「田中さん!」
乱暴にドアを開けて大家が靴も脱がずに飛びこんでくる。
「銀行とは付き合いたくない!」
コーヒーを飲みかけていた田中がキョトンとして大家を見つめるが、すぐカップをテーブルに置いて含んでいたコーヒーを飲み込むと口を開く。
「幾ら何でも靴ぐらいは脱いでください」
「あっ!」
慌てて大家が靴を脱ぐ。
「どうしたんですか」
「もう銀行にはお金を預けることができん!」
「そんな。お金を預かるのが銀行の仕事でしょ?」
「引出や振込はもちろんのこと、法律が変わって預けるときにも本人確認が必要になった」
「それはないでしょ。お金を預けるのに不都合なんてあるはずがない」
「わしもそう思って銀行員に咬みついた」
[1]
「筋の通った説明がありましたか」
*
「出金や振込の手続きが厳しくなるのはわかるし、我慢もする。なぜ預ける金までうるさく言うのだ!」
「失礼を承知で申しあげますが、盗んだり騙したりして取ったお金かもしれないからです」
「なんだと!銀行は預金者を盗人だと言うのか!」
「ですから失礼を承知で申しあげたのです。本日、つまり四月一日から法律で取扱が変更されたのです」
「ははーん。わかった。エイプリルフールだな。わかった、わかった。それにしても質の悪い冗談だな」
大家がニヤッと笑う。
「冗談ではありません。この現金はどうされたのですか」
「月末に集金した家賃だ。やましい金ではない!」
「それにこの振込はどういう取引なんですか」
「ここは税務署か!振込先は工務店で雨漏りの修繕代だ!」
「と言うことは請負契約書があるんですね。それを見せていただけますか」
「もう、我慢ならん。税務署長を!いや、間違った。支店長を出せ」
[2]
「それでしたら、そこのボタンを押して番号札をお取りください」
「なに?」
「現在二十三人待ちです」
「えー?」
「大家さんと同じようにお怒りのお客様が支店長に直訴したいとお待ちなんです。なにとぞお静かに順番をお待ちください。一応この現金と振込票はお返しします」
*
大家は工務店の社長に現金を手渡す。意外にも社長は手際よく領収書を作成すると深々と大家に頭を下げて応接セットのソファーを勧める。
「社長!」
大家は社長の応対と言葉に驚く。
「本来なら私の方から集金にお伺いしなければならないのにわざわざお越しいただきましてありがとうございました。これからは私の方から集金にお伺いしますので」
領収書を手渡すと社長も応接セットの椅子に座る。そしてフーッとため息をもらす。
「妙な世の中になりましたね」
「?」
「大家さん。銀行で振込することに嫌気がさしたんでしょ」
[3]
「まだ振込は我慢する。しかし、振り込む前に現金を預けなければならん。今度は預ける金のことをとやかく言われる。いったいどうなっているんだ」
「諸悪の根源は振り込め詐欺です。いったん詐欺の件数は減りましたが、去年あたりから再び被害が拡大しているようです」
「それは知っている。振り込め詐欺のニュースが流れない日はない」
「困ったことです」
「しかし、窓口で散々質問をされたあげく契約書を持ってこいなんてやり過ぎだ」
「まだ、マシです」
「と言うと?」
工務店の社長の冷静な応対に大家が落ち着きを取り戻す。
「大家さんは個人事業者ですからまだマシなんです」
事務員がお茶を大家の前に置く。銀行の対応と大きな違いに大家は社長に尊敬の念を抱く。思えばつまらない修理をお願いして無理ばかり言っていたが、この社長は文句ひとつ言わず大家の意向を汲んで誠実に修理してくれたことを思い出す。
「我が社は法人ですから、登記簿謄本を出せとか、手続きが大変なのです。社長である私がいちいち銀行に行って入出金する暇がありません」
「当然社員に生かせるんでしょ」
[4]
「そうです。そうすると『本当にこの会社の社員か』と色々な書類の提出を求められます。法律が変わるからと対策しましたが、とても手に負えるものではありません」
「それでこれからどうするのですか」
「昔のように現金を集金して現金で支払うことにしました」
「そうするとおおきな金庫がいるな」
「すでに発注しました。もちろん代金は現金で支払います」
大家は視線を社長から天井に移すとポツンと言葉をはく。
「信頼、信用が瓦礫の音をたてて崩れだした」
*
「振込が十万以上なら、相手は?何のために?それを証明する書類は?こんな感じだ」
「貧乏人にはない苦労ですね。しかし、何かおかしいな」
「諸悪の根源は振り込め詐欺じゃ」
「でも最近、振り込ませるんじゃなくて、集金に行くそうです」
ここでテレビの電源が入ると逆田が現れる。
「そうです」
画面が変わる。公園のベンチで若い男がスマホを耳につけている。
「俺、交通事故起こしてしまって相手は二百万円くれれば許すと言っている。今、俺、動けな
[5]
いから友達に取りに行かせるよ。それまでなんとか二百万円用意して欲しいんだ。お願い!お婆ちゃん!助けて」
今度は居間で受話器を持ったお婆ちゃんの画面に変わる。
「ケガはないかい?」
「俺は大丈夫」
「よかった。よかった」
「お婆ちゃん。すぐ用意できるかな」
「あいよ。最近、銀行でお金を下ろすのに、保険証を持っとるか、何に使うのか、とにかくうるさくてね。それに振り込め詐欺が多いだろ」
「お婆ちゃん!振り込め詐欺には気をつけてよ。騙されないように用心した方がいい」
「わざわざ銀行まで行って振り込むのが面倒だから、振り込め詐欺には合わん」
「さすがお婆ちゃん。よく考えたなあ」
「現金が一番。それにいつ銀行が潰れるかも。キプロスみたいに金が出せなくなるかもしれんし、第一足が不自由で……」
「そうだ。いい病院を知っている。この交通事故が落ちついたらお礼にその病院に連れて行ってあげるよ」
「そうかい。おまえは本当にやさしい子だな。それによく気が付く」
[6]
「それでお金の方は?お婆ちゃん」
「お金は手元に置いている」
「お婆ちゃん。余り長話できないんだ。今から友達が行くから頼むよ」
「いくらだっけ」
「五百万円」
「五百万円だね。用意しておくよ」
*
画面が変わる。あのお婆ちゃんの自宅の玄関に若い男が立っている。
「黒田と申します。お金を預かるように言われてきました」
「いつも孫がお世話になっています」
お婆ちゃんは頭を深々と下げると紙袋を差しだす。
「いいえ。こちらこそ。ところで話が変わって示談金が一千万円になりました。用意できますか。時間がないのです」
お婆ちゃんは差し出した紙袋を引き戻す。
「一千万!」
「そうです。相手が足元を見て。でもこれ以上はダメだと念を押しました」
「分かりました。ちょっと待ってください」
[7]
紙袋を持ってお婆ちゃんが奥の間に片足を引きづりながら向かう。そのとき、別の若い男が入ってくる。
「お婆ちゃん!騙されるな!こいつは事故現場でお婆ちゃんに電話していたお孫さんの話を盗み聞きしていた男だ!」
「畜生!もうちょっとだったのに」
お婆ちゃんが振り返ると、最初の男が後で入ってきた男を押しのけて玄関から外に逃げる。
「何のことやら」
お婆ちゃんがへなへなと座りこむ。
「確かに示談金が増えましたが、百万円増えて六百万円になっただけです」
「そうかい。分かりました。お前さんのお陰で騙されずに済んだ」
お婆ちゃんが頭を下げる。
「でも時間がありません。どこにお金を置いているのですか」
「こっちです」
お婆ちゃんが仏壇に進む。その前でヒザをつくとその下の扉を開ける。男もかがむと一億円以上の現金を確認する。お婆ちゃんはそのうちの一束を紙袋に入れると差しだす。
「!」
次の瞬間、お婆ちゃんが床に倒れて気を失う。そのとき先ほどの男が大きな黒いビニール袋
[8]
を持って現れる。ふたりで仏壇下の現金を袋に入れると立ち去る。
*
逆田が沈痛な表情で現れる。
「このお婆さんは即死でした」
「始めの男と後の男はグルだった」
田中が断言する。
「他の事件でこの犯行グループは全員逮捕されました。そして余罪を追及されてこの犯行を自供しました。その供述に基づいて再現したものです。ところでこの事件が意味するところ分かりますか」
逆田が田中と大家を直視する。
「発端は詐欺だが、れっきとした殺人事件です」
田中がわなわなと拳をつくって振るわせる。
「オレオレ詐欺なら騙されて振り込むだけで命まで取られなくて済む。でも今回は現金があだになって殺された」
「振り込め詐欺では面は割れません。でも現金を直接受け取れば面が割れます」
「顔を見られた以上殺さないといずればれてしまう」
「何という理不尽なことだ」
[9]
大家が嘆くと逆田が残念そうに解説する。
「話が元に戻りますが、原因は強化された本人確認です。これだけお金の出し入れの手続きが厳しくなると手元に現金を置こうとするのはごく自然なことです。しかも預金金利が極めて低い。しかも税金がかかる。百万円の定期預金をしてもその利息は銀行へ行く片道のバス代にもなりません」
「何のための規制なんだろう。こんなことで命を落とすなんて、お婆ちゃんが可哀想だ」
「この規制の前は銀行のキャッシュカードや口座の売買が盛んでしたが、減少傾向にあります」
逆田の解説に大家が首を横に振る。
「何のことだ!」
「特に若い人。大学生など二十歳前後の若者に多いのですが、自分の口座がどのように使われるのか分からないまま、わずか数千円の報酬を貰ってインターネットで自分のキャッシュカードや通帳を売るのです。もちろん相手は詐欺集団です」
「でも、騙した金をその口座に振り込ませても今まで以上に厳しい本人確認制度があるから引き出せないのでは」
「だから口座の売買は激減しました」
「何かむなしいな。規制を厳しくすると殺人が発生するなんて」
[10]
「わしはもっと根本的な問題があると思う」
「と言いますと?」
逆田がテレビの中から身体を乗りだす。
「なぜ、『オレオレ詐欺』に引っかかるのかだ」
田中も大家に視線を向ける。
「日頃から付き合いを密にしていれば、こんな幼稚な詐欺に引っかかるはずはない。たとえば、親、子、孫が一つ屋根に暮らしていれば、奇妙な電話がかかってきても、誰かが詐欺に気付くだろうし、第一、孫だと名乗ってもその孫が目の前にいるかもしれん」
「そうか。うちの親が今まで振り込め詐欺に合わなかったのは貧乏だからと思っていたが、僕がまめに実家に帰っていたからなんだ」
「うーん」
逆田と大家が首を横に振りかけるが止める。
「疎遠さがすべてかもしれん」
「でも年取ったら子や孫を呼び寄せたいでしょ」
「もちろん。でもアイツが言っていたのを覚えておるか」
「アイツ?立派な服の大家さんのことですね」
「わしはアイツが余り好きになれんが、こう言ってたな」
[11]
立派な服の大家は毎年孫たちに数百万円の贈与をしていたが、あるとき催促されたことに憤慨したと話していたことを田中が思い出すと逆田も頷く。
「わしはアイツを哀れに思うことがある」
「?」
「子や孫がアイツの財産を狙っているのだ。日頃からおじいちゃん、おじいちゃんと世話をしている訳ではない。しかし、弱ったときみんなが集まって親切にするだろう。アイツは身内の詐欺に引っかかるのだ」
「それは少し言い過ぎでは」
「それにあの女も曲者だ」
「リングラングですね」
「そうだ」
「でも佐々木は?」
「うっ」
ここで大家の言葉が停まる。佐々木はいったいどういう理由で立派な服の大家に使えているのか分からないからだ。
「他人からも身内からも財産を狙われるなんて金持ちは大変だな」
「想像していた結論から大幅にずれましたが大変参考になりました」
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逆田が頭を下げる。
「逆田さんはどんな結論を期待していたのですか」
逆田はそれまでの口調を一変して警告する。
「本人確認を厳しくすればするほど殺人事件になるはずがない詐欺が進化した。もともと詐欺は騙される方も悪いという見方が普通だった。しかし、この事件を見ると強盗殺人と変わらない。規制というものは強化すればするほど『いたちごっこ』になるのならまだいい方で、エスカレートして殺人に至るのならほかの方法を考えなければ。これが重要だと今回の事件を通じて得た教訓です」
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