「先人達の数々の苦労があったから今の選挙制度ができたのじゃ」
立派な服の大家に質素な服の大家が大きく頷く。
「普通選挙制度……。この意味、分かるか?」
質素な服の大家が田中に尋ねる。
「成人になれば男女問わず選挙権があるということですね」
立派な服の大家が引き継ぐ。
「この制度を獲得するために流れた血は想像できないぐらい多いのじゃ。だいぶん前に『大河ドラマ』で男にだけだが選挙権を認めさせようとして暗殺された明治時代の指導者の物語を見たとき思わず涙が出た」
「それなのに今の国民は投票所に行く人が少ない」
「それは投票したい人がいないからじゃ」
「一票の格差が大きいからかなあ」
「普通選挙制度ができたときより、今はひどい状態になっておる。先人の苦労を思い出せば定数是正をして一票の格差をなくさなければならん。ところで『大河ドラマ』を見たことがあるか」
[154]
質素な服の大家が話題を変える。
「大河ドラマって毎週日曜日の夜に放送しているJHK(準国営放送会社)のドラマのことですか」
「そうじゃ」
立派な服の大家が不思議そうに田中を見つめる。
「田中さんは見ていないのか」
「ときどきチャンネルを変え忘れたときに見る程度です」
「視聴率の高い豪華歴史番組だぞ」
「歴史?歴史ドラマなんですか。僕はてっきり戦争ドラマだと思っていました」
この田中の言葉に両大家がハッとする。
「そういう感想を聞いたのは初めてじゃ」
「たまたまかも知れませんが、戦争の場面が多いので……あまり見たことがありません」
「なるほど。確かにそのとおりだ。様々な人間模様を織り込んではいるが、戦争映画と言われればそのとおりじゃ」
「いつも庶民が犠牲になるだけで戦争を指揮する大将やそのまわりの人々の喜怒哀楽を見せられてもあまり感動しません」
「しかし、見応えあるぞ」
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田中が首を傾げる。
「そうでしょうか。仮に歴史ドラマだとしても本当に史実を忠実に再現しているのでしょうか。ましてやその時代の底辺で暮らす庶民のことを」
「うーん」
両大家が唸る。
「そんなに深刻にならないでください。たかがドラマなんでしょ」
それでも両大家は腕組みをして目を閉じてしゃべらない。
「僕はその前の『生き物、万歳!』という番組が大好きです」
「知っているぞ」
質素な服の大家が沈黙を破る。
「あれはいい番組じゃ」
立派な服の大家と質素な服の大家が顔を見合わす。
「動物や植物が子孫を残すために必死に生きている映像には感動するぞ」
質素な服の大家に田中の気持ちが高ぶる。
「天敵に立ち向かう親、我が身を犠牲にしても子を守ろうとする親。子を励まして餌のあるところへ必死になって誘導する親。集団で仲間の被害を最小限にしようと知恵を絞る動物。どのようにしてあんな映像が撮影できたのかといつも感動します。その番組のあとチャンネルを変
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えるのを忘れてときどき大河ドラマのさわりを見ることがあります」
「確かに理屈抜きで動物は自分の子を守る。しかし、人間は果たして……」
「動物の戦いには道理があります。もちろん仲間同士で戦うこともあるでしょうが、そこには種を守らなければならないという絶対的な義務があると思います。でも人間はどうでしょうか。『大義、大義』と格好つけて人間同士で戦います」
再び両大家が黙る。
「動物の戦う相手は基本的には他の動物、特に天敵です。戦うだけではなく戦いを避けて逃げたり隠れたりします。しかし、人間の天敵はあろう事か人間だ。そこには他の生物のように『子孫を残すため』という大義は見えません」
両大家が大きく頷く。
「時代が現代に近づくにつれ、戦争は規模が大きくなって凄惨じゃ」
やっと立派な服の大家が口を開くが、田中がとどめを刺す。
「JHKはなぜ原爆が落とされた先の大戦末期を描いた大河ドラマを制作しないんだろう」
両大家が交互にため息をつく。
「大河ドラマと名乗る限り絶対避けられないテーマじゃ」
「準国営放送会社のJHKにはできんだろうな」
「なぜ!」
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「政府が横槍を入れる可能性が高い」
「なぜ!報道の自由があるはずです。それに被曝した日本人しか作れないはずのテーマじゃないですか!」
「報道の自由と言うより、言論の自由だな」
質素な服の大家がとりあえず田中の前半の意見に異議を入れると立派な服の大家が後半の意見に応じる。
「目を背けるシーンに視聴者は耐えられんのじゃ」
「見るに堪えない残酷なドラマやアニメがいくらでもあるのに」
「それは仮想の世界だからじゃ」
「でも、そんな番組の影響で残酷な殺人事件が多発していると……えーとこのテレビの……逆田さんが元警部をゲストに迎えて問題提起していた」
「わしも覚えておる。あれは確か『17 未成年者殺人事件』に詳しく載っているぞ」
「バーチャルな世界だという理由で残酷なアニメが許されるのなら、原爆投下時の大河ドラマを制作放映すれば視聴者は真剣に見るかも」
「なるほど。田中さんの言うとおりかも知れん」
「それに原爆を投下したアメリカ自身が『広島』をテーマにした原爆の映画を作りました」
「それは知らなかった」
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両大家が肩を落とす。
*
「その原爆投下で敗戦を迎えたあと、戦争中、不遇な境遇にいた政治家や若い官僚は必死にボロボロになった日本を立て直そうと頑張りました」
テレビには逆田が現れて山本と共に映像を駆使して戦後の日本の姿を解説する。
「そして戦後一〇数年経つと『もはや戦後ではない』と政策を方向転換しました。驚異的な成長を続ける日本経済に誇りを持つことを否定するつもりはありません。でも、その自信に、つまり『誇り』が『奢り』に変化したことに気付かずにやがて政治家や官僚は利権を取りこむことに奔走し始めました。そこで国民はそんな政府と決別して自分たちで今後何をすべきか考えました。その結果、無謀な戦争を仕掛けた旧政府に対して抱いた同じ感情を持つようになった。つまり、時代が変わろうと政治家や官僚が変わろうとも信用できない存在だと考えたのです」
田中が先回りして自分の考えを吐露する。
「流血の犠牲の上に獲得した選挙制度なのに、なぜ棄権するのかよく分かった」
その田中を見て両大家はもちろんテレビの中の逆田や山本が驚く。田中はその反応に忠実に応える。
「ある大臣、首相も経験した大臣が民主主義の極みとまでいわれたワイマール憲法をいつの間にかナチス憲法に変えたその過程を勉強して日本の憲法を改正したらいいのでは、と言ってましたね」
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田中が解説者のお株を奪う。
「まあ、そんな薄ぺらい人格の政治家だから偶然首相になっただけ。だから一年も保たなかった」
逆田が解説者の立場を田中から取り返す。
「その政治家を弁護するつもりはありません。でも戦後苦労して勝ち取った民主的な選挙制度をもっと公平な制度に変えて選挙権のない子供が見ても『なるほど』と納得できる制度に昇華させなければなりません」
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