第四章  砂漠の村


* タクラマカン*

 昼間は灼熱の砂漠も夜になると急激に温度が下がる。テントの中でしっかりと毛布に身を包んだ少女が何度も寝返りを打つ。


 ここは中央アジアのタクラマカン砂漠のイリという村。その村と同じ名前の少女イリが目を冷ます。それは身体が濡れていたからだ。幼いころのことを思い出しておねしょをしたのかも、と心配する必要はなかった。


「起きて!みんな起きて!」


 生暖かい水がひたひたとその水位を上げる。イリやこの村の住民は溺れるという経験をしたことはないし、もちろん全員金槌で泳ぐという概念自体ない。


 外は暗い。弟を抱きかかえると父親と母親を蹴る。食べるのが精一杯の日々を送る疲れた両親はぐっすりと眠っている。水かさが増してテントが倒れる。イリは弟を抱いたまま外に出るとすぐ腰まで水に浸かる。夜明けが近いのか周りがかすかに明るい。


「お父さん!、お母さん!」


 今、弟を降ろすわけにはいかない。くずれたテントに水が染みこむ。そのテントの中で叫び声が一回だけ聞こえたあと、テントが流れる。イリは弟を抱えたままそのテントに飛び乗り身


[39]

 

 

を任す。それ以外の選択肢はなかった。


 空気を含んだテントがイリと弟を支える。内陸の砂漠に生まれたイリはオアシスの池は知っているが、湖どころか海というものを見たことがない。砂漠は巨大な湖となって大きな波を伴いその面積を広げる。地平線から太陽が昇ると周りが一気に明るくなる。イリは声もあげずに砂漠色の荒れ狂う湖面を見つめる。テントに水が染みこんで沈み始めたとき大きな波がイリと弟を呑み込む。

 

* サブマリン八〇八*

「引き揚げろ」


 命綱を腰に巻き付けて少女を小脇に抱えた水兵を引き寄せる。


「こんなに荒れているのに本艦は全く揺れない。トリプル・テンのお陰か」


 艦長に返事もせずにノロはその水兵をじっと見つめる。そして少女がぐったりとしているのに気付いて思わず大声をあげる。


「急げ!」


 揺れひとつない甲板で数人の水兵が手際よくロープを引き寄せる。少女を抱えたまま片手でロープを力強く握った水兵が甲板にたどり着く。


「医務室へ!」


 少女を受け取ったふたりの水兵が艦内に消えたのを確認するとノロは周りを見渡す。


[40]

 

 

「艦長、この湖の水を分析して欲しい。それにもう一度上空から観察しよう」


「全員、艦内に!高度千メートルまで上昇」


 サブマリン八〇八が垂直に上昇する。


「まるで黄河の濁流が渦巻いているようだ」


「消えた海水がこの砂漠の地下から噴き出しているのかも」


「トリプル・テンのお陰で最強の潜水艦になったが、設備は古いままだ。水質分析にはかなり時間がかかるかもしれない」


「少女を救出した水兵にここへ来るよう伝えてくれ」

 

 その水兵がセイルに現れる。


「ご苦労だった。教えて欲しいことがある」


 衣服が濡れている。


「水の味はどうだった」


「塩辛かったです」


 ノロは水兵の服を撫でて指をなめる。


「海水のようだ」


「海水だろ」


「いや、断定はできない。地中の岩塩を溶かした水が溢れたのかもしれない」


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「分析を急いでくれ」


「少女は?」


「ドクターが言うには、気絶してますが命に別状ないそうです」

* * *

「採取した水の中にプランクトンを発見しました」


「何!」


「しかも海洋性のプランクトンです」


「水質は?」


「ほぼ海水と同じ組成です」


「サハラ砂漠に移動しよう」


 すでに航海士、操舵士の腕はサブマリン八〇八を自由に操れるほどまでに上達している。


「速度計がないので分かりませんが、恐らく四〇〇ノット(一ノットは約一・六キロメートル)は出ています」


「ジェット機並とは言えないが、これまでのあらゆる艦船を超える新記録だ」


 ノロが医務室のドアを開ける。ベッドの上で少女が眠っている。


「少し落ち着きましたが、さっきまでうなされていました」


「ドクター、外傷は?」


[42]

 

 

「ありません。少し水を飲んだようです」


「よかった」


「しばらくすると目が覚めるはずです」


「ドクターひとりで対処してくれ。周りをむさ苦しい男が囲んでいたら、再び気絶するかもしれない」

* * *

「サハラ砂漠まで行く必要はないようです」

 

「アラビア半島か?」


「もう半島ではありません。紅海も消滅してアフリカ大陸と一体化しています」


「しかも元内陸部に巨大な湖を形成しています。そのうち、溢れ出した水が大量の砂を海に運ぶかもしれません」


 そんな報告を肯定するような光景がモニターに映し出されている。


「アラビア人は?」


「傍受したニュースによりますと大洪水で壊滅的な被害を受けたようです」


「詳しく説明してくれ」


「できません。サウジアラビアの国営放送はそれだけの情報を流したあと、先ほど使命を終えました」


[43]

 

 

* * *

「医務室に来てください。例の少女が目覚めそうです!」


 艦長とノロが医務室に飛び込んだとき、少女がうわごとを発する。


「……お母さん、お父さん……ノロ、ノロ!」


「!」


 艦長が興奮してノロに視線を向ける。


「見覚えはない。どこかで出会ったという記憶もない」


 食べ物に恵まれた生活を送っているようには見えない。少女は痩せこけている。それでも寝顔は大人の顔つきをしている。その目が大きく開く。


「ここは?」


「心配はいりません。ここは船の中の医務室です。気分は?」


「船?医務室?……」


「気分は?」


「大丈夫です。ありがとうございます」


 大きな目でしっかりとドクターを見つめる。起き上がろうとする少女をドクターが制止する。


「母さんや父さんは?弟は?」


 澄んだ目から涙が溢れる。


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「まず、あなたの名前を教えて欲しい」


「イリです」


「私はドクター、こちらがこの船の艦長、それにノロ」


「ノロ!」
 急に興奮したイリはドクターの制止を振り切ってノロに近づく。


「無事だったのね!ノロ!」


 イリがノロを力一杯抱きしめる。


「く、苦しい」
「どういうことだ」


 イリの「よかった、よかった」という声が繰り返し室内に流れる。

* * *

「俺がイリの弟そっくりで名前も同じなんて」


 イリの表情が暗くなる。しかし、気を取りなおして事情を話し出すが、「グー」というお腹


の音に舌をぺろっと出して笑う。


「はずかしい」


「食事の用意を。献立は私が指示しよう」


「ドクターに任せる」


[45]

 

 

 艦長とノロは医務室を出るといくつかの隔壁を通過して司令所に戻る。


「あんな可愛い少女の弟がノロに似ているとは驚いたな。本当に弟だと真剣に抱きしめたものなあ」


 艦内はこの話題で持ちきりになり、久しぶりに笑いが溢れて和やかな雰囲気になる。


「ところでサウジアラビアの状況は?」


「混乱した通信やラジオ放送の中に複数の共通した情報がありました」


「それは?」


「地震と火山の活動です」


「やっぱり俺たちはすべきでなかったことをしてしまったんだ」


「その件についてはみんな納得済みじゃないか。それより、サウジアラビアの状況は」


「地震で陥没したようです」


 ノロがセイルに登ろうとする。


「艦底のビデオカメラの映像を見てください」


 航海士の横のモニターに元アラビア半島の様子が映っている。大きな黄色い湖となって表面がキラキラと輝いている。


「本当に地震で陥没したのか」


「確認は取れていません」


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「水の重みで陥没したのかもしれない」


「艦底のビデオカメラは元々海中用だ。着水しろ。セイルに出て確かめる」


「間もなく陽が暮れます」


「分かった。サハラ砂漠に移動しよう。同じことがサハラ砂漠でも起こっているに違いない。

それにサハラなら日没まで余裕があるはずだ」


「現在高度を維持。サハラ砂漠に移動」

* * *

「ピラミッドは無事だ。地震は起こっていないようだ」
「間もなくすぐにサハラ砂漠に到着します」


 やがてモニターには広大な黄色い湖が現れる。


「やっぱり湖になっている。砂漠が肥沃な大地になるかもしれない」


「それは塩分がないとすればだ」


「着水!」


 サブマリン八〇八がゆっくりと下降すると、待ちきれないといった表情をしたノロがセイルを登る。軽い衝撃のあとセイルのハッチが開く。


「濁っていない。透明だ。透きとおったブルーだ」


「着水しろ。海底、じゃない。湖底に向かって潜航!」


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 ノロと艦長はハッチを閉めてセイルを降りる。


「念のために水を採取して分析しろ」


「やはり、潜水艦は潜るに限るなあ。なんだか落ち着く」


 艦長が操舵士の肩を叩く。


「海底、また間違った。湖底まで潜航」


「艦長!水質検査終了。純粋な水です」


「!」


「ノロ、どういうことなんだ。タクラマカンとは水質が違うぞ」


「浄化能力が違うんだろう。東方向に移動してみよう」


「深度を五〇メートル上げろ、深度一二〇メートルで水平に。面舵一杯。速度八ノット」


「深度一二〇に達したら速度二〇ノットで東に舵を取れ」


「了解」


「この湖の中央まで移動してくれ」


「分かっている。中央部に近づいたら速度を落とそう」


「いや、二〇ノットでいい」


「なぜ」


 艦長がノロに詰めよる。


[48]

 

 

「中央部では大量の水が湧き出ているはずだ」


「メキシコ湾の海底で起こった反対の状況に対処するためか」


「そうだ。何が起こるか分からない」


「本艦の最高速度は二〇ノットだが、今はどうだ」


「多分、二、三〇〇ノットは出せると思われます」


「トリプル・テンのお陰か」


「しかし、海中、いえ、水中でそんな速度を出せば本艦はバラバラになるでしょう」


「いや、三〇〇ノットは無理かもしれないが、二〇〇ノットぐらいまでは可能だろう。トリプル・テンが本艦の分解を阻止するはずだ」


「ノロ、本艦は空を飛ぶし、水中でも飛行機のように動き回れる。しかも運動性能は抜群だ」


「それに最強のステルス機能を持っている。誰も本艦を見つけることはできない」


「これから、どうするんだ」


「サハラとタクラマカンの湖の生成過程の相違を調べる。そしてタクラマカンの中央部からメキシコ湾の海底を目指す」


「ちょっと待ってくれ。トリプル・テンで高度な運動性能を持つ潜水艦……、いや、空を飛ぶことができるから……」


 ノロがしどろもどろの艦長の言葉を遮る。


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「宇宙にも飛び出すことも可能だ。しかし、本艦の目や耳は旧式のままだ」


「そこなんだ。トリプル・テンのお陰で本艦は高性能化したが、レーダーやソナーは旧式のままだ。身体は若返ったが目は老眼で耳が遠い」


「それなら、メキシコ湾の海底からタクラマカンへ移動する方がいいのでは?」


「追い風に乗るのは一見楽なように見えるが、暴走するかもしれない。トリプル・テンに守られているといっても耐えられないかもしれない」


「確かに。だが、暴風に向かうのも考えものだ」


「分かっている。取りあえずこの湖の現状を調査しよう。世界中の海面がある一定の高さになったとき、消滅した海水がどれぐらいの速さで、どれぐらいの量の海水を陸地から吐き出すのかを見届ける必要がある。そのときにもう一度どちらの方法がいいのか、考え直そう」

 

* 防衛省*

「サブマリン八〇八の消息は?」


「分かりません」


 防衛省の司令本部の壁一面に埋めこまれたモニターには、海水がなくなった海上自衛隊の各基地から離れたところで座礁した護衛艦や潜水艦など無残な姿をさらけ出した画像が映し出されている。外洋に出ていた護衛艦や潜水艦は母港に戻ることができずに遙か彼方の海で待機する。どこの国の海軍も同じ状況で、もちろん民間の船舶も同じだ。


[50]

 

 

「最大の問題は日本海だな」


 狭くなった日本海、いや、日本湖では日本の漁船、貨物船、フェリー、護衛艦、潜水艦、同様に韓国、北朝鮮、中国、ロシアの艦船、それにアメリカの潜水艦がひしめき合っている。


 すでに貨物船やタンカーなどが碇を降ろしている。世界中の物流が完全に停止した。しかも、ほとんどの国では乾燥化して雨が降らなくなった。他方、砂漠が一転して湖化する。例外もあるが、一言で現状を語れば、緑豊かな地域は砂漠化し、砂漠だったところは水が溢れている。


「衛星の画像によれば、日本海がかなり小さくなっています。大小数十万隻を超える艦船がひしめき合っています」


「メキシコ湾の最深部は四三八四メートルだ。日本海の出入口の深度は一〇〇メートルそこそこだから、海面が一〇〇メートル程度下がっているはずだ」


「同じことが地中海にも言えます」


「地中湖になったと言うことか」

 

* サブマリン八〇八*

「サハラの調査で大まかなことは掴めたが、大きな問題が目の前にある」


「と言うと?」


「食料と水の確保、それに汚物の処理」


「食堂でそんな話をするな」


[51]

 

 

 貧しい食事をするノロと艦長のそばにイリが現れる。乾パンと水が半分ほど入ったコップを持ってノロの前に座ると乾パンをノロに差しだす。ノロは驚いてイリを見つめる。


「姉さんはいらない。ノロが食べて」


「イリ!俺は弟じゃない」


「分かっています。でも、ノロはわたしの弟」


「イリ、タクラマカンに行くが、イリにはそこで降りてもらうことになる」


 艦長の言葉が冷たくイリの頭に響く。


「えっ!」
 イリは驚きながらも納得する。


「皆さんには本当に感謝しています。それに故郷まで送っていただけるなんて」


 もう少女ではないことをイリは自ら証明する言葉を発する。


「わたしの故郷がどうなっているのか、分かりません。それに貧しい村です。でも恩返しをさせてください」


 ノロと艦長が唖然としてイリを見つめる。ノロはイリがサブマリン八〇八から降ろされるのに抵抗すると思っていた。しかし、イリは素直に下船すると一度だけ振り返ってノロに手を振る。サブマリン八〇八から少しでも離れると見えなくなってしまうのも理解している。そして集まった村人の中に消える。逆にノロの方が急に寂しい気持ちになる。


[52]

 

 

「イリ、達者でな」


 内陸の元砂漠の村では食料や生活必需品の確保が困難を極める。


「これから、このタクラマカン湖から旧メキシコ湾までの航海は多難だ。積めるだけの食料と水を確保したい」


「しかし、幽霊船のような姿も形も見えないサブマリン八〇八に売ってくれるだろうか」


「それよりもっと困ったことがある。俺たちは本艦から離れると戻ることができない」


「離れるときは腰にロープを巻き付けなければ迷子になってしまう」


「トリプル・テンのお陰でサブマリン八〇八は燃料を補給することなく永久に航行可能だが、乗組員はそうはいかない」


「すべての光や電波を吸収するのに、なぜ透明になってしまうんだ?」


「そうだ。光を吸収すると黒く見えるはずだ」


「だからトリプル・テンは真っ黒なんだ」


「トリプル・テンが貼り付くと透明になるのは?」


「トリプル・テンの機能についてはまだ何も分かっていない」


「とにかく、本艦が見えるような眼鏡でも開発しない限り、離れるわけにはいかない」


「どうすればいいんだ」


「日本に行ってこれまでの報告の代わりに食料を分けてもらうのは?」


[53]

 

 

「現実的なアイデアだな」

 

* 防衛省*

「我が国の領土は世界一かもしれません」


「北方四島どころかアリューシャン列島の島民が日本の領土になってもいいから、食料の援助を求めています」

「北朝鮮も中国より日本に助けを求めています」


「ありがたい話だが、我が国にも食料がない。あるのは古米ぐらいだが、貴重な食料だ」


「原油や天然ガスが自前で手に入るようになったが、食料が手に入らなくなった」


「どこの国の人間も飢えて死を待つだけだ」


「海は地球の血管だったんだ。血の流れが止まれば生きていくことはできない」


「家畜も飼料がないから次々と死んでいく。このパニックでは食料を求めて殺し合いをするしかない」


「人類の英知を集めてこの危機を乗り越えなければならないのに国連は混乱したままで機能不全になっている。各国政府も打つ手がない」

 

* サブマリン八〇八*

「ゴムのように伸びたトリプル・テンが本艦を包み込んだが、すべてのトリプル・テンが本艦に付着したのではない。九〇%以上のトリプル・テンが消滅した」


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「何を言いたい?」


「手計算だから誤差はあるかもしれないが、回収しようとしたトリプル・テンの九〇%が行方不明なのだ」


「ノロ、何か、隠していることはないか」


 艦長がノロの視線を押さえつける。これまでのトリプル・テンの説明に新たに加えるべき説明などないことは明らかで、全く期待できないことを承知の上で黙りこんだノロを艦長が見つめ続ける。


「艦長。実は……」


 艦長は上半身を硬直させてノロを直視する。


「トリプル・テンを」


 ノロが明確に言葉を切って首を大きく横に振る。そのとき、どこからか大きな声がする。


「イリが戻ってきました!しかも何百人もの村人を引きつれて!」


 ノロは驚きもせずに誰にも聞こえない声を出す。


「間に合ったか。やっぱりトリプル・テンには時間まで制御する機能があったんだ。ミクロの世界の時間をコントロールできる機能が」


 その囁き声に艦長が反応する。


「ミクロの世界をコントロール?」


[55]

 

 

「艦長!村人が何かを背負ってまっすぐにこちらに向かってきます」


 ノロは報告を聞きながら艦長に応える。


「一言で言えば微生物の成長を早めるんだ」


「イリがまっしぐらにこちらに向かってくる」


「見えないはずだ。でも本艦の位置を知っているんだ」


 イリが焦点の定まらない視線を向けると大声を出す。


「ノロ!ノロ―」


「イリー」


「ロープをイリに向かって投げろ!」


 すぐさま幾重にも巻かれた数本のロープがイリたちに向かって投げられる。


「みんな、驚かないで。このロープをたどると目の前に突然黒い大きな船が現れます。悪魔の船ではありません。わたしを救ってくれた船です。その船には生まれ変わった弟のノロがいます」


 ロープを手にしたイリを先頭に村人が驚きながらサブマリン八〇八に近づく。


「ノロ!食料を持ってきたわ。この湖の周りでは麦や野菜が一杯育っているの。砂漠の村が緑の村に変身したわ」


 イリの横にいる大柄な年取った男がイリの視線を上目づかいで追いかけるとセイルにいるノ


[56]

 

 

ロを見つける。そしてイリの肩を叩く。


「神の船だ。それにノロは生き返って神になったのだ」

* * *

 ノロは艦長を説得してひとりで大柄な老人の招きを受けて小高い丘にある家に向かう。家というより小さな宮殿のようで中に入ると狂喜の歓迎を受ける。ノロは深々と頭を下げたあと、よくとおる声で長老と呼ばれる先ほどの老人に尋ねる。


「今、この世の中はどうなっている?」


 長老は立ち上がって棚のラジオを手にする。


「この村にはテレビはない。ラジオが唯一、我らの耳だ」


 ノロに長老がラジオから得た情報を丁寧に説明する。


「海という巨大な水たまりが消えて陸地が広がり、空は晴れわたり暑くなった。今まで雨が降ることがなかったところに天地が逆転したような雨が地下から降ってきた。砂漠に封印されていた水の神様が復活すると緑の世界が広がった」


 ラジオのニュースからかけ離れたような話をする長老にイリが吹きだしそうな表情をするが、ノロは真剣に長老の話に耳を傾ける。長老の説明は現状を的確に言い当てていた。科学に頼らない裸の洞察力が意外と真理を完璧に捉えることをノロは理解している。この長老の深いシワのような洞察力が今向きあう現状にどう対処すべきかのヒントをノロに与える。


[57]

 

 

「俺は長老が言う神の船に乗って旅に出る。イリを連れていってもいいか?それに……」


 突然のノロの言葉にイリは素直に反応する。


「行くわ、ノロ」


 ノロからイリが長老に視線を移すと、目を閉じた長老にノロが言葉を続ける。


「それに、長老、差し支えなければ、ご一緒してもらえないだろうか」


 閉じた目の硬さから、ノロは長老の返事を否定的に予想する。イリも長老が否定する方に期待する。イリにとって長老はうるさい親以上の存在なのだろう。


「迷惑になるかもしれないが、お連れくだされ」


 ノロは喜び、イリが落胆する。

* * *

「というわけで、乗務員がふたり増えることになった」


「まあ、仕方ないか。こんなに食料や水を寄付してくれたんだ。スポンサーを無視することはできない」


「気にされるな。我らはボランティアじゃ」


 イリがノロに囁く。


「うるさいボランティアよ。覚悟してね」


「湖の中央部の千メートル上空に移動する」


[58]

 

 

「きれいな湖だ。見ろ!本当に湖の周りは緑溢れる草原になっている。砂漠が肥沃な土地に生まれ変わった!」


「だから、食料をプレゼントできたのじゃ」


「もう食べ物に困らない生活が送れるんだわ」


「よし、降下。着水する」


「待ってください!」


「あれは!」


「潜水艦か!」


 水面下に巨大な黒い物体が見える。


「浮上するぞ」


 その黒い物体の前方から噴水が舞い上がる。


「鯨だ!」
 前の方が沈むと巨大な尾びれで水面を強く叩いて再び潜る。透明度の高い湖の中で悠々と泳ぐ数頭の鯨がはっきりと見える。


「メキシコ湾のあの穴からこの湖に迷いこんだのか?」


「あの鯨の種類とメキシコ湾にたむろする鯨の種類を調べろ」

* * *


[59]

 

 

 「サハラ砂漠、いや、サハラ湖にも鯨がいる。鯨どころかマグロやアジや鰯……何でもありだ」


「あのマグロは地中海に生息するクロマグロです。自分はマグロが大好きなので分かります。

 

 「しかし、不思議だ」


「何が?すべてが不思議じゃないか」


「湖の成分は海の成分とほとんど同じなのに、湖岸に塩分はほとんどない。まるで陸地に染みこむ海水が浄化されて真水になっている」


「確かに」


「海水と湖岸付近の水の成分を分析しよう」


「ノロ、本艦は海洋調査船ではない。分析装置はない」


「実はこんなこともあろうかと色々な機材を積み込んだ。その中に分析装置がある」


「そんな大事なことをなぜ早く言わないんだ!出航前に積み込んだ貨物の梱包を解け」


「俺が梱包を解く」


「手伝うわ」


「イリ、自重しなさい」


「長老、お願い。許可してください」


[60]

 

 

「だめじゃ。ワシが手伝う」


「ずるいわ!」


「イリ、お前は女じゃ。女は出しゃばってはいけない」


「弟の手伝いをして何が悪いの」


「もはや、このお方はそなたの弟ではない。神じゃ」


「姉さん、手伝ってくれ」


 ノロがイリに微笑む。


「ノロ殿。苦言を申し上げることを許したまえ。今後、イリに向かってそのような言葉や微笑みかけることは絶対にやめてくだされ」


「長老は誰から生まれたのですか」


「神の指示である女の腹にしばし滞在してから外へ出た」


 全員が長老を見て笑い転げる。


「ワシを侮辱するのか」


 狼狽えながらも長老は長身の背筋を伸ばして毅然とした態度で全員を睨み付けると、誰かが叫ぶ。


「でも、ノロは神様なんでしょ。ノロが命令すれば従わなければ」


「そうだ、そうだ」


[61]

 

 

 同調する声があちこちですると、さすがに長老は黙ってしまう。


「難儀なことになってしもうた。難儀じゃ、難儀じゃ」


 長老が目を閉じてうなだれる。そして顔を上げて目を開いたときにはイリもノロも消えていた。


「ワシもそこへ案内してくれ」


「文句を言わないのなら」


 艦長がにやけた顔で長老を見つめる。


「ワシは文句を言っているのでない。世の道理を伝えておるのじゃ」


「少しだけ、その道理を変更していただけませんか。少し変えれば、これから楽に行動できるかもしれません」


 天井のスピーカーから積み荷を格納した倉庫にいるノロの声が聞こえる。長老が驚いて天を仰ぐ。


「仰せのとおりにしかまつる」


 一斉に笑おうとする全員を制して艦長が大声をあげる。


「本艦はノロとその姉のイリの言葉を最大のよりどころにして今後の行動を決める」


 笑いかけた乗組員の顔が引き締まる。


[62]