第百十四章  戯言


 第五編( 完結編) の始まりですが、この章は著者の戯言です。

 

* * *

 

 この宇宙は我々三次元の生命体だけを育んでいるのではない。もちろん生命体が存在するには最低三次元の空間が必要だが、ただ二次元の部品で三次元の世界が、その二次元の世界は一次元の部品でというように構成されている。同じように三次元の部品で四次元の世界が、四次元の部品で五次元の世界が、五次元の部品で六次元の世界が… … 。

 

 地球に多様な生命が存在するということは、多様な次元が存在するこの広大な宇宙に様々な次元が存在するという証でもある。

 

 三次元の人間から見るとそんなことは信じられないし想像もできない。さて、その人間が信ずる神も多種多様だ。元々自然の気まぐれな様々な現象の中に紛れ込む恐怖感から逃れることを目的に生み出された思考が神や宗教を造り出した。恐怖から逃れるためなら何でもありだ。

 

 さてお盆のお参りは仏教の行事だが、イエス・キリストが墓参りする姿を見たらどうだろう。アラーの神ならどうだろう。暑い時期に一抹の清涼な空気が流れる墓地で線香を上げてお墓に水をかけるこの行事を見れば宗教間の対立が緩むかもしれない。

 

 さて宗教にかかわらず宇宙は多種多様な次元で構成されているから、そこに宿る生命体も多種多様だ。つまり宇宙そのものが何でもありだ。

 

[14]

 

 

 そんな宇宙がなぜ存在するのか? その答えは簡単だ。そう「何でもあり」。有限の身を持つ生命体も何でもありだから生存競争は熾烈だ。あらゆる手段を使って生き延びようとするが、成功する確率は低い。瞬間という名の一瞬がすべてを支配する。ゆったりと流れているように見える星々の動き。しかし、その移動速度は地球の移動速度を凌駕する。人間の寿命などこの宇宙の一瞬の一瞬の… … … その一瞬だ。でも我々はなんとか数十年から百年程度の時間を認識させてもらっている。つまり一瞬の意識を小刻みに繋いでいる。

 

* * *

 

 さて誰もが持っている理性と感情。感情には誤信があるが、理性には過信がある。

 

 理性の過信― ― そう、過信というものを酔態とすれば、意地を振り回して啖呵を切った様子は完全に酔いどれ状態。政治家、官僚、学者、商人、そして強盗でさえ、何かに酔っている世の中。誰も彼もが酔いつぶれている。もし素面だったら、恥ずかしくて生きていけない。でも生きている。

 

 事実は小説よりも奇なりと言うが、偶然とは恐ろしい。その偶然とは? そして必然とは? 逢ったこと、別れたこと、愛したこと、憎んだこと、愛されたこと、憎まれたこと。小説のような因果めいた、しかも手心が加えられた時間の流れ。現実はその因果が震えるほど、残酷な結論が待っている。推移、変転は偶然であるはずなのに、誰かが糸を引くような不気味な気配が漂う。

 

[15]

 

 

 人間が生まれること自体、偶然なのか? そして死は必然なのか? いずれにしても恐ろしい。この恐怖あるいは不安は永遠を求める有限の身であるからなのか? 時間、つまり時の流れは存在するのだろうか? だが不安は「時」のみがもたらすものではない。

 

 人間の弱さ、醜ささえも美しく感ずるほどの弱さ。そこから派生する寂しさだけは確かに存在する。人生は寂しさで曇っている。だから生きている素晴らしさを発見したなんて言えるはずもない。そんなことは寝言か暴言だ。なにひとつ確かなものなんてない。何もかも?

 

 でも欲しい。安心できる何かが。火花が散るような一瞬でありながら、永遠であるものが。プスプスと燻った煙が目に入って涙で見えなくなったり、蒸せて咳き込んだりするぐらいなら、恐れずに完全燃焼を目指さなければ。その中にこそ永遠なるものが存在するのでは。

 

 だが、これは単なる酔っ払いの戯言か。

 

* * *

 

 この宇宙は七色の音楽のような情緒に満ちている。生を受けることを前提に様々な物語があらゆる方向に向かって飛び出していく。次元が異なっても喜怒哀楽に違いはない。それは喜怒哀楽自体が次元を超えたアナログ的存在だから。意識を持つあらゆる生命体は、次元というものがデジタルなのに、意識から生まれた感情は個性的でアナログ的であると同時に共通性も持ち合わせている。次元や言語が違っても必ず共有化される。

 

[16]

 

 

 物語「C ・O S ・M ・O S 」には五次元や六次元の高度な知性を持った生命体が登場するが、感情は我々三次元の人間と変わるところはない。ただ不老不死の夢を持っているのは我々だけで、少なくとも「C ・O S ・M ・O S 」に登場する五次元や六次元の高度な知性を持った生命体は不老不死について興味がないように見える。つまり不老不死に熱烈な興味を持ち、それを実現化させたのは三次元の知的生命である人間だけのようだ。

 

 それは時間軸が一方にしか流れないからだ。

 

 五次元の生命体は自分たちが一番効率がいい生命体と考えているが、どうも怪しい。三次元の生命体との戦いに敗れた原因は紙一重の戦いだったものの敗北した。

 

 四次元の生命体が三次元に進出しないのは歴然としている。次元を落として三次元の生命体を植民地化しようにも、四次元の世界に残した一次元の身体は全く意味をなさない。元に戻ろうともその作業は困難を極めるからだ。それは五次元の生命体も同じだった。なぜなら六次元の生命体のように三次元の世界に侵入するとき二分化することはできないから。六次元の生命体は二分化しなくても、あるいは三次元の世界に露出する方法をとっても残りの三次元の身体は維持される。一方、五次元の生命体は、残した二次元の身体に気を遣いながら三次元の世界に進出しなければならない。

 

 次元は高いほどその世界に住む生命体の脳の性能も高い。しかし、その高度な脳をコントロールするには複雑な制御機能が不可欠で大量のエネルギーも必要となる。

 

[17]

 

 

 この宇宙で生命を永らえるには適度な次元が必要なのかもしれない。そういう意味では五次元の世界が効率的なのかもしれないし、五次元の生命体はそのことを自負していた。

 

 時間という概念は非常に重要だ。二次元の世界では時間はない。だから生命が誕生しない。時間が流れなければ生命は存在することができない。つまり有限無限という概念がないから、生きながらえて生命を繋ぐことができない。

 

 命を持つと言うことは時間という世界に住む権利を持つことを意味する。しかし、この時間というのは重要だがやっかいな存在だ。生命が存在するから時間が存在するのか。それとも時間が存在するから生命が存在するのか。

 

 理論的には時間というのは生命とは無関係に存在するはずだが、ややこしいのは次元が増加すると時間軸も増加すると言うことだ。しかし、時間軸は空間軸と比べると不安定だ。時間軸の揺れは気ままでコントロールしにくい。この気ままさを逆手に取って時間移動を可能にした者がいた。ノロだ。

 

* * *

 

 ノロの行動を観察すると気付くことがある。

 

「充実した人生を送れるのか、否か? 」

 

[18]

 

 

 ノーの可能性が高い。

 

 生命体は苦労を望まない。むしろ避けようとする。つまり充実した人生というのは苦労に苦労を重ねて息つく暇もない努力をしてやっと手に入れるものだとすれば、これを達成できる生命体はまずいない。

 

 人生には休息も必要で失敗も必要だ。それを避けられないとすれば、ほとんどが充実した人生を歩んでいることになる。

 

 ところで充実した人生か否かの結論を出すのは他人ではなく自分自身であるということも重要だ。よくやったということで死後勲章をもらっても本人にとっては預かり知らぬことだ。死ぬ前にくれというのが本音だろう。もちろん、他人の評価も本人に大きな影響を与える。褒めることは大事だと言われるが、褒め殺しという言葉があるから、そうも言えない。

 

 つまり、充実した人生かどうかは自分が決めるもので他人が決めるものではないが、いつ判断されるものなのか。

 

 もし死の直前に判断されるものだとすれば、事故で即死した場合、判断自体ができない。もちろん人生の途中で充実感を得ることはある。特に大晦日や正月、そして誕生日のような特殊な節目とされる日に、ある一年間を総括して「充実した人生だ」と感慨にふける場合もあるし、全く唐突にある時点で感動を覚えることもある。たとえば難関校の入学試験に合格したり、困難な仕事をこなしたときに充実感を実感する。しかし、その成功体験からその後の人生が狂うかもしれない。

 

[19]

 

 

 充実した人生か否かは、即死する場合を除いて本決算で判断すべきものだろう。一年ごとの判断もそれもそれなりの本決算なのかもしれないが、人生という尺度から見れば仮決算と言わざるを得ない。だからといって仮決算はいい加減なものではない。事故で即死した場合、仮決算の意識がその人の人生の充実度になる。残された遺族にとっては「さぞかし残念だっただろう」と慰めるが、もちろん本人には届かない。

 

 仮決算といえども大事な判断が必要で自分の人生を絶えず見直さなければならないと言うことだ。いつ死ぬか分からない。だから必死に生きなければならない。でも毎日必死に生きることはある意味拷問に近いが、気を抜けば人生が充実の世界から遠のいてしまうかもしれない。

 

* * *

 

 永遠の命を持つと仮決算が永遠に続くことになるのか。

 

 永遠の命を持ちたいというのは三次元の生命体の特徴だ。四次元以上の生命体になると時間軸が複数になるし、その時間自体の流れが複雑になる。直進したり後退したり、右往左往したり、振動したりと、時間は忙しく複雑な行動を取る。しかし、三次元の世界ではどうだ。時間は「矢」そのもので前進あるのみだ。後戻りできない。だから未来に向かって永久に生きたいと切望するのだ。時間軸が多数存在する高次元の生命体には未来というものがよく見えない。

 

[20]

 

 

だから永遠の命に拘わらないのは当然のことだ。

 

 ひょっとしたら、生命永遠保持手術というものは三次元の世界のみに存在するもので、他次元の世界にはない画期的な手術かもしれない。

 

 困難を極めるということは充実した人生を送ると言うことだ。いずれ死ぬと分かっていても難しい課題だ。死に向かって悔いのない人生を願っても、「今日できることは明日しよう」「明日があるさ」とサボってしまう。いかんともしがたい。

 

 永遠の命を得るともっとひどくなる。

 

「時間は有り余るほどある。今すぐやらなくてもいいじゃないか」

 

 永遠の命を得ることはむしろ毎日無意味な人生を送ってしまう危険性をはらんでいる。ひょっとして時間軸を複数持つ多次元の世界の生命体は、この辺のところを心得ているのかもしれない。ひとつの時間軸しか持たない三次元の生命体である人間は、複数の時間軸の世界という大海原で住む多次元の生命体に比べて、船酔いに対する抵抗力がないのかもしれない。

 

 一つの時間軸しか認識できないのに、時間に翻弄されてしまう三次元の生命体。その生き方を示唆するひょうきんな人間がノロであり、その影響を受けたイリ、フォルダー、ホーリー、サーチ、ミリン、ケンタ、住職、リンメイ、四貫目、お松であり、R v 2 6 を代表とするアンドロイドだ。さらに六次元の生命体である瞬示、真美、広大、最長だ。

 

 

[21]

 

 

 さて第一編から第四編までは各章冒頭に理解しやすいように【時】という項目を設けてその章の時代等を記載していたが、この第五編では高次元の時間が激しく揺れ動くので時代等の立ち位置を示すのが困難となった。したがって【時】という項目を削除して代わりに【次元】という項目に変更した。

 

[22]