大坂城で幸村は秀頼にこれまでの経緯の報告を終える。
「茶臼山にいた家康が影武者だったとは。しかし、穴山小助を失ったのは残念だ」
「小助のお陰で家康は服部一族にがっちりと守られていることがよく分かった」
「服部半蔵か……今後の鍵を握る男か……」
「影武者には影武者と言うわけには行きません」
「それは十分承知した。それより幸村。何を遠慮しているのだ?」
「と言いますと」
「幸村の気持ちは分からないでもないし、この秀頼はいつもお前の言うとおりにしてきた」
「仰せのとおです。私のような下っ端の意見をよくお聞きになりました。ありがたき幸せ」
「今回も聞くことにする」
「えっ!」
幸村は秀頼が小猿に興味を示していることに気付く。
「其方に頼るほかないのだ。私には父のような器量はない」
――やはり小猿を意識している
しかし、幸村は通り一遍の言葉を返す。
「そのようなことはございません。天下人のすべての素質を備えられています」
「幸村に言われるとこそばゆいぞ」
[40]
秀頼が囁き声に変える。
「母や周りの女どもが少しややこしい。何とか所払いしてお前と会っているが、この会談が終われば質問攻めに遭う」
幸村が首を傾げるがすでに秀頼はどのようにして小猿を豊臣家の中心に供えようかと考えていることを見抜く。
「母だと言っても淀君は子供のように振る舞う。周りも『姫』と呼んでご機嫌ばかり伺う」
上下関係があると言えども秀頼と幸村は兄弟のように親しい。
「今日の幸村はまるで赤の他人のようだ」
「このような話、ざっくばらんにはしゃべれません」
「この秀頼、幸村の操り人形でよい。これからどうすればいい。まずは女どもを説得する理屈を考えてくれ」
すべてを共有したふたりが手を握る。そして幸村がわざと大きな声をあげる。
「家康を取り逃がしましたが、逃げ去る姿はまるでカニの横歩きでした!」
「そうか!でも、なぜカニなのだ?」
「泡を吹いていたからです」
秀頼が大きな笑い声をあげる。
「伊賀へ赴き服部半蔵の情報を三太夫から聞き出しました」
[41]
「それは先ほど聞いた」
「そうでした。そのとき猿飛一族に小猿と呼ばれる奇妙な子供が、いや青年が……」
これも先ほど聞いていたが秀頼はとぼけながら尋ねる。
「小猿?」
「驚かないでください。まるで猿なのです」
「えっ!」
秀頼はわざと驚くがすぐに冷静さを取り繕う。
「猿飛一族は別名『猿族』と呼ばれている。不思議でも何でもないじゃないか」
「ところが猿飛大猿によれば秀吉様に瓜二つだというのです」
「そういえば信長公に我が父は『猿』と呼ばれていたそうだ」
「北政所(秀吉の正室。通称『ねね』)様にお目通りできませんか」
「何故に?」
「北政所様なら小猿が秀吉公にそっくりかどうか分かるでしょう」
「分かった。小猿はどこにいる?」
「真眼寺の住職と戯れております。住職もそっくりだと言って丁重に扱われています」
「これは面白い!」
秀頼が大きく柏手を打つ。
[42]
「誰かおらぬか!」
もちろん隣部屋では数人の侍女がふすま近くで聞き耳を立てている。わざと間を置いてから侍女の声がする。
「お呼びでございますか」
「こちらへ参れ」
「今しばらく」
聞き耳を立てていたと疑われないように再び間を置いてから茶器を載せた盆を持ったふたりの侍女が現れる。慌てて用意したのだろう、茶器の蓋がずれて湯気があげっている。盆を置くとうやうやしく頭を下げる。
「茶は要らぬ。それより北政所様は城内におられるのか」
「少し前にお姿を見ました」
「お暇にされているのならここへお連れしてくれ」
「探して参ります」
侍女が出て行くとふたりはニヤリとする。
***
「何というバカげた話」
じっと黙って秀頼と幸村の話を聞いていた北政所が豪快に笑い飛ばす。さすが秀吉の正室だ。
[43]
「お願いできますか」
真剣な表情で秀頼が北政所を見つめる。
「奇妙な話をして申し訳ありません」
そう言うと幸村は頭を下げてそのままの姿勢を続ける。
「幸村、顔をあげなさい。面白かった」
北政所が命ずる。
「小猿とやらを連れてきなさい」
「かしこまりました」
「それでは、きっちり一刻後に西の丸庭園へ」
こう言い残すと北政所は立ち去る。
「どういうことだ」
秀頼が複雑な表情をするが、幸村は廊下に出て猿飛佐助を呼ぶ。
「ここにいます」
「小猿を一刻後に西の丸庭園に連れて参れ」
「一刻後?性急な」
「言うとおりにせよ!」
佐助は返事もせずにその場から消える。
[44]
***
西の丸庭園に小猿が現れる。生まれて初めて手入れされた立派な大庭園を見てはしゃぎ出す。
「これ!大人しくしろ」
佐助がたしなめるが小猿は飛び回る。まるで佐助と鬼ごっこをするように素早く動き回る。
「放っておけ」
「しかし、北政所様に無礼があっては……」
しぶしぶ佐助は幸村に近づくと秀頼が現れる。
「あれが小猿か。無邪気だのう」
「ありのままを北政所様に披露するのが得策」
秀頼には幼少の頃の秀吉の記憶しか残っていない。余りに違いすぎる小猿に親近感を感じない。元服を迎える歳だというがわんぱく坊主にしか見えない。大猿に教育されたと言えども解放されると猿の本性を隠すことはない。
奇声を発しながら動き回った後、こともあろうか、北政所が大事にしていた羽振りのいい松の木に登る。とがった葉など小猿には関係ない。まるで猿だ。
「キャッ、キャッ」
庭園の片隅にある茶室から北政所が出てくる。
「日吉丸(秀吉の幼少の頃の名前)。降りなさい!」
[45]
秀頼が茶室に向かう。もちろん幸村も佐助も向かう。先に佐助が松の木に到着して跳躍しようとしたとき、北政所が佐助の足を取る。どこにそんな力があるのか佐助が転ぶ。
「これ!日吉丸。お前の好きな水菓を持って来た」
松の木の天辺から小猿は北政所を見下ろす。優しく微笑む北政所をしげしげと見つめると高々と掲げられた水菓に視線を移す。すぐ警戒心が消える。幸村は近づこうとする秀頼を制すると佐助に不動の姿勢を強要する。茶室にいた侍女もじっと成り行きを見守る。
風のない日だった。西の丸庭園で動くものと言えば北政所と小猿だけだった。小猿は松の木から下りて用心深く近づく。そして乱暴に水菓をもぎ取る。北政所はひるむことなく両膝を着いて小猿を見つめる。
「うまいか?」
夢中になって水菓を口に含む小猿が反応する。ヨダレで汚れた小猿に再び水菓を与える。今度は手にして水菓をゆっくりと観察してから口に入れる。北政所が優しく小猿を抱きしめる。
小猿は目を半分閉じて身を委ねると北政所の胸をまさぐる。
「そなたは日吉丸。私がお前の母さん」
「母さん?」
「そう。もっとお食べ」
小猿がニッコリと笑うと水菓を受け取る。
[46]
***
それから北政所は小猿を連れて京の高台寺に籠もった。しかし、それを良しとしない淀君が周りの侍女に当たり散らす。
「猿を可愛がるとは何をお考えなのじゃ」
若い侍女は淀君の癇癪を収めようと懐柔するが、北政所に長らく仕えていた高齢の侍女はどちらかというと小猿に興味津々だった。
「太閤殿下の若いときにそっくりだわ」
「秀吉様の生まれ変わりのよう」
そんな言葉に淀君が激しく反発する。
「秀頼が猿に似ていないから、秀吉の子ではないと言われているようなもの!」
「そんなことはありません。秀頼様は立派なお世継ぎ様です」
淀君は幾度も秀頼を呼びつけるが無視される。それは春の陣を凌いだ幸村とともに、家康の次の攻撃に備える戦略会議で忙しいからだ。これまでと違って秀頼は真剣に豊臣家の将来を考え始めた。実質的に豊臣家の主となった淀君を封じることも議論された。戦に疎い淀君を隔離しなければ豊臣家が滅亡するとの危機感を秀頼は自覚した。
「幸村を呼べ!」
「次の攻撃に備えてお忙しいそうです」
[47]
「来られないと言うのなら参謀役を解任する!」
淀君の不満はどんどんエスカレートする。
「幸村様は豊臣家を守ろうと必死です。秋の陣も春の陣も幸村様のご活躍があったから大坂城が今も難攻不落の城として豊臣家を守っているのです」
若い侍女も淀君に意見する。
「幸村ではない。秀頼の手柄じゃ」
やがてこのような事態を察したのか、北政所が大坂城に向かう。すでに二条城、伏見桃山城、淀城は徳川方の城となっていた。京の高台寺へは何の妨害もなかったが、今度はそうは行かない。幸村はもちろん真田十勇士全員が大坂から離れられないから北政所を無事大坂へ連れてくることは至難の業である。仕方なく幸村は知恵を借りるために佐助と才蔵を伊賀に向かわせる。
***
「いかに北政所様と言え今回は徳川もすんなりと大坂城へ行かせないと思われます。どうすればいいものか」
百地の屋敷で佐助が切り出す。
「根津甚八と言えども水軍を率いて淀川を遡って北政所様を連れ帰るのは難しい」
さすがの三太夫もお手上げだ。
「忍びの者ができることは知れている。今や徳川の支配下となった伏見城や淀城などの城を落とすことはできない。高台寺から伏見の港までお連れするには夜しかない。聞けば夜も警戒が厳重らしい」
[48]
「幸村様のお考えは何とか京を混乱させられないかということです」
「分かっておる」
そこに猿飛大猿が音も立てずに現れる。
「いつもながら、見事だ」
「佐助がここに来たと聞いて参った」
「何のためか……申し上げることもないか」
大猿がニタリとする。
「北政所と小猿が大坂城に向かおうとしていると聞いておる」
「妙案はあるか」
三太夫が大猿を見つめる。
「ないではない」
「何?」
大猿があぐらを組む。
「その昔、お前のやんちゃな下忍が京を大混乱におとしめたことがあったな」
「破門にした石川五右衛門のことか」
[49]
「そうだ」
「あやつはわしの言うことを聞かないばかりか……」
「そんなことはどうでもいい。京を大混乱させて警備が手薄になったところを北政所と小猿を伏見にお連れして小舟で大坂に向かわせる」
「なるほど。石川五右衛門のように派手な夜盗を毎夜繰り返して京を大混乱させると言うのか」
「分かってくれたか。わしがその役を引き受けよう」
「待った!」
「?」
「盗賊は身軽な者でないとダメだ」
「何を言う。わしはいとも簡単にこの屋敷に忍び込んだぞ」
「確かに。だが猿一族の頭領にそんなことをさせるわけには行かない。それに……」
「それに?」
「うってつけの者がいる」
「誰だ」
「そのうち分かる」
「仲間と言えども作戦は明かさない方がいい」
「もっとも」
[50]
「小猿が秀吉の再来になるのなら、京に差し向ける者も石川五右衛門の再来となる。ここは任せよ」
大猿は文句を言うどころかサバサバする。さすがに伊賀を取り仕切る百地一族と猿一族の信頼関係は深い。
「佐助。三太夫の言うとおりにせよ」
その言葉が消えると大猿自身も姿を消す。灯明がわずかに揺れるが佐助は気付かない。
こうして前代未聞の淀川下りの作戦が実行される。
[51]
[52]