【時】西暦2011年11月11日
永久0011年11月11日
【空】摩周湖
【人】瞬示 真美 一太郎 花子
西暦2011年11月11日
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決断と実行のその日暮らし。
やたら計画をつくっても、途中で計算が少しでも狂うと元から計画がないのと同じことになる。それなら、いっそうのこと決断したことをそのまま実行してその日を終わればいい。これは誰しもがしていることで、ひょっとしたら宇宙の真理かもしれない。
さて北海道が秋の卒業式を摩周湖で開催している。それはさびしい卒業式で、今出席者が白い小型車で霧の摩周湖の駐車場に近づく。空っぽの駐車場にすべりこむと展望台への階段に一番近い場所で停車する。黒い長袖のシャツに紺色のジーンズ姿の少しやせ形の学生がジーンズの上着を持って運転席から降りる。
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瞬示(しゅんじ)二十二歳。
助手席から白いセーターに薄いグレーのスラックスをはいた背の高い学生が降りる。
一太郎。瞬示とは札幌の大学の同級生。
足元に注意しながらふたりは階段を上っていく。霧で視界があまりよろしくない、風景としては最悪の摩周湖の展望台に到着する。一太郎は出しかけた薄型のコンデジを尻のポケットに戻す。
「何も見えない」
「まあ、期待はしていなかった」
いい加減な旅行をしているから残念がる様子はない。摩周湖に背を向けると反対側はふしぎにも晴れていて、山並みにまもなく沈もうとするピンぼけの太陽が見える。つまり霧は摩周湖だけを包みこんでいるのだ。
「粘る時間はないな」
一太郎が瞬示の横をすり抜けて先に階段を下りる。眼下には乗りつけたレンタカーが寂しそうに見える。そのそばに売店があるが当然閉店している。開店するのは来年の遅い春だ。
「寒い」
瞬示がジーンズの上着を羽織ったとき、遠くの方からエンジン音が聞こえてくる。その音が段々と大きくなる。真っ赤な四輪駆動車が駐車場に侵入するには少し早すぎるスピードで売店
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に接近する。
「ぼくらと同じ物好きな観光客かも」
しかし、赤い車のスピードは一向に落ちない。
「ぶつかるぞ!」
一太郎が叫んだとたん、まったく音らしい音が存在しなかった世界に鋭いブレーキ音とドーンという鈍い音がする。赤い車が売店にぶつかって止まる。同時に両側のドアが開くと若い女が出てくる。黒い薄手のセーターに紺色の上下のジーンズ姿の女が助手席から降りてきた赤いセーターに黒いスラックス姿の少しふっくらとした女に両手を合わせる。
「ごめーん」
赤いセーターの女が無言で運転席に乗りこむと車をバックさせる。ジーンズ姿の女が車の前にまわってぶつけたあたりを見つめる。瞬示がその女を見て叫ぶ。
「マミ!」
その女は瞬示の隣に住む幼馴染みの真美(まさみ)で「マミ」は愛称だ。瞬示が階段を駆けおりる。
赤いセーターの女が真美といっしょにバンパーをにらむ。
「仕方ないわね。動くし、どうせポンコツだから許してあげる」
「マミィー」
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瞬示がさらに大きな声を出す。
「!」
真美が声のする方に顔をあげると瞬示よりもっと大きな声を発する。
「瞬ちゃん!」
真美の顔から見る見るうちに血の気が引く。一呼吸置いて瞬示に向かって走りだす。展望台への階段の下で出会う。
「大丈夫か?」
「ええ……」
「マミじゃない。車だ」
「心配してくれないの?」
「だってピンピンしているじゃないか」
真美は首を左右に大きく振って階段を一段上って瞬示のすぐ前に立つと絶叫する。
「なぜ!なぜ!ここにいるの!」
「卒業前倒し記念旅行をしてる。いったい何を興奮してるんだ?」
「何を言ってるのよ!今朝会ったばかりじゃないの」
「今朝?」
「そうよ!どうやってここに!」
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いつの間にか赤いセーターの女が真美の斜め後ろに立っている。
「真美、彼氏?」
「違う!」
「私、邪魔かしら?」
唇と唇がくっつくほどの距離で会話する瞬示と真美を見れば誰でもこう思うだろう。真美はまた後ずさりする瞬示を見つめたまま、力のないかすれた声を出す。
「幼馴染みの瞬ちゃん、えーと……」
真美が辛うじて瞬示を紹介すると赤いセーターの女に手のひらだけ向けるが、鋭い視線をまったくゆるめることなく瞬示からほんの少しだけ離れる。
「同じゼミの花子」
「はじめまして」
丸顔の花子が丁寧に頭を下げる。そして顔をあげた愛くるしい花子の視線に瞬示が戸惑う。
そんな瞬示の表情をなめるように見つめながら真美の言葉がやっと普通のトーンに戻る。
「花子の両親は釧路の近くで民宿をしているの」
瞬示は花子と真美の視線を外すためにペコッと頭を下げる。
「瞬ちゃんは、わたしの隣に住んでいる幼稚園からの同級生なの」
真美は先ほどまでの険しい表情を放棄して「彼氏なんていえるような間柄じゃないわ」と言
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わんばかりの表情に変更する。そしていたずらっぽい目を瞬示に向ける。
「彼女、かわいいでしょ。わたしたちの近所に下宿しているのよ」
瞬示は真美に自分の気持ちが見透かされたと思って少し恥ずかしさを覚える。それを裏付けるように真美は花子に視線を戻した瞬示のおでこを突く。
「瞬ちゃんの好み、わたし知ってるもんね」
花子が意外な展開に異議を唱えるように真美を見つめる。同時に瞬示はハッとして花子から真美に視線を移してぶっきらぼうな言葉をはく。
「マミが運転していたんだろ。相変わらず下手くそだな」
真美もハッとして視線を瞬示から花子に向けると頭を下げる。
「花子、ごめんなさい」
「さっきも言ったでしょ。もう気にしないで」
黙って様子を見ていた一太郎に瞬示が気付く。真美と花子も長身の一太郎に初めて気付く。瞬示がふたりに一太郎を紹介する。
「一太郎」
「はじめまして、わたし……」
一太郎は真美が自己紹介しようとするのを制する。
「おふたりの名前はさっき聞きました。それより本当に大丈夫ですか?」
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真美は一太郎に見つめられてぽっと顔を赤らめる。すかさず瞬示が反撃に転じて真美の耳元でささやく。
「一太郎、かっこいいだろ」
真美は見透かされたことを隠すために口元を引きしめる。一方、花子は一太郎に頭を下げると笑顔で尋ねる。
「摩周湖、見えました?」
「霧だらけ」
花子がゆっくりと視線を真美に向ける。
「ほら、言ったとおりでしょ」
真美は花子にうなずきながら、瞬示から逃げるように展望台への階段に向かう。
「霧だけでも見て帰ろっと」
花子はそんな真美の後ろ姿に苦笑いしてあとを追う。鉄製の手すりを頼りに真美と花子が階段を上る。瞬示と一太郎も磁石に引きつけられるようにふたりのあとを追う。その途中で一太郎が瞬示に声をかける。
「君たち、双子みたいに見えるな」
初対面の真美を見て一太郎が感じた印象はあながち外れていない。
「よく、そう言われる」
[12]
展望台に到着した真美の後ろ姿を見上げながら瞬示が素直にうなずく。その展望台から霧がドライアイスの煙のように駐車場の方に流れはじめる。
西暦2011年11月11日から永久0011年11月11日へ
***
しばらくの間、四人は展望台から霧だらけで何も見えない空間をボヤーッと眺める。そのとき突然、瞬示が震動を感じる。
「揺れている!」
「ほんと!揺れているわ!」
同時に真美と花子が叫ぶと思わず抱き合う。
「地震?」
一太郎が展望台の手すりをつかむと大きな揺れが四人を襲う。
「きゃあ!」
真美と花子は抱き合ったままヒザから崩れる。瞬示は一太郎が差し出した手をつかむと、もう一方の手で手すりを握る。
摩周湖というカルデラに閉じこめられた霧が急にあふれる。バケツ一杯に満たされた水がこぼれるように摩周湖から霧が流れ出す。もしこれが霧でなく水だったら、四人は間違いなく
[13]
のみこまれて駐車場まで流されるほどの速さだ。しかも、音とも震動ともいえない不気味な雰囲気を伴いながら流れる。
近くにいるのに四人はお互いの姿さえ見えない霧の中で重々しい響きを感じる。やがて足元から左右に揺れる震動がはっきりと伝わる。
やがて震動が収まると勇気を振り絞って瞬示が提案する。
「降りよう!」
返事を確かめずに瞬示が階段に向かうと花子が立ち上がる。つられるように真美も立ち上がると花子のあとを付いて階段に向かう。そして最後尾に一太郎という順番で階段を下りる。
「気をつけて!」
先頭の瞬示の声だけを頼りに、花子と真美はおぼつかない足元を確かめながら、そして手すりをたどりながら慎重に一歩ずつ足を繰りだす。その足元を急に冷たい水が流れはじめる。
「水だ!」
真っ先に一太郎が叫ぶ。
幾分霧が薄くなるが、水嵩が増えて足元が不安定になる。すぐに水が流れ落ちる音が大きくなって、まるで急流の川のほとりにいるような轟音が背後からする。
驚いた四人が一斉に振りかえる。まわりより一段低い展望台から水が霧を押しのけて滝となって自分たちに向かってくるのがはっきりと見える。
[14]
「うわぁ!」
急流となった冷たい水がヒザを襲う。腰が浮いて転びそうになるが、瞬示は両手で階段の手すりをつかむ。
「キャアー!」
花子の悲鳴に瞬示は手すりから右手を離すと横にいる花子の左腕に絡める。花子も反射的に瞬示の手をつかむ。
真美は尻もちをついているが両手でしっかりと手すりを握っている。最後尾の一太郎は左手で手すりを握ったまま目の前にいる真美に近づこうと片足を少しあげる。そのとき一太郎の広い背中に水の塊がまともにぶつかる。
「わあっ!」
一太郎はあえなくバランスを崩して、前のめりになって頭から落ちていく。
その一太郎の身体と水の塊が、手すりをつかもうとする花子の身体にぶつかる。その衝撃で花子の左手首をつかんでいた瞬示の右手が振りほどかれてしまう。花子と一太郎は急流の大きな音の中でわずかな悲鳴を残して見えなる。
真美は水の流れに耐えきれずズルズルと前にいる瞬示に近づく。そして瞬示の背中で辛うじて止まる。
瞬示は手すりをつかむ左手を慎重に右手につかみかえて、両手で手すりを必死に握りしめる
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真美と向きあう。左手で真美を抱きかかえながら手すりの柱と柱の間に身体をはさみこんで真美を支える。そして手すりの間をくぐり抜けて真美を引っぱる。
「飛べ!」
瞬示と真美は階段の向かい側に突きでた岩に必死の思いでジャンプする。そして手をついて滝のような水流を呆然と眺める。
「ここも危険だ」
ふたりは這うようにして高いところへ登る。ゼイゼイと息をしながらやっとの思いで小高いカルデラのふちにたどり着く。
展望台からだけではなく、カルデラの低いところから大きな音をたてながら湖水があふれだしている。湖は嵐の海のように白波を立てて何本もの大きな滝がカルデラの端々から外へ流れ落ちている。摩周湖からあふれだした湖水のせいか、いつの間にか霧が消えている。
瞬示と真美は驚くことすら忘れて背中を丸めてまわりを見つめる。
「ハナコ」
真美が鼻声で弱々しくつぶやく。
「イチタロー」
瞬示がありったけの力を振り絞って叫ぶ。
ほぼ真下に見える駐車場を透明の湖水がなめるように流れている。売店はもちろんのこと、
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売店に突っこんだ花子の赤い車、瞬示が乗りつけた白いレンタカーも見あたらない。
真美の目から涙があふれる。そしてその場に座りこんで泣きじゃくる。瞬示も真美の横に座わると黙りこむ。いつの間にか水の流れ落ちる音が消えている。水に濡れたふたりの身体が急速に冷える。瞬示が寒さに耐えかねて無意識に真美を抱こうとしたとき、真美がすーと立ち上がる。
「寒い」
瞬示が真美の弱々しい声につられて立ち上がったとき、真美が大きな声をあげる。
「瞬ちゃん!」
足元の湖面が遠くまで続いている。しかし、真美が叫んだのは、湖水の表面が先ほどまでのあふれだす勢いなどなく鏡のようで波ひとつない状況に一変したからだ。
ふたりは変わりはてた湖面を見つめる。湖水は固まったように動かないどころか透明度は底まで見通せるガラスのようだ。
そのとき、ふたりの後ろでふしぎな気配がする。ついさっきまで駐車場がはっきりと見えていたのに今は霧で何も見えない。いつの間にか摩周湖の外側が霧だらけになっている。この付近を上空から見ると、満々と水をたたえた摩周湖が霧の海の中に浮かんでいるように見えるだろう。そして音が消滅した摩周湖のふちで、ふたりはただ立ちつくす。
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永久0011年11月11日
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瞬示も真美も同じ紺色のジーンズの上下。お揃いではなく単なる偶然。男と女なのに体型がよく似ている。身長もほぼ同じ一七〇センチ程度。心持ち瞬示の方が高い。
瞬示の体型は男にしては少しなで肩で、真美は女にしては肩が張っていてスレンダーで男っぽい。真美の髪の毛が極端なショートカットであれば、並んで歩くふたりの後ろ姿は女っぽい兄弟か、それとも男っぽい姉妹のように見えるだろう。顔立ちもよく似ている。ふたりの誕生日も生まれた時間もまったく同じだ。だから二十二歳の瞬示と真美が恋人同士ではないというのは、決しておかしくないのかもしれない。
確かにふたりはいつも手をつないで歩くが、それは恋人同士というより兄妹あるいは姉弟のそれに近い。一太郎がふたりを双子のように感じたのも無理はない。
真美は自分の声すら聞こえないのではと思って振り絞るように言葉を押し出す。
「スマホ」
瞬示の上着の胸ポケットからスマートフォンのストラップが無造作にたれている。瞬示がハッとしてストラップを引っぱる。入れっぱなしのはずの電源が切れている。画面をなぜるが反応はない。
「きのう、民宿で充電したのに」
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急に真美が思い出したように驚く。
「きのう?民宿?今日、朝会ったじゃない!」
瞬示が首を傾げる。
「なぜ、ここにいるの!」
真美が鋭い視線でにらむが、瞬示には何を言っているのかさっぱりわからない。無視して瞬示はスマートフォンの電源ボタンを押すが反応はない。今度は裏ぶたを開けて充電池を取り出す。少し眺めたあとセットし直して電源ボタンを押すがやはり何の反応もない。
「濡れたからか」
無視されて気分を害した真美はいかにも安っぽいスマートフォンを見つめる。
「そのスマホ、ただで手に入れたんじゃないの?」
「うっ」
「ズバリね」
瞬示はこんなときによくそんなことが言えるもんだと思いながらスマホを見つめる。
「あっ」
「どうしたの」
画面がボーと明るくなる。画面には時計だけが表示されている。
「十八時半!」
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真美も腕時計を見て驚く。
「とっくに陽が落ちているはずなのに」
摩周湖の上空は晴れていて太陽が思ったより高い位置で周囲より少しだけ明るくボーッと見える。まったく眩しさが感じられない弱々しい太陽だ。その太陽のふちに小さな緑色の輝きが現れる。時計方向にまわりだすと太陽のふちにはっきりとした美しい緑色のリングが現れる。ふたりはうっとりとそのリングを見つめるがすぐ消える。視線を足元に移した瞬示が驚きながら太陽に背を向ける。
「影がない!」
瞬示が真美の足元を確認する。真美は太陽と瞬示を交互に見ながら瞬示の影を探す。
「ほんと!」
不安になった真美が瞬示に身を寄せると腕を取るが、すぐ離れて大きな声をあげる。
「乾いている!」
真美が確かめるようにもう一度瞬示の上着の袖をさすってから自分の二の腕あたりをさする。先ほどまで寒さで震えていたのがうそのようだ。
「乾いてる」
瞬示も自分の服の胸元を確認する。
「いつの間に……」
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ふたりは身体のあちらこちらに濡れた感触がないか探り続ける。ずぶぬれになっていたのに完全に乾いている。寒い北国の秋なのに、ふたりのまわりは心地よい春のような温もりに満たされている。
真美が瞬示の袖を引っぱる。
「瞬ちゃん……」
瞬示はうながされるままに真美の視線の先を見つめる。
「黄色……」
いつの間にか無色透明だった湖が透きとおるような黄色に変わっている。
黄色い太陽と透明な黄色い水に満たされた摩周湖。表面は鏡のように反射して波ひとつない。摩周湖はふたりの息すら聞こえないほどの静寂さに包まれている。
時間が止まったかのような感覚を共有しながら、ふたりは展望台に向かってトボトボと歩きはじめる。展望台からは手を伸ばせば湖面に届くところまで黄色い水が満ちている。
瞬示はあの滝のような流れで残っているはずがないと思いながら石を探す。しかし、瞬示はすぐにゴルフボール大の石と野球ボール大の石を見つけてひとつずつ拾う。まず、小さい方の石を数メートル先の湖面に軽く投げる。石は波紋をつくることなく、しかも音も残さず沈んでいく。石が沈むにしてはひどくゆっくりとしたスピードだ。
「水じゃない!」
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真美も黙ったまま食い入るように石の行方を追う。
今度は大きい方の石を湖の反対側、つまり霧の空間に向けて投げる。何かに当たる音を期待したが何も聞こえない。何も見えない分、気味が悪い。
ふたりにはのどの渇きも空腹感もない。疲れもなく、いつでも全力で走るだけのエネルギーがみなぎっているかのような感覚を持つ。
「お腹、すいてないか?」
瞬示が自分の感覚を真美に確認する。
「え?ええ」
「のどは?」
「乾いていない!」
瞬示の感覚と真美の感覚がふしぎなほど一致する。
「歩けるか?」
「うん」
「摩周岳に登ってみよう」
「どうして?」
瞬示が歩きはじめる。
「高いところの方が何かわかるかもしれない」
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真美は返事せずについていく。
時間は確実に進んでいるはずなのに風景は何ひとつ変わらない。摩周湖の周辺は相変わらず霧だらけでふしぎなことに霧はまったく動かない。黄色い湖面も動かない。風を感じることはないし、岩を踏みしめる音どころか何も聞こえない。
あえて音といえばふたりの会話ぐらい。その会話も途絶えたまま。坂道なのに息切れしないし、心臓も普段と変わらないリズムで動いている。夢ではないのに夢の中にいるような感覚に支配される。
「あれ」
真美が摩周湖の真ん中付近を指差す。
「真ん中が少し膨らんでいる」
瞬示も摩周湖の異変に気が付く。真美が瞬示に言葉を催促する。
「薄い凸レンズみたいな感じがしない?」
「うん」
ふたりは湖面からは優に五十メートル以上高いところにいるのに、湖の中央部付近とほぼ同じぐらいの高さにいる。円形ではないはずの摩周湖なのに中央部のふくらみが段々と丸みを帯びながら高くなる。
「もう少し登ってみよう」
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瞬示が駆けだすと真美もつられて駆けだす。ふたりはどんどん摩周岳に向かって登っていく。時々湖の中央部あたりを確認しながらさらに速度を上げる。
「間違いなく膨らんでいる」
ふたりが登るスピードより明らかに湖のふくらみの成長の方が早い。湖の水位に変化はないのに、ふくらみの頂点がふたりの目線よりも高くなる。黄色味を帯びた透明な水、果たして水なのか?
「きゃあ!」
急に真美の身体が宙に浮かぶと慌てて瞬示が手を伸ばす。
「つかまれ!」
しかし、瞬示も真美に引っぱられるように宙に浮く。何とか真美が先に瞬示の手をつかむ。今、この手を離せばふたりは二度とめぐり会うことができない別々の世界へ放りだされるような恐怖感を共有する。手をつないだままふたりの身体が空中に浮かんでいるが、徐々に湖の中央部のふくらみに吸い寄せられていく。
たまらず真美は瞬示にしがみつく。瞬示も真美にしがみつく。今や、ふくらみは成熟した女の胸のような形になる。ふたりはどんどん吸い寄せられてふくらみの中腹あたりへと向かう。
「アアー」
ついにふくらみの中へふたりが吸いこまれる。飛沫はもちろん波紋も音もなく、ふたりは抱
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き合ったまま湖の底へと落ちていく。
やがて衣服が溶けるように消えて、ふたりの身体は透きとおったピンクに変わる。落下の速度はゆっくりだが確実に湖の底を目指して落ちていく。
ふたりはもがくこともなく、どちらかというと気持ちよさそうに落ちていく。お互いの身体がひとつになって落ちていく。身体の色がピンクから湖の薄い黄色に同化して見えなくなる。
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