこの不思議なテレビのことも忘れて画面を食い入る


[5]

 


ように見つめる。


「なんだ!このアパートじゃないか」


 田中は天井を見上げる。天井はなく黒々とした空を見上げる。


「降水確率は百%。一時間あたりの降水量は百ミリでバケツをひっくり返したような……」


 田中は強烈なシャワーのような雨に打たれてそのまま気を失う。


「おはようございます。ニュース七(セブン)です。誤解しないでください。夕方ではなく朝のニュース七です」


 田中はパンツ一丁の姿でセンベイ布団から顔を出してテレビを見つめる。


「ご安心ください。今日は晴れです」


 まるで田中をなぐさめるように女性のアナウンサーが告げる。目覚めたあとにしては鋭い反応を田中が示す。


「夜のニュースの女性アナウンサーと同じ人なのに、なぜか地味に見えるなあ」


立ち上がった田中は思い出したように天井を見つめる。シミのある天井が田中に安心感を与える。田中はそのまま洗面所に行くと一仕事済ませてから髭を剃る。そして通勤服に着替えるとドアに鍵をかけて階段を下りる。アパートの前の道を駅に向かって歩きだす。


 行きつけの喫茶店でモーニングサービスを注文してから会社に向かうのが日課だった。しか


[6]

 


し、その喫茶店は閉まっていたし、人通りがいつもより少ない。田中は腕を伸ばして安物のデジタル腕時計を見る。


「土曜日?」


 田中は昨日の記憶を探る。昨日は果たして金曜日だったのか。


「俺は?」


 寝覚めてからそんなに時間が経っていないせいか、現実に抵抗する気力を失った田中はアパートに戻ることにする。


「……競馬の結果です。第一レースは……」


 どれくらい眠っていたのか。田中は大音量の競馬ニュースで目を覚ます。


「付けっぱなしで寝てしまったのか」


 田中はそんなはずはないという表情をしながら、ボーッと画面を見つめる。


「第九レースの配当は史上始まって以来の高額配当となりました」


 競馬に全く興味がないと言うよりは馬券を買う金に余裕のない田中はチャンネルを変えたい衝動に駆られるが、テレビにはスイッチどころかなんのボタンもない。リモコンもない以上どうすることもできない。相変わらず放送が続いている。コンセントに繋がっていないのに不思議なテレビの音声は大きいままで、田中は両耳を押さえる。そんな田中の気持ちが伝わったの


[7]

 

 

か、音声が途切れ、画面も消える。


「どうなっているんだ。それとも俺が狂っているのか」


 山田電気のテレビ売り場で田中は店員の逆田を探すが見当たらない。日曜日なので客が多い。やっと店員を捕まえて尋ねる。


「サカタさんはどこにいます?」


「サカタ?」


「このテレビ売り場のサカタさんです」


「サカタ?そのような名前の店員はいませんが」


 迷惑そうに離れようとする店員の腕を取って田中が興奮する。


「『逆』に『田』と書いて『サカタ』と読む店員さんです」


「いません。それじゃ」


 田中は諦めきれずに他の店員にも同じことを尋ねる。数人に尋ねたが無愛想な答えしか返ってこなかった。店内は人いきれで暑い。田中は汗をかいているが、その汗が妙に冷たい。突然、田中が床に倒れる。


 気が付くと田中はアパートの自室の布団の上で仰向けになって寝ていた。薄目を明けると若


[8]

 


い女の顔が田中の目の前にある。額には冷たいタオルが置かれている。


「大丈夫ですか」


 目の前の若い女がやさしく声をかける。


「私は隣の部屋に住む山本です」


 山本と名乗る女の横では救急隊員が田中の脈を取りながらこれまでの経緯を説明する。


「何軒も救急病院を回ったのですが受け入れを拒否されましてなあ。仕方なく運転免許証の住所を頼りにここにお連れしたのです。もう大丈夫なようですね」


「大家さんに連絡したのですが不在でした。仕方ないので私が身元引受人になったの」


「すいません」


「それでは。次の仕事がありますので」


 救急隊員は立ち上がるとドアに向かう。山本も立ち上がってドアまで隊員を見送ると丁寧に頭を下げる。


「ご苦労様でした」


 ドアを閉めてから田中の横でひざまずく。そして額のタオルを取ると氷水が入った洗面器に漬けてから絞って再び田中の額に載せる。通路で会ったときに軽く会釈をする程度の付き合いしかないのに、やけに親切なのが気に掛かるが、田中は満更でもない気持ちに浸る。しかし、出た言葉は反対だった。


[9]

 


「もう大丈夫です。ご迷惑をかけて申し訳ない。あとは自分で何とかできそうなのでお帰りください」


 体力が回復したのか田中の腹が「グー」と鳴る。


「分かりました。部屋に戻って何か食事でも作るわ。食べたいものがあれば言ってください」


「いいえ。これ以上迷惑をおかけするわけには」


「いいのよ。じゃあ、アッサリしたものでも作って持ってくるわ」


 山本は立ち上がるとスカートから出た引き締まった健康そうな脚をドア方向に移動させる。そして女そのものの背中が消える。


「笑うと意外に可愛い」


 田中は生まれてはじめて女性を意識する。


 ドアのブザーが鳴る。時間は朝の六時だ。


「おはよう。毎日同じものだけど」


 山本が半分開いたドアから田中にサンドイッチを差し入れる。


「毎日すいません。申し訳ないけれど、もう大丈夫です。通勤途中でモーニングを食べますから」


 ドアを全開すると田中は丁寧におじぎをする。


[10]

 


「いいのよ。一人分も二人分も作る手間は同じですから」


「でも、材料が二倍いるでしょ」


 あの日から、もう五日続けて山本が田中にサンドイッチを差し入れている。さすがに田中は恐縮しきって山本に白い封筒を差しだす。


「心ばかりのお礼です。受け取ってください」


「いやだわ。そんなつもりでサンドイッチを作ってるんじゃないわ」


「わかっています。でも」


 押しとどめていた山本の手が田中の手を握る。驚いて田中が一歩引く。


「わかったわ。明日の夜、このお金で美味しいものを造るから、あなたの部屋で一緒にお酒でも飲まない?」


 山本は有無を言わせずに白い封筒を受け取ると廊下を歩きはじめる。田中は山本の背中を眩しそうに見つめる。その背中が回転する。


「九時に伺いますわ」


 再び背を向けると健康そうな足音を響かせて錆びた階段を山本が降りていく。


 むさ苦しい部屋を片付けて田中は冷蔵庫を確認する。発泡酒ではなく久しぶりに缶ビールが並んでいる。


[11]

 


「本当に来るんだろうか」


 独り言を打ち消すようにブザーが鳴る。はやる気持ちを抑えてドアを開ける。ピンクの布を載せたバスケットを持った山本が笑顔で立っている。


「こんばんわ」


 田中はぎこちなく山本を招き入れる。山本が背もたれのない丸い椅子に座ると田中は冷やしておいたグラスと缶ビールをテーブルに置く。小さなテーブルに山本はうれしそうに手作りの料理を所狭しと置いていく。取り皿や溜まり醤油の小皿まで計ったように配置される。何を言っていいのかもわからずに田中は黙ったまま缶ビールをふたつのグラスに注ぐ。泡立つグラスを見つめてから山本が田中に微笑む。


「全快祝いね」


「ありがとう」


 グラスとグラスの当たる音がしたあと田中が口を付ける。山本は一気に飲み干す。それを見て慌てて田中も飲み干す。注ごうとする田中を制して山本は先に自分のグラスに残った缶ビールを注ぐ。そして新しい缶ビールを手にすると田中のグラスに注ぐ。


「お口に合うかどうか分からないけれど、食べてくださる?」


 山本は割り箸をパチンと割ると田中に手渡す。


「も、もちろん」


[12]

 


 刺身を口に運ぶ。


「美味しい」


「ありがとう。でもそれはスーパーで買ったものをお皿に移しただけ」


 田中は刺身を咬まずに呑みこんでしまう。ワサビが効いたのか、それとも刺身を喉に詰めたのか、むせて涙を浮かべる。山本は心配そうにハンカチを取り出す。


「大丈夫ですか?」


 田中は首を横に振って山本の親切を無言で拒絶する。


「田中さんって純なのね」


 軽く咳をして喉の調子を整えると田中はこの六日間考え抜いた疑問を山本にぶつける。


「なぜ、僕みたいなうだつの上がらない男にここまで親切にしてくれるんですか」


 これまでの弱々しい雰囲気とはまったく違う語調に山本は少しだけ首を傾げる。


「親切は嫌いですか」


 二杯目を、しかも立て続けに飲んだ田中は正直にこの言葉に反応する。


「いえ。でも、見ず知らずの男に、しかも男の僕の部屋に……。若い女の人としては不用心なのではないですか」


「まるで、お父さんのセリフだわ。親切や私のこと、嫌いですか」


 視線の座った山本の瞳が大きく開いたあと、横一筋のにこやかな目線に変わる。田中には次


[13]

 


の言葉を探すだけの余裕がない。こんな経験はもちろんないし、視線をどこに持っていけばいいのかもわからない。


「おかわり」


 山本は自分のグラスを高くあげる。慌てて田中がビールを注ぐ。半分ぐらい注いだとき山本はグラスをより高くあげて注がれる量を調整する。


「私、アルコール、あまり得意じゃないの」


「僕もです」


「食べてくださいね。もったいないから」


 田中はほっとしたような表情を浮かべて遅い夕食を楽しむ。


 少し眠気を覚えた田中に山本は退屈そうに言葉を掛ける。


「テレビ見ていいかしら」


 少し不満顔になっている山本に田中がハッとする。


「あのー、そのテレビは……」


「リモコンはどこ?」


「あのー」


 そのときテレビの画面がパッと明るくなって映像が現れる。ニュース番組が流れている。


[14]

 


「次に競馬です」


 山本が食い入るように画面を見つめる。


「……で高額配当が生まれました。一—二—三で九八七六万倍の配当です。これは競馬史上最高の配当で……」


 山本の顔が硬直する。そして詰めていた息を一気に吐きだす。


「競馬に興味あるんですか」


 しばらくしてから、山本の上ずった声がする。


「いえ。それより変なテレビね。スイッチやボタンは後ろ側にあるの?」


「それが何もない。リモコンもない。ほら、コードもないだろ。それなのに思い出したように画面が現れるんだ」


 大きなあくびをする田中のグラスに山本がビールを注ぐ。


「僕、アルコール、得意じゃ、ないんだ」


「でも、まだ一杯、食べ物が残っているわ。美味しくない?」


「いや、美味しい」


「折角だから、もっと食べて」


「ああ」


 田中は箸を持つと刺身をつまもうとする。しかし、目が霞んで椅子から転げ落ちてしまう。


[15]

 


「田中さん!大丈夫?」


 田中はそのままイビキをかいて眠ってしまう。山本は田中の頬を指で突いてから軽く叩く。いつの間にか何も映っていないテレビに近づいて観察するが、ため息をつくとテレビを持ち上げようとする。思ったより重くて、まるでテレビ台に貼り付いたように動かない。椅子に座ると目を閉じて思案する。


 床の上で毛布にくるまって田中が寝ている。目が覚めると周りを見渡す。昨夜の山本の手作りの料理も何もかもがなかったようにテーブルの上はもちろんのこと、部屋はさっぱりと片付けられている。そのテーブルにメモが置いてある。


「アルコールがお好きじゃないのに無理矢理お勧めしてごめんなさい。熟睡されていたのと休日出勤なので、勝手に片付けておいとましました。冷蔵庫におにぎりがあります」


 田中は壁の時計を見てからカーテンを開ける。目映い光が部屋を別世界のように変更する。


「半日も眠っていたのか」


 田中は軽い頭痛を覚えるが、気にとめることもなく狭い浴室に入ると裸になってシャワーを浴びる。


「夢ではなかった。でも彼女には迷惑掛けてしまったなあ」


 浴室で鏡の中の自分を見つめながらバスタオルで体を拭くと下着をまとうことなくそのバス


[16]

 


タオルを腰に巻きつける。そして冷蔵庫から大きなペットボトルを取り出すと山本が洗ってくれたコップに水を注いで一気に飲み干す。もう一度冷蔵庫を開けるとラップに包まれた握り飯を取り出す。テーブルに座ってかぶりつくと思わず「うまい!」と声を上げる。テレビには目もくれず、ラジオのスイッチを押す。


「大変なことになりました。配当は九八七六万倍。史上一位の高配当です」


「すごいな。二日連続の大穴か」


 田中がテーブルにポツンと言葉を置く。


 もう山本が田中の部屋を訪れることはなかった。翌日の月曜日帰宅したとき、隣の表札が白紙になっていた。急に山本が引っ越ししたのだ。田中の頭も真っ白になっていた。数日後大家に尋ねたが引越し先は分からないという。逆に大家は田中に白い視線を向けると冷たく迫る。


「田中さん。彼女に何かしたんですか」


「何かって?」


「男が女にすることはただひとつ」


「僕は何もしてません。勝手に彼女が手作りの料理を持ってきて……えーと土曜日の夜でした。そしてアルコールに弱い僕になん杯ものビールを飲ませたんです」


 大家が大声をあげて笑う。


[17]

 


「もう少しましなウソをつけ」


「本当です。大家さんもご存知でしょ。僕は缶ビール一本が限度だってことを」


「確かに」


「いつの間にか眠ってしまって気が付いたのは日曜日の昼過ぎで、部屋はきれいに片付けられていました」


 急に大家が警察官のような質問をする。


「何か盗まれたものでも?金は?」


「ありませんよ。家賃も滞納しているのに」


 大家がムッとして田中を睨む。


「早く払え!」


「ごめんなさい。給料日まで待ってください」


 大家は怯える田中を無視して目を閉じる。


「うだつの上がらん田中さんの部屋にあんな美人の山本さんが手作りの料理を持って訪ねるなどあり得ない」


「大家さんもそう思うでしょ」


「ワシの娘が何かの間違いで田中さんと結婚したいと言っても絶対に反対するな」


「そんなに僕はダメな男なんですか」


[18]

 


「普通、ここまで言われたら、激怒するはずだ。敢えて言えば人が好いと言うことか」


「よく、そう言われます。あるいは人畜無害とか」


「人畜無害か。ピッタリだ。しかし、家賃はキチンと払ってくれ」


「やっぱり、夢だったんだ。それも不思議な」


 部屋に戻った田中はテーブルに着くとテレビを見つめる。


「画面は三〇インチだけど、大きさは五〇インチぐらいある」


 確かに縁の幅が大きい。まるで小さな絵を大きな額に入れたような感じがする。


「あの店員、逆田はどこにいるんだろう」


 両腕をテーブルに組むように置いてアゴを載せる。


「逆田も山本さんも消えてしまった。大家も消えればいいのにな」


 そのときテレビがパッと明るく輝く。


「もう、やってられない」


 男性のアナウンサーがテレビの右端で拳を振るわせて怒鳴る。テレビの中央ではない。


「なんだ。これは」


 田中は本来の液晶画面の右外側に興奮したアナウンサーがヘッドセットを付けた男の胸ぐらを掴んでいる姿が映しだされる。そこはテレビの縁に当たる部分だ。あまりにも広い縁ではあ


[19]

 


るが。


「なぜ、天気予報の画面に女のアナウンサーを前面に映しだすんだ。控えめな気象予報士はともかくとして、これじゃ天気予報の全体画像が見えないじゃないか」


「佐藤アナウンサー。本番です。慎んでください」


「各地方の放送局は気象予報士どころか、天気予報の放送は画面だけを粛々と放送している。なぜ、本局だけがこのような変則的な放送をするんだ。地名は間違えるし……」


 画面中央に為替の相場が映しだされる。文句を言っていた男性アナウンサーが先ほどまでの興奮を収めて解説する。


「急激な円高が進んでいます。一ドル七〇円を超える円高です」


 しかし、男性アナウンサーの映像ではなく、都銀の外国為替のディーリングルームでヘッドセットを付けた担当者が忙しく紙切れの応酬をする画面が映っている。田中はその映像を不思議そうに見つめる。
 そのときドアのブザーが鳴ると大家の大きな声が聞こえる。田中は立ち上がるとドアのロックを解除する。


「夜分、恐れ入るが、ちょっと聞きたいことが……あっ!このテレビか!」


 大家はズケズケと入室してテレビの前に立つ。


「かなり古い液晶テレビだな」


[20]

 


「最近買ったんですよ」


 田中はなぜこのテレビに大家が興味を示すのかを尋ねることも忘れて弁解する。しげしげとテレビを見つめる大家に降って湧いた疑問を素直にぶつける。


「為替のニュースなんですが、この画面は何ですか」


「これはディーリングルームで為替の取引をしているんだ」


「なぜ、紙を飛ばしているんですか」


「いやあ……何をしているのかよく分からん」


「大家さんほどの人でも分からない映像をなぜ流すんですか?」


「そう言われればそうだな。いったい何をしているんだろう」


「ディーリングルームっていうのは何なんですか」


 大家は応えることなく、自分がなぜここに来たのかを思い出す。


「田中さん」


 田中が身構える。


「安心しろ。家賃の催促に来たんじゃない」


 田中が安堵の息をもらす。


「引っ越し業者の話によると、山本さんは超高層マンションの最上階に引っ越したらしい」


「えー。こんなボロボロの安アパートから?」


[21]

 


「ボロボロで悪かったな」


「すいません。ごめんなさい」


 大家は田中の詫びに反応することもなく、まだ流れているディーリングルームの画面を見つめる。


「FXで儲けたのかな」


「なんです。FXって」


「為替取引のことだ」


「円高や円安を利用して外国通貨を売ったり買ったりするんですか」


「わしもよく知らない。銀行からよく勧められるが、性分に合わないから手は出さなかった。というよりはよくわからん取引だから煩わしい勧誘から逃げたといった方が本音だった。家賃の取り立てに忙しいからと断った」


「すいません。来月はボーナスが入りますので今は堪えてください」


 しかし、大家はテレビに近づくと大声をあげる。


「この相場明日の相場じゃないか」


「わっ!画面が広がった!」


 左上に日付と共に時間が表示されて刻々と為替相場が映されている。


「田中さん!このテレビ、どうしたんだ」


[22]

 


「山田電気です」


「いつ?」


「えーと」


 大家はテレビと田中を交互に見つめる。そして購入の経緯をしゃべり始めると視線を田中に固定する。


 大家が風呂用の小さなワンセグテレビを持ってくる。


「山本さんはこの不思議なテレビの放送を見るためにおまえに接近したんだ。そう考えないとあんな美人がおまえに親切にするわけがない」


 田中は素直に頷くと大家に告げる。


「そういえば山本さんは競馬を見ていました」


「競馬?」


 大家は小さなワンセグテレビを器用に操ってスポーツニュースの番組を探す。


「おまえもそのテレビをスポーツ番組にしてくれ」


「やり方が分かりません」


「なんとかしろ」


 大家の額から汗が滴り落ちる。


[23]

 


「おい、関西テレビだ」


 ワンセグテレビに競馬予想の番組が映しだされる。


「明日の重賞レースの有馬温泉記念の予想を、まず有馬さんにお伺いします」


 そのとき、田中のテレビに有馬温泉記念レースの画面が現れる。画面は大画面で大写しされていてアナウンサーの興奮した叫び声が聞こえる。大家はワンセグテレビを放りだすとテレビを見つめる。レースは終わっていて配当が発表される。


「2—8で三八〇〇円。田中さん!メモするんだ」


 次の日の夕方、田中は大家の立派な応接室でジュースを飲んでいる。百インチもある立派なテレビに競馬速報が流れている。


「2—8で三八〇〇円。ピッタリだ」


「これ買っとけば大儲けですね。買う金があったらですけど。大家さんは買ったんですか」


「いや、買ってない。というより競馬をしたことがないから馬券の買い方が分からん」


「私はパチンコにのめり込んで全財産を失いました。でもあのテレビがあれば、山本さんのように大金持ちになれるかも」


「そんな金はすぐに消える。あぶく銭だ」


「でも、毎回必ず当たるんだ。使っても使っても補給できる」


[24]

 


「スイッチもリモコンもないあのテレビがおまえをずーっと友達だと思い続ければ可能かもしれない。浦島太郎のようにこういう類いの話は大概どこかで挫折する」


「山本さんはそういうことを承知していたのかも。だからすぐ引っ越したんだ」


「どうだろ。あの歳でそこまで悟ったとは思えない」


「大家さん。今後どうすればいいんですか」


「明日は出勤するんだろ」


「はい」


「一日だけあのテレビを貸してくれないか。家賃は過去の分も含めて全部免除するから」


「いいですよ。儲けてください」


 田中が素直に頭を下げる。大家はその田中の素直さに改めて承伏する。


「田中さん!私はあのテレビを利用して金儲けをしようなど考えていない。あのテレビはひょっとして田中さんの素直な気持ちを映しだす魔法のテレビかもしれない」


[25]