53 インフレ


「インフレ、インフレと阿倍野首相が盛んに発言しているけれど、僕には物価が下がるデフレの方が居心地がいい。誰も首相の言うことに疑問を持っているのでは?」


「否定も肯定もしません」


 テレビの中の山本の意外な返答に驚きながら田中が続ける。


「景気をよくするために、とか言ってますが、物価が上がれば僕は節約します。我慢します」


 ここで山本が田中に微笑みかける。


「賛成!給料がインフレになって上がるのならいいのにね」


「そうそう。待てよ。僕は給料を貰っていない。大家さんに面倒を見てもらっているだけの失業者だ」


 話の腰を折られた山本の頬がぷくっとふくらむ。


「私が言いたいのは、インフレにすべきは給料で、物価ではないと言うこと」


「賛成。絶対賛成。高い給料もらって安くなったものを買う。そうすれば景気はよくなる」


 意外な話題に両大家がキョトンとしながらも賛同する。


「確かにそうだ」


「じゃが、一国の首相がそんなことも分からず『インフレ、インフレ』と叫び回っているのに

 

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はそれなりの理由があるのじゃろ」

 

 すぐ逆田が解説する。


「それはこういうことです。まず物価を上げてモノを高く売れるようにする。そうすると企業の利益が増える。増えれば給料を上げることができる」


「ちょっと待った」


 質素な服の大家がテレビの前に立ちはだかる。


「物価を上げれば売ろうとするモノの仕入価格も高くなる。高くなったモノを高く売っても利益は上がらんぞ」


「そうか」


 田中が頷くと立派な服の大家が反論する。


「でも円安だから海外には実質的に高く売ることになる。国内で儲からなくても輸出関連の会社は儲かるのじゃ」


 すぐさま質素な服の大家が反論の反論をする。


「円安で原材料の輸入価格が高くなるからやっぱり儲からんぞ」


「うーん。どっちの話も一理あるなあ。僕にはわからないけれど最近高級品が飛ぶように売れているという報道が多い」


「それは一部の国民だけだぞ」

 

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「そこなんじゃ。全国民がハッピーならわしの理屈が正しいことになるのじゃが」


「ところではじめの話、覚えてますか」


 山本が話を戻す。


「インフレにするのなら給料だ、という話?」


「そうです。もし給料を上げることができれば、みんなハッピーになるはずです」


「失業者も?」


「給料が上がると言うことは景気がいい。つまり人手不足になるから失業者も減ります」


「そうか」


「でも企業の利益が増えないと給料を上げるのは不可能じゃ」


「円安も円高も給料には何の影響力もない」


「むしろ円安でエネルギー価格が上がって電気代やガソリン代が増えて困っている人が多い」


「なんとか給料をバーンと上げる方法はないものかしら」


 ここで質素な服の大家が大声をあげる。


「あるぞ!」


 テレビの中から山本が首を出して質素な服の大家に注目する。


「今、一番お金を使わない人が数多くいる地域にいる」

 

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「?」


「地震や原発事故で苦しんでいる被災した地域だ」


「それで、そこに住んでいる人、住んでいた人に消費してもらうということじゃな」


 立派な服の大家が膝を乗りだす。


「要は消費したくても消費できない人にお金を使ってもらうようにすればいい」


「金をばらまくのか」


「そうだ」


 全員、質素な服の大家に首を傾げる。


「震災復興予算を見ろ。使い切れないどころか、一部は復興と関係がない使い方をしている。それを寄せ集めてそれこそ被災者に支給するのだ」


「そうか!わしも賛成じゃ」


「バラマキは悪いとよく言われるが、こんなバラマキなら大賛成」


 田中も同調する。


「原発事故の補償もままならないから、みんな助かると思うわ」


 山本までが賛成に回るが、すぐ表情が暗くなる。


「でも……全国から集まった寄付金のときもそうだったけれど、お金を配るのはむずかしいわ」

 

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「確かに本当に被災した人の手元に届くように、二重に支給しないように、それに本人かどうか確認するのにとてつもなく時間がかかるなあ」


 田中が以前山本に聞いた話を思い出して落胆する。しかし、急に大きな声を上げる。


「なぜ全国から集まった寄付金を迅速に被災者に届けられなかったか。それは未曾有の大震災で混乱していたからで、落ち着きを取り戻した今ならなんとかなるかも!」


「そうね!」


 山本の顔がパッと明るくなる。


「ところで被災者にお金を渡すのは誰にさせるのじゃ」


「国に、官僚に、いや現場の役人にさせればいい」


 田中が提案する。


「何を言っとる。復興予算をねじ曲げて関係のない事業に流用する官僚や役人にこんな重要なことを任せる訳にいかんぞ」


「それにバラマキは政府の得意とするところじゃ。わしも反対じゃ」


 両大家が揃って反対する。


「だから任せるのです」


「?」


「彼らはバラマキのプロです」

 

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「なるほど!」


 山本がテレビの中で飛びあがって笑う。


「こんどこそ、プロの腕を見せてもらいましょう!」


「着服したり、特定の人にだけバラマいたら、即刻首にすればいい」


 質素な服の大家が田中の肩を叩く。


「すごくいいアイディアだぞ。わしは田中さんを見直したぞ」


「えっ?今までは?」


「前から言っておるぞ。わしには田中さんだけが頼りだ。その田中さんがこんな素晴らしい発想をした。わしゃ、ますます田中さんのファンになるのだ」


「このアイディア、キャンペーンを張って大々的に報道するわ」


「興奮するのもいいが、少し冷静になった方がいいのでは?世の中は甘くないのじゃ」


 立派な服の大家が冷や水を浴びせるが、山本が画面から出てきて田中を抱きしめる。


「被災地の人に大々的にお金を使ってもらうのよ!それでインフレになるのなら大歓迎だわ。このアイディアに首相が反対することは絶対ないわ」


 田中が大声を張りあげる。


「インフレ、万歳!」

 

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