「これがトリプル・テンか」
加藤が物珍しそうにガラスビンに入った真っ黒なモノを見つめる。ノロがそのビンを手渡すと予想に反する重さに加藤の掌の上でビンが踊る。落とさないようにと加藤が慌てれば慌てるほどビンが回転して掴めない。蓋が開いて液体のように見えるトリプル・テンがビンの口から漏れかける。ついにトリプル・テンの重さに負けて加藤がビンを落としてしまう。その勢いで放りだされたトリプル・テンが球体の形に急変すると灰色の絨毯の上に落ちる。
「!」
絨毯が凹むが、ボールのようにトリプル・テンが弾む。思わず加藤が掴むが意外な重さにまたもや落としてしまう。ノロが慣れた手つきで再びバウンドしたトリプル・テンを掌に載せる。ノロの掌の中央でビー玉ぐらいの大きさのトリプル・テンが窪みを造る。
「ビー玉ぐらいの大きさなのに砲丸投げの玉のように重たかった」
加藤がノロの掌のビー玉を渾身の力をこめて摘まみ上げる。
「柔らかい!」
そのあと加藤は叫ぶことさえできない。掴んだはずのトリプル・テンが消えたのだ。しかし、
[81]
指先には砲丸投げの球のような重みがかかっている。ノロが器用に加藤から透明のトリプル・テンを取りあげるとイリから受け取った新しいビンに入れる。黒い姿を現すとすぐに液体となる。
「これを使う」
ノロが加藤に告げると固く蓋を閉めてからテーブルの上に置く。
「相変わらず、重いなあ」
やっと落ち着きを取り戻した加藤がノロを見つめる。
「取り乱したこと、お詫びします」
「気にするな。誰でもビックリする。でも本当に腰を抜かすのはこれからだ。今のは腰を抜かす練習だ」
「いえ、予防注射よ」
医者の卵のイリが声に出して笑う。
「全面的に協力するが、このトリプル・テンを核廃絶にどういうやり方で使うのですか?」
「簡単だ。気にするな」
加藤は急に土下座してノロに請う。
「すべてをお任せします。グレーデッドの全員を説得して、今後あなたの言うとおりに従います」
[82]
「えー!」
ノロがヒザを着いて加藤に頭を上げるように促す。
「トリプル・テンに触れました。すごい物体であること以外、私には何も分かりません。お願いします。あなたがグレーデッドを引っぱってください。迷惑はかけません」
加藤は立ち上がると部下に命令する。
「すぐ幹部を招集しろ!」
*
「俺、こういうの余り好きじゃないんだ」
加藤の提案でノロがグレーデッドの総統に決まった。
「俺はこの決議に応じない」
イリがノロの横で心配そうに次の言葉を待つ。
「かといって、加藤いって……」、、、、
「さぶーいダジャレは止めて!」
思い切り頭を叩かれたノロがイリを見上げる。
「という訳で、総統はイリがふさわしい」
ノロの言葉にイリが身を退くと静寂が訪れる。
「ゴホン」
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ノロが咳払いする。
「今し方、総統に推薦された私めの顔部に打撃を与えた者が総統になるべきだと私は深く思慮します」
グレーデッドの人間は本質的にリベラルでジョークを理解する人が多い。しかも右派の総統をハワイ海戦で失ったあと緊張感が解かれたので気持ちがうわずっている。
「賛成、賛成!」
「ちょっと、ちょっと。待って」
イリの横でノロが大きな口を開いて笑い転げる。
*
「頭が高い!」
イリがノロに向かって叫ぶ。
「えー?」
「わたし、総統よ」
「あれは外向き。俺が影の総統だ」
「何が影よ。影なら黙ってなさい」
加藤が苦笑してふたりを見つめる。
「分かった。分かった。大総統様」
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「命令に逆らったら張り付け獄門よ」
「おー怖!さすが総統!」
イリがノロの頭を叩く。
「イテ!」
「ノロ!あなたを戦力作戦本部長に任命します」
「わーい。俺は闇将軍だ。いや闇総統だ」
「はしゃぎすぎよ」
「俺は闇が好きなんだ」
ふたりの会話をじっと聞いていたグレーデッドの幹部が呆気に取られる。
「加藤総統代行。大丈夫ですか?このふたりにグレーデッドを任せて」
「心配するな。独裁的な総統を打ち破った男だ。しかも太陽エネルギーをマイクロウエーブに変換して地球に送る宇宙ステーションを完成させた男だ」
「それは承知していますが、違和感を感じるのです」
別の幹部が加藤に訴える。
「私たちはいったん死んだ。オマケでもらったこの命を預けるのなら、愉快な者に託すのも一考だと思わないか」
「なるほど。代行のおっしゃるとおりだ」
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笑顔で頷くが加藤はすぐに真顔になる。
「もう私は総統代行ではない。イリが総統だ。さっき納得したばかりじゃないか。私は一兵卒だ」
「待ってください」
加藤が視線をイリに移す。
「総統を引き受ける代わりに総統補佐官になってください。ノロをコントロールして欲しいのです」
「ノロをコントロール?」
「有能ですが極めて気まぐれです。気まぐれは女の特権ですが、ノロの気まぐれはまさにプロです」
唐突なイリの言葉に加藤は返事ができない。そしてさっきまでいたノロがいないことに気付く。
「ノロは?」
「えー!」
イリが叫ぶと加藤を見つめる。
「分かるでしょ。私の言ったこと」
加藤がイリに頭を下げる。
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「総統補佐官を引き受けます。ノロを探します」
*
「俺は闇総統のノロだ。潜水艦が係留されている場所に案内しろ」
「闇総統?」
「人事異動が発表されたのを聞いていないのか」
「人事異動?」
「イリが総統で俺が闇総統になったのだ」
「よく分かりませんが、ナンバーツーの地位に就かれたのですね」
「そのとおり」
「こちらへ」
「俺は足が短いからおんぶして案内してくれ。事態は急を要する!」
屈強そうな男がおんぶしようとするとノロがクレームを付ける。
「肩車にしてくれ」
その男は疑問を抱くことなくノロの言うとおりにする。大半のグレーデッドの人間は純粋だ。
だから総統に洗脳されて全世界を恐怖に陥れることに疑問を呈することなく行動したのだ。
やがて十数隻の潜水艦が係留されている場所に到着する。そこにはサブマリン八八八も係留されている。
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「一番近い潜水艦へ」
丁寧に降ろされるとノロは潜水艦に近づく。そして繋ぎ板を渡ると甲板に立つ。あらゆるところを目視する。
「原子力潜水艦にしては艦体は旧式だ」
リベットの頭があちこちに見える。
「溶接技術が稚拙すぎる。こんな艦体に原子炉を積んで航行するなんて放射能を撒き散らすようなもんだ。乗組員に放射能耐性があるからいいようなものの、なぜこんないい加減な潜水艦を造ったんだ?」
ノロは現場を大事にする。自分の目ですべて確認する。それがノロの性分であり天才の業だ。
ノロが内部に入ろうとしたとき、いつの間にか現れた加藤がノロの腕を掴む。
「放射能耐性手術を受けなければ中に入ることはできません」
「大丈夫だ。でも……」
「でも?」
「核兵器や原発を批判するグレーデッドが、なぜ核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を製造して世界中の海を航行するんだ?」
先ほどまでいた本部でのノロとは違う本質を突いた質問にさすがの加藤も即答できない。しかし、ノロはそんな加藤の心を読みとったように言葉を続ける。
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「闇の世界のグレーデッドには地上の世界のすべての技術を導入することはできない。いくら努力してもその科学的情報のすべてを手に入れることは不可能だ。逆に独創的な手法を考えるという素晴らしい思考能力を持つこともできた。要は特許に引っかからないように別の方法を考えると言うことだ」
「すごい洞察力ですね。感服しました」
再び落ち着きを取り戻した加藤がノロを潜水艦の司令所に案内する。
「すごい!」
素直に驚くノロに加藤の方が驚く。
「大した設備とは思いませんが」
「サブマリン八八八と比べれば、ここはとにかくすごい」
「失礼だが、比べる対象が低いのでは?」
「そうではない。もちろん列強大国の潜水艦と比べてもだ」
「?」
「人間味に溢れている」
「私にはおっしゃる意味がまったく分かりません」
「サブマリン八八八は人間の能力に頼らなければならないほどすべての装備が旧式だ。一方最新鋭の潜水艦はすべて自動化されている。銀行員が徴兵されても数日の研修で潜水艦の所定の
[89]
部署を担当することができる」
急に加藤の表情が緩む。
「それ以上の説明はいりません。良い悪いは別として、私もグレーデッドの兵器や武器にヒューマンインターフェイスを感じます」
ノロがにっこりと笑うと飛びあがって加藤の肩を叩く。
「さて作業にかかろうか」
そのときイリの声がする。
「ノロ。どこにいるの」
*
「先ほど見せたトリプル・テンを潜水艦に塗装するんだ」
「えー!」
「塗装された潜水艦は宇宙船に変身する」
誰もが圧倒されて何も言えない。
「潜水艦には核ミサイルはもちろんのこと核兵器、化学兵器を満載させる」
グレーデッドの総統室で幹部を前にノロが計画をぶち上げる。
「宇宙に飛びだしてそのまま太陽に向かう」
やっと加藤が発言する。
[90]
「巨大な溶鉱炉で核兵器を焼却処分するのですね」
「そうだ。一瞬にしてパーだ」
幹部から驚きの声が大きく両手を広げるノロに向かう。
「そして元列強各国にも同じことをしてもらう」
「異議あり!」
幹部のひとりが立ち上がって発言を求める。
「我々はノロの言うとおり実行するが、元列強各国が応じるだろうか?」
「そうだ。我々だけ実行して、丸裸になったときに総攻撃を受ける危険性がある」
「彼らもグレーデッドが本当にすべての潜水艦と兵器を処分したのか、疑心暗鬼になる可能性が高い」
「情けないなあ」
「応じない国がひとつでもあるとどこの国も応じないだろう」
「それを考えるのが連邦政府であり政治家の仕事じゃないか」
「宇宙ステーション・マイクロウエーブシステムが稼働しても未だ原子力発電所を廃炉にするどころか密かに稼働させている国もある」
「隕石がぶち当たって宇宙ステーションが機能しなくなると自前で発電所を確保しておかなければならないという屁理屈をこねている」
[91]
「そうかもしれないが、プルトニウムを確保したいのが本音だろう」
「地球連邦政府の権限を強化しなければならないけれど、俺の仕事じゃない」
ノロは不機嫌そうに席を立つと出口に向かう。
「ノロ!」
加藤が呼び止める。
「どこへ行くのですか」
「潜水艦を改造する」
「サブマリン八八八をか?」
「いいや。グレーデッドの潜水艦だ」
加藤ではなく幹部のひとりが興奮して叫ぶ。
「ノロを止めろ!我々の潜水艦だけを太陽に処分させることに絶対反対だ」
「俺は俺のやり方でこの地球から核と名の付いたすべての兵器や武器や発電所を消し去る」
「ノロ」
イリが静かに呼び止める。
「待ちなさい」
ノロは無視してドアの前に進む。
「総統の命令を無視するの?」
[92]
ノロがハッとして立ち止まると振り返って口を横に広げる。
「そうだった」
ノロが戻りながらニーッと笑う。
「俺、今、すごーいアイディアを思いついた」
*
「どうだ。すごいだろ」
ノロが胸を張るとイリが応じる。
「実行しましょう」
まず加藤が手を上げて大きな声を上げる。
「賛成!」
積極的に賛成する者や渋々賛成する者もいるが、数人が反対する。しかし、イリが一声出す。
「賛成多数。総統として命令します。ノロの指示どおりにするように」
まず加藤が質問する。
「そのトリプル・テンだが、かなりの量が必要になる。どれくらいいるのですか」
「二〇〇トン程度でいい」
「二〇〇トンも!」
さすがの加藤も驚く。
[93]
「二〇〇トンなんて大した量じゃない。トリプル・テンの比重は驚くほど大きい。だから重いが体積は大したことはない。トリプル・テンを酒瓶に詰め込むと一本で一トンの重量がある。
一升瓶二百本分だ。小さな酒屋でも保管できる」
「トリプル・テンの意味を忘れていた。しかし、ビンに詰め込むことは可能なのですか」
「可能だ!」
「ビンが持たないのでは」
「トリプル・テンは液体の性質も持つ。不思議なことにビンは割れない」
「携帯することが可能だと言うことか」
「ただし一トントラックに一本しか積めない。しかもその荷台の強度が問題になる」
イリが業を煮やして発言する。
「そんな細かい話はどうでもいいわ」
加藤はイリ、いや総統に視線を移す。
「細かいどころか、スケールの大きい話です。トリプル・テンを正しく理解する必要があります」
イリが腹を抱えて大きな声で笑う。
「トリプル・テンを理解しようとすること自体、時間の無駄だわ。トリプル・テンの扱いはノロに任せればいい」
[94]
ノロがイリに頷く。
「放棄したな」
「何を」
「トリプル・テンを理解することを」
「失礼な!私は総統よ」
「相当、サボりがうまい総統だ」
イリの表情が一転して厳しくなるが急に前より大きな声で笑う。
「ばれたか」
加藤を始め幹部も苦笑いする。
「でも、私はノロの作戦を見抜いた」
誰もが真顔に戻るがノロだけが口を横に大きく広げたままだった。
「教えてください。総統」
加藤が神妙にイリを見つめる。
「トリプル・テンをベースにしたチューインガムを口に含んで元列強各国の核兵器にくっつけて無力化するのよ」
「そのとおりだ!」
ノロが叫ぶ。
[95]
「具体的な説明をお願いします」
加藤の言葉の意味を勝手に自分流に解釈したノロがしゃべり始める。
「理解困難なことを理解するにはさぼることに限る。そうすると意外と突拍子もない発想が生まれる。それが物事の本質を突くこともあるんだ」
「失礼を顧みず申し上げますが……」
加藤が発言を躊躇する。原子力発電所の所長経験がある加藤にとってこのノロの発言は受け入れられない。しかし、一寸先が闇という過酷な経験をした加藤の意識を変えていた。
「……いえ、私も是非トリプル・テンのチューインガムを咬ませてください」
「それには下あごを鍛えなければならない。俺の口は小さかったが今やこのとおりだ」
ノロがニーッと口を広げると黒い歯が見える。トリプル・テンのチューインガムがくっついているのだ。
*
「聞けば、グレーデッドに属する人間は世界中にわんさといるらしい」
「私も実態を知りませんが、各国の軍隊をいとも簡単にグレーデッドの手先にして全世界を大混乱に陥れた大事件からして、そのとおりだと思います」
「その組織力を活用できれば、すべての核兵器や原子力軍艦にトリプル・テンのチューインガムをくっつけるのは不可能なことじゃない」
[96]
加藤はもちろん賛成の声を上げる者は誰もいないが、イリはすぐ同調する。
「トリプル・テンのチューインガムを咬んでもびくともしないグレーデッド人を把握しなさい。
その間にグレーデッドチューインガムを製造します」
無言の視線がノロからイリに移動する。
「返事をしなさい。私はグレーデッドの総統です。命令を無視する者は全員死刑にします」
「イリ!いや総統。過激すぎる」
ノロがイリを制するが、イリはひるまない。
「世界中から核がなくなるなんて、夢の夢よ。それが今可能だわ。どんなことがあってもやらなければ!」
もし座らずに立っていたら加藤も含めて総統室から逃げ出すかもしれないほどの迫力がイリにはあった。ノロだけがイリを見つめ続ける。
「当然、俺は賛成。大賛成」
そして手をぱんぱんと叩いてはしゃぐと何とか加藤が発言する。
「あまりにも突拍子もない計画と命令に戸惑っています。具体的な手順を担当部署に計画させます」
「前向きに善処しますなんていうのはやめてね。どこかの国の決断できない首相や大統領ではなく私は決断するだけが得意の総統だということは忘れないで。それじゃ、明日のこの時間に
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計画書を提出するように」
イリはそう言うと席を立って出口に向かう。
「どこに行くんだ」
慌ててノロが追いかける。
「シャワーを浴びるわ。ついてこないで。ノロはみんなが真面目にどんな計画書を造るか、監視しなさい」
「俺もシャワーを浴びたい」
「あなたは闇総統でしょ。職務を遂行するように」
「そんな」
「だいたいあなたは風呂嫌いでしょ」
「あっ、そうだった」
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