第七章 教育費無償化を支えるのは誰?


 急に降ってわいたような少子化対策。こんなことは随分前からわかっていたのに、政府は根本的な対策はしなかった。さて例のテレビでは選挙前に街頭演説する首相が映し出される。


「少子化対策は喫緊の最重要課題です。教育費の負担にあえぐ子育て世代、あるいは出産を躊躇される若い夫婦に、我が党は高校までの教育費の無償化をお約束いたします。財源は消費税の増税分を充てます。さらに『子育て支援金制度』を構築して内部留保を貯め込んでいる企業に負担を求めます」


 田中さんと大家さんが首を傾げる。


「地震や台風じゃあるまいし、もう何十年も前から少子化は予想されたし、二十年近く前から人口が減っているのに、なにを今更、喫緊の最重要課題じゃ」


「これまで無策だったと言うことですね」


「人口構成が歪になると様々な問題が生じるのじゃ。例えば戦争が終わって平和になると爆発的に出生が伸びる」


「団塊の世代ですね」


「そうじゃ。その団塊世代だけの問題じゃなくて、この世代が結婚すると再び出生が増える」

 

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 ここで例のテレビに山本さんが登場する。


「人口構成が平準化されないから、大家さんのおっしゃるとおり様々な問題が生じます」


 画面に人口ピラミッド図が現れる。ピラミッドをスマートにしたような二等辺三角形だ。


「これは戦争がなかった場合の人口ピラミッド図です」


 次に現状の人口ピラミッド図が表示されると田中さんが驚く。


「七十歳前後と四十歳前後が横に飛び出している!」


「七十歳前後が第一次団塊世代です。その子供が四十歳前後の第二次団塊世代です」


「戦争が終わってもその影響は七十年以上続くということじゃ」


「ちょっと待ってください」


 田中さんがまじまじと歪な人口ピラミッド図を見つめる。


「十歳前後、つまり第三次団塊世代となるはずなのに……前後とあまり変わらない。なぜ?」


「よく気づきましたね」


 山本さんの声だけが聞こえてくる。


「人口ピラミッド図の底辺は本来富士山の裾野のようになるのが自然です。そうならないのはバブルがはじけて経済成長が止まったからです。つまり第二次団塊世代を含めてその付近の世代が出産をためらったからです」


「思い出した!バブルで新設の学校が増えて教育費も高騰したのじゃ」

 

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 山本さんが応じる。


「この頃に少子化が始まりました。有識者から何度も指摘されたのに政府は喫緊の課題ではないと無視したのです」


「でも少なくともその十年後にはなんとかしなければと思ったのでは?」


 田中さんが質問すると人口ピラミッド図が消えて山本さんが再登場する。


「政府は、バブル崩壊で危機に陥った金融機関を救済するのに手が一杯で少子化に取り組む余裕がなかったと言い訳していました」


「そんなの、おかしい!」


「政府はもちろんですが、国民も金融危機という目の前の問題に目を奪われて少子化問題を忘れてしまいました」


「成程」


***


「少子化問題。これがすべてです。これを放置した結果、社会保険制度、特に年金制度が崩壊しました。ご存じのように年金制度は若者に支えられた制度です。もちろん現在年金を受け取る高齢者も六十歳になるまで年金保険料を払っていました。その保険料はそのときの高齢者の年金の財源です。つまり自分が受け取る年金は現役世代が支払う年金保険料が原資となります。だから少子化社会になると将来自分が年金をもらえるか不安になります」

 

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 「成程。でも政府は対策を打たなかったのですか」


 田中さんが山本さんに質問する。


「もちろん打ちました」


 山本さんに代わって大家さんが答える。


「保険料の値上げじゃ」


「そんな対策なら誰でもできる」


「当時の厚生労働大臣は『これで百年保つ年金制度ができあがった』と言っていたのじゃ」


「そんな。本当は何年保ったのですか」


「五年すら保たなかった」


「政治っていい加減だなあ」


「だから国民は国を信用しないし投票率も低いのじゃ。情けないことに本当に志しある者はこんな国の議員に立候補しなくなってしもうた」


「成程。二世議員が増えたのはそういうことだったのか」


***


「ところで教育費ってどれぐらいかかるんですか」


 山本さんが解説する。


「一律には言えませんが、子供一人当たり高校までで五百万円から八百万円。大学までで一千万円から二千六百万円です」

 

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「公立、私立の違いがあるから、幅があるのじゃ」


「成程。でも二千六百万円なら上場会社の正規社員の退職金より多いのでは?」


「田中さんのおっしゃるとおりです。すべて公立で済ませても中小企業の正規社員の退職金を上回ります」


「ましてや二人の子供がいれば最低二千万円。下手すれば五千二百万円じゃ」


「子供を持てば破産する!」


「子供を作るどころか、結婚を避けるようになるのじゃ」


「結婚しても夢がないから?」


「田中さんはそう考えたから、結婚もせず非正規社員の道を選んだのですか?」


 この山本さんの問いかけに田中さんがむっとする。すぐさま山本さんが口を押さえる。キャスターとしての本性を田中さんに向けたことに気づく。


「ごめんなさい。言い過ぎました。本心じゃありません」


「気にするな。山本さんが言いたかったのは一般的なことじゃ」


 気まずい雰囲気が流れる。しばらくして田中さんが顔を上げる。不思議なことにその目元は笑っている。


「よくわかった」

 

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「?」


「首相が、あるいはその気持ちを忖度した当時の理財支局長が国有地を学校法人に破格の安値でなぜ売却したのか……」


 山本さんも大家さんが先ほどよりもっと強い「?」を発すると田中さんが答える。


「安く売らないと教育費が高くなるからだ!」


「成程!」


 ふたりが大きな声で合唱する。


***


「ひとつの土地を安く売ったところで教育費は安くならない。余っている国有地があるのなら全国の私立学校に安く売ればいいのにお友達にしか安く売らないのは問題じゃ」


「焼け石に水か」


「だから教育費を無償化するとそのための財源が問題になります」


 機嫌が直った田中さんに山本さんが言葉を選びながら応じる。


「もう一度首相の選挙演説を聴かせてもらえませんか」


 テレビに再び首相の姿が映る。


「少子化対策は喫緊の最重要課題です。教育費の負担にあえぐ子育て世代、あるいは出産を躊躇される若い夫婦に、我が党は高校までの教育費の無償化をお約束いたします。財源は消費税の増税分を充てます。

 

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さらに『子育て支援金制度』を構築して内部留保を貯め込んでいる企業に負担を求めます」


 田中さんが軽く頷くと先に大家さんが発言する。


「元々消費税の増収分は年金制度の維持と財政健全化に使うと決まっていたのじゃ。それがじゃ、選挙に打って出た途端、若い世代の票を取り込むために方針転換したのじゃ。わしら老人の年金を減らしても教育費を無償化しようとしているのじゃ」


 田中さんは言いたいことを変更して大家さんに反論する。


「老人だと言っても資産家が多いじゃありませんか」


「言葉が足りなかったようじゃ。そう見えるかもしれないが、大多数の老人は年金で生活している。その年金を教育費に回すとは問題じゃ」


 珍しく田中さんが続けて反論する。


「でもお孫さんのために自分たちの年金が少なくなってもいいのでは」


「成程。じゃが、かわいい孫にお年玉をあげたいのと、そのお年玉を無策の政府に取り上げられるのとは天と地ほどの差がある」


「成程。それに消費税でまかなうというのは低所得者が教育費を負担することになりませんか」


 大家さんは「成程」と言わずに黙ってしまう。そこで山本さんが議論を進める。「もう一つの問題点を考えましょう」

 

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「もう一つ?」


「大企業に負担を求めると言うことです」


 田中さんが素早く反応する。


「いいことじゃないですか」


 すぐさま山本さんが否定する。


「そうでしょうか」


 今度は田中さんと山本さんの論戦になる。


「大企業がため込んだお金を活用するのはいいこと」


「大企業がポンとお金を出して教育費に使ってくださいというのではないのです」


「どういうこと?」


「子育て保険制度を創設して今までのように企業が半分、社員が半分負担することになるのです」


「じゃあ、社員の負担は今まで以上に増えることに!」


「会社もです。そこで会社側の対応を推測します」


 田中さんが黙って次の言葉を待つ。


「会社も半分を負担することになりますから、今までどおり正社員を削ろうとするはず」


 田中さんは驚きのあまり声が出せない。

 

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「社員の手取りも減ります」


「それじゃ今までと一緒でますます非正規社員が増えてしまう!」


 ここで山本さんを差し置いて大家さんが総括する。


「立派なアドバルーンを上げた。もちろん少子化対策は重要じゃ。じゃが、にわかに決断したので、財源が問題になる重要課題にもかかわらず十八歳以上に選挙権を与えた結果、若者票欲しさもあって薄っぺらい公約を繰り出した。選挙で勝ったがこの公約を実現するのに消費税の増税分全額を使うわけにはいかない。そこで「少子化救済教育資金援助社会保険制度」なるものを創設して事業者とサラリーマンから資金を集めようとしているのじゃ。弱者には消費税の増税は痛い。事業者も自己負担分を少なくしようと非正規社員を増やそうとするだろう。するとますます弱者が増える。もちろん子供を抱える親のほとんども弱者じゃ。結局弱者に負担させて弱者を救うという前代未聞のことが始まろうとしているのじゃ」
 田中さんと山本さんが呼吸を合わす。


「成程!」

 

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