第二章  海面下降


*防衛省*

「太平洋の海面が二〇メートル低くなりました」


「メキシコ湾の状況は?」


「海面下降は止まりません。海上の船舶が次々と大きな渦潮に吸い込まれています」


「メキシコ湾というバケツの底が抜けたような状態です」


「大西洋の海面はメキシコ湾に近いところほど大きく低下しています」


「すでにニューヨークでは自由の女神像に歩いて行けます」


「ミシシッピー川の長さが世界一を更新中です」


「パナマ運河自体は問題ないのですが、船舶は大西洋側に出ることはできません」


「早晩、イギリスやアイスランドはヨーロッパと地続きになります」


「ベニスではゴンドラの船乗りが失業しました」


「スエズ運河は航行不能。地元のメディアはモーゼが復活したと報道しています」


「もういい。サブマリン八〇八に関する情報は?」


「ありません」


「想像ですが、サブマリン八〇八はメキシコ湾の底にあると言われているトリプル・テンの確


[15]

 

 

保に成功したのでは」


「多分な。そうでなければ、このパニックを説明できない」


「もし、そうだとすれば、我が国は全世界から強烈に批難される」


「サブマリン八〇八はどの国にも籍を置かない艦船だし、この計画を立てたのはアメリカ人のスミスだ。我々は廃艦同然のオンボロ潜水艦を彼に譲っただけだ」


「喜望峰やホーン岬も百メートルを超える津波のような巨大な波に襲われています」


「海の神が激怒したとしか言いようがない」


「ここは落ち着いて今後の状況を綿密に予測して対処するしかない」


「すべての船舶に日本へ戻るか、最寄りの港に寄港するよう警告しました」


「このまま、海水がすべてメキシコ湾の底に吸い込まれたらどうなるんだ」
「スーパーコンピュータでシミュレーション中です」


「すべての海水が吸い込まれることはありません」


「メキシコ湾より深いところにある海水は残ります」


「瀬戸内海はもちろんのこと日本海も消滅するのか」


「昔、『日本沈没』というSF小説があったが、日本海消滅か」


「それより先に地中海が消滅するな」


「しかし、吸い込まれた海水はどうなるんだ」


[16]

 

 

 この言葉が最後で沈黙が防衛省最高幹部会議室を包む。


* サブマリン八〇八*

 黒光りしたサブマリン八〇八が悠然と空中に浮かんでいる。


「ノロの言ってたとおりだな」


 艦長がノロをまじまじと見つめる。


「ドンドン上昇しているような感じがする。高度は?」


「潜水艦には深度計はあるが高度計はない」


「そりゃそうだ。寒いし、息苦しい。ひどい頭痛がする」


「中に入ろう。周りの状況は監視カメラで確認できる」


 ノロと艦長がセイルから司令所に降りる。


「艦長!いったいどうなっているのですか」


 艦長の足が床に着くと副艦長が乗務員を代表して質問する。長い沈黙が続いたあと、やっとノロが応える。


「トリプル・テンが液状化して本艦を包み込んだ」


 驚きの声も出さず、誰もがノロをじっと見つめる。


「トリプル・テンは球体の形を取っているが、それは仮の姿で……」


 そのとき副艦長がモニターの映像に向かって叫ぶ。


[17]

 

 

「地球だ!」


 全員、モニターを瞬きもせず見つめる。


「月だ!」


 隣のモニターには画面一杯に月が映っている。全員、真っ青になる。


「スミスに緊急通信!」


「通信できません」


「本艦は宇宙空間にいる。浮上しすぎた」


 艦長が自暴自虐的な冗談を口にする。


「機密性が高い潜水艦だからなんとか持っているが、海中にいるのと同じだ。酸素はどれぐらい持つ?」


「二日は持ちます」


「通信はできませんが、テレビやラジオ放送はすべて受信可能です」


 様々な放送が艦内に流れる。どれもメキシコ湾で起こった事件や潮位の急激な低下に関するものばかりだ。


 ノロは潜水艦の舵の状況を示す模式図が映された操舵士の前のモニターを見つめる。


「このモニターの機能を教えてくれ」


「本艦の舵の状況を示すものです」


[18]

 

 

今の状況は?」


「急速浮上の体勢を示しています」


 ノロが操舵士の横に立つとテレビ放送を見ていた誰かが大声で叫ぶ。


「世界中の海水が全部メキシコ湾に吸い込まれているぞ」


「未確認飛行物体にアメリカ空軍が攻撃。本艦のことか?」


「メキシコ湾の底の穴の直径は一キロメートル以上」


「そんなバカな。トリプル・テンの直径は一〇メートルだったぞ」


 ノロは乗務員の興奮に耳を貸すこともなく操舵士に指示する。


「舵を下に、つまり潜航体勢を取るように変更してくれ」


「どういうことですか。宇宙空間でそんなことをしても意味がないのでは」


「とにかく、試してくれ」


 ふたりの会話に気付いた艦長が操舵士を促す。


「月と地球が映っているモニターの倍率を保持してくれ」


 放送が聞き取れなくなるほどテレビの音声ボリュームが下げられる。全員、月と地球が映っているふたつのモニターを注視する。しばらくすると静かな声が流れる。


「地球が近づいてくる」


 ノロが小さく頷くと操舵士に告げる。


[19]

 

 

「面舵(右方向に進路を変えること)のポジションに舵を」


 操舵士はノロの意図を理解して舵を操作する。そして期待を持ってモニターを見つめる。


「進路が右方向に変わりました」


 モニターに映る地球がゆっくりと左に移動する。


「わあ、すごい!まるで、宇宙船だ」


 操舵士が舵を様々に操作する。サブマリン八〇八は操舵士の意のままにその進路を変える。


「問題はどうやって地球に戻るかだ」


 艦長が自戒の念を込めて口にする。大気圏に突入するなど潜水艦にとって前代未聞のことだから艦長の心配はそれなりの理由がある。しかし、ノロは臆することなく操舵士に指示する。


「もう少し練習してから、地球に戻ろう」

* * *

「暑いな」

 

 艦長が温度計を確認する。


「もっと降下速度を落とさないと危険じゃないか」


「その降下速度が分からない」


「本艦をトリプル・テンが包み込んでいるから、大気圏突入に問題はないと言われたって、これ以上艦内温度が上がると全員やられるぞ」


[20]

 

 

「一旦、停船して方法を考えよう」


 操舵士が慣れた手つきで舵を操作する。


「シュノーケルを少しだけ開けろ。ほんの少しだけだぞ」


 艦長が念を押す。


「閉めます」


「どうした」


「シュノーケルの温度計が振り切れました」


「降下は」


「止まりました」


「まるで盲人が宇宙を散歩しているようなもんだな」


「冷えるまでこの状態を保持しろ」


「目だけじゃない。五感すべてが効かない」


「海中なら、潜水艦は鋭い五感を持っているが、空中では、ましてや宇宙では」


「これから潜水艦を建造するときは航空自衛隊やNASAの知恵を借りた方がいい」


「通信士。無線は?」


「依然、使用不可能です」


「じっくりと報告書でも書くか」


[21]

 

 

「全員、たっぷりと休息しろ」


サブマリン八〇八は高度五〇キロメートルの中間圏と成層圏の境目あたりで静止する。

 

* 防衛省*

「ロシアの原子力潜水艦が津軽海峡で座礁したという報告が入りました」
「津軽海峡で?」


「救助信号を出しているそうです」


「救助する余裕はないぞ」


「しかし、原子力潜水艦です。なんとかしなければ」


「原子炉に異変でも起こったのか」


「確認中です」


「ロシア政府からの連絡は」


「問い合わせていますが、返事はありません」


「自国の船舶の救助だけでも精一杯なのに」


「アメリカ空軍が空中に浮かんでいた潜水艦らしき物体を攻撃したが、ミサイルは命中する前に消えたという報告が入りました」


「!」


「メキシコ湾上空に潜水艦が浮かんでいたなんて、アメリカ空軍もいい加減なことを」


[22]

 

 

「いや、冗談じゃないかもしれない」


「サブマリン八〇八がトリプル・テンの回収に成功したとすれば……ある意味、このパニックを説明することができるかもしれない」


 防衛大臣が眼鏡の奥で目を閉じると小さく頷く。


「大臣、どういう意味ですか。トリプル・テンとは?」


「詳細は不明だ」


 ドアが開くと首相が入ってくる。

 

* サブマリン八〇八*

「こんなにゆっくりと降下していたら、すぐ発見されて不審船、いや、未確認飛行物体として攻撃されるぞ」


「心配するな。トリプル・テンにはステルス機能がある。レーダーには引っかからない。それどころか……」


「冗談じゃ」


 酸素ボンベを背負って防寒具に身を包んだノロと艦長はセイルから下界を見つめながら話を続ける。見張り番が双眼鏡で周りをくまなく警戒している。


「それに海中ではソナーにも感知されない」


 艦長が首を横に振りながら話題を変える。


[23]

 

 

「なぜ、通信できないんだ。ひょっとしてトリプル・テンのステルス機能と関係があるのか」


「さすが、艦長。そのとおりだ」


「ノロ、教えてくれ。ちゃんと受信できているのに、なぜだ!アンテナは正常だ」


「一言で言えば、電波を発信しても瞬間的に吸い込まれてしまうのだ」


「!」


「送信してもすぐに電波が本艦を取り囲んだトリプル・テンに吸収されてしまうんだ」


「もしかして!」


 ノロが大きく頷く。


「取りあえず、どこか陸地に向かおう」


「できれば、無人島がいいということかな」


「そうだ。本艦を外から確認する最良の場所は無人島だ」

 

* 防衛省*

「大臣、なんとか理解した。しかし、そんな旧式の潜水艦がよくもメキシコ湾の一番深いところまで潜航できたな」


「サブマリン八〇八はグレーデッドとのイースター島海戦のあと、不思議なことにかなり深く潜れるようになったという記録が残っています。その潜航可能深度や原因は不明です」


「イースター島海戦!核テロ組織グレーデッドが仕掛けた核戦争のことか……長居はできない。


[24]

 

 

 すぐ官邸に戻る」


「お気を付けて」


「そうだ!」


 首相が振り返る。


「ノロとはいったいどういう人物なんだ」


「不明です」


 首相は黙ったまま部屋を出る。


* サブマリン八〇八*

「太平洋にこんなにたくさん無人島があるなんて」


「海面が下がって島の数が増えただけだ」


「降りるぞ」


「待て!命綱を用意しろ」


「命綱?山に登るわけでもないのに」


「すぐに分かる。ロープを用意しろ。五〇メートルもあれば十分だ」


「それにしても晴れわたっているな」


「海水が減った分、雲が発生しないんだ」


「太平洋も百数十メートル以上海面が低下したらしい」


[25]

 

 

「そのうち数百メートルどころか数千メートルに達するだろう。すでに大西洋は四〇〇〇メートル以上海面が後退したらしい」


「スエズ運河はもう存在しない。地中海は一気に海面が約三〇〇メートルも降下したようだ」


「トリプル・テンを回収したのは間違いだったのでは」


「断じてそんなことはないし、今さら、そんなこと考えたってどうしようもない」


「それはそうだが」


 ノロと艦長は腰に命綱を巻き付けるとそろりと地面に降りる。


「『引っ張れ』と叫んだら遠慮なしに力一杯引っ張ってくれ」


「分かりました」


 ふたりはぬかるむ地面をゆっくりと半身の姿勢で黒光りしたサブマリン八〇八から離れる。心配そうに水兵がふたりを見つめる。その水兵からはふたりの姿がはっきり見えているのに、ふたりからは水兵おろか、サブマリン八〇八も黒から白っぽくなって見えなくなる。


「引っ張れ!」


「光も吸収してしまうんだ。トリプル・テンは」


[26]