第七話 脅しに近い税務調査


 資産家が多く住む街に特殊な設備工事を得意とする小さな会社がある。売上は一億円前後だ。社長と奥さんと長男の三人で頑張っている。生活に困らない程度の給料を確保しているがここ数年間は赤字経営が続いているので税務調査が入るほどの会社ではない。


 税務署の人員配置は歪だ。この会社を管轄する税務署管内には多数の会社が存在するがほとんどが小粒だ。所得税や資産税担当の調査官は他署に比べれば多いが、法人税の調査官もそれなりにいる。通常であれば売上一億円程度の会社など相手にしない。だがこの会社の管轄税務署では調査対象とすべき会社の規模を引き下げて個人事業と変わらない会社でも調査する。


 だからか、この会社に調査が入った。社長自身は経理に明るくごまかしを嫌う性格だ。安心して調査に立ち会った。一通りの挨拶が終わった後、なぜ調査対象になったのか尋ねた。


「大きな会社が少ないので小さくても調査対象にせざるを得ないのです。それに前回の調査からかなり間隔が開いているので」


 私は場を和ませるため元税務職員だったことを明かした後、ある持論を披露する。

 

「○○署の管轄は低所得者が多く資産家が少ないですが、そこでは遺産が二億円程度であれば必ず相続税の調査が入ります。ところがこちらの税務署では遺産が五億円でも調査が入らないことがあります。それと一緒ですね」


「そうですね」


「だから、先ほどのプチ資産家には本物の資産家がたくさん住んでいるところに引っ越しするよう勧めています。これは脱税対策ではないですよね。でも毎日の生活が息苦しくなるかも知れません」

 

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「面白い発想ですね。失礼な言い方ですが、この会社の規模では大会社が多い管轄の税務署の所在地に本店を移動させればまず調査を受けることはないでしょう」


***


 問題なく調査は最終局面を迎える。三時を回る。調査は一日で終了する雰囲気になる。奥さんにお茶の用意をお願いしようかと思ったとき、調査官が領収書綴りから付箋を貼り付けていた書類をこちらに向けながら質問する。


「この会社は得意先ですね」


 社長が横からのぞき込む。


「そうです」


「この支払の元になった請求書を見せてもらえますか」


「しばらくお待ちください」


 この支払先は大得意先でもある大手自動車会社だった。だがこの会社の特殊な部品を使わなければ設備工事ができないので、それらの部品を仕入れていた。しばらくすると社長が該当の請求書綴りを調査官に手渡す。仕入れ先が少ないので量は知れている。すぐに調査官は目的の請求書を探し出す。

 

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「このスーツというのは何ですか」


 調査官が示した請求書の明細書に「スーツ」という項目がある。


「自動車会社からスーツを買ったんですか?」


 調査官は驚くがリーマンショック以降、上場会社(もちろん子会社や関連会社の場合が多いが)でもなりふり構わず売れるものなら何でも売るという風潮が蔓延していた。だから私はあまり驚かなかった。しかし、いくら何でも自動車会社に「スーツ」はないだろうと思った。


「作業服では?」


 しかし、社長は正直に応える。


「安物の背広です」


「確かに三万円なら安いですね。一応この会社からの請求書を三年分見たいのですが」


***


 調査官が請求書綴りを丹念に調べるが、スーツ以外には二年前に「米」を購入していただけだった。価額は一万円。スーツと合わせて四万円だ。


「米とスーツ以外のものは何ですか」


 両者以外のものはすべて型番表示となっているため素人では何を意味するのか分からない。


「申し上げたように特殊な部品です」


「その部品はここにありますか」

 

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「ありません。その都度工事で使用します」


「どのような部品ですか?」


 社長が請求書の明細書を指し示して説明する。


「たとえばこのZXという型番の部品は装置が回転する方向とは逆に締め付けるための特殊なネジです。市販されていません」


「なぜそんな部品と米やスーツが同じ請求書に記載されているのですか」


「それはこちらではよく分かりません。部品を仕入れするときに頼まれて購入したので同じ請求書になっているんですかね?」


「しかし、自動車メーカーが米やスーツを売っているなんて解せませんね」


「結構色々なものを売ってますよ。コンピュータや文房具や時計や……」


「断らないのですか」


「工事の受注ができなくなるかも知れないので断るのは……それでも私どもは少ない方です。


何十万円も購入する会社もあります」


「いずれにしても仕入ではなく交際費ですね」


 このころ交際費の一〇パーセントは損金に算入できない規定があった。つまりスーツを米合わせて四万円だから二年で四千円が損金否認される。しかし、繰越損失が約三百万円あるから追徴される税額は生じない。繰越損失が四千円減るだけのことだ。今後気をつけるようにという程度の話だ。

 

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 ここで私はあるニュースを思い出した。上場会社が取引の優越的地位を利用して中小企業に物品の購入を迫るので、公正取引委員会が実態調査に乗り出したという内容だった。持参していたノートパソコンでそのニュースを検索する。


「これですね」


 社長が頷くとそのノートパソコンを調査官に向ける。


「なるほどね。でも型番から部品だとは断定できないし、三年間で約二百万円も購入しているから、部品以外の物が混入していませんか?」


「説明したとおり普通の設備工事なら特殊な部品はあまり要りません。でも絶対に必要なので少ししか仕入れない会社は無理して物品を購入するのでしょうが、私どもはかなりの種類の部品を仕入ますから、あまり強く物品購入を求められません。でもなしというわけにはいきませんから、付き合い程度には……」


「いずれにしても反面調査(ここでは購入先の自動車会社を調査すること)してこの請求書の内容を確認します」


 急に反面調査と言う調査官に私は待ったをかける。


「ちょっと待ってください。この会社から仕入として計上した金額は三年で二百万円でしょ。全額仕入じゃないとしてもその一〇パーセントの二〇万円じゃないですか。しかもその可能性は極めて低いし社長の説明も筋が通っている」

 

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「事実確認は必要です」


 急に社長が怒り出す。


「私の会社を潰すつもりですか!」


「?」


「あんなニュースが流れているなかで相手側の会社を調査されたら公正取引委員会に漏らしたのは私だと疑われかねない!二度と取引できなくなります。全額交際費で構いません。反面調査はやめてください」


「そうなるとは限りません。調査は必要です」


 私は興奮した社長の腕を掴んで別室に連れ込む。数分会話を交わすと社長がポツンと漏らす。


「先生にお任せします」


 調査官の前に戻ると強い口調で反論する。


「今日の調査はあくまでも任意調査ですね」


「もちろん、そうです」


「調査官に調査の裁量権があるのは分かりますが、上司の統括官に報告もしないで反面調査をするというのはいささか強権的ではありませんか?」


「交際費に該当するものを仕入処理しているというのは大問題です」

 

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「調査に来て『はい、そうですね』と署に帰るわけにはいかない立場は分かりますが、指摘された間違いは少額です」


「額の問題ではありません。不正は不正です」


「税務署の仕事には四本の柱があります。『調査』以外に『広報広聴』、『相談』、そして『指導』の四つ。今後はキチンと仕入と交際費を分けるようにという『指導』に留めていただけませんか」


 調査官は黙り込む。


「例えば青信号が黄色に変わったのに交差点に進入する。これを交通違反だと警察官は言わないでしょう。以後気をつけるようにと指導するでしょう」


「先生がおっしゃるのは信号無視の場合ですし警察と税務署ではまったく職務が異なります」


「信号じゃなく金額だとしましょう。今回は四千円の誤りでした。全額否認だと言われても二〇万円です。繰越損失は三百万円ほどあります。これ以外に誤りがないとすれば、繰越損失が二十万円減るだけです。その後会社は取引先を失い倒産するかもしれない。任意調査の受忍義務を超えています。まるで脅しじゃないですか」


 調査官の勢いが萎む。


「今から一緒に署へ行きましょう。そしてあなたの上司に見解を伺います」


このセリフは調査官が一番嫌う。なぜなら調査現場できちんと処理するのが一人前の調査官だから上司を巻き込むのは勤務評価を下げることになる。

 

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「時間がありませんので今日の調査はこれで終わります」


「続きは?」


「追って連絡します」


 調査官が逃げるように帰る。


***


 翌日調査官の上司である統括官から電話が入る。


「先生にはご迷惑をかけました。反面調査はしません。四千円と金額は知れていますが修正申告書を提出していただけないでしょうか?」


「統括官の立場も分かりますが、修正申告はしません。時間の無駄ですし、この程度の修正申告書を作成しても報酬はいただけません。更正処分していただいて結構です」


 ため息の後、統括官がもう一度繰り返すが、諦めたように電話を切る。電話の内容を社長に報告するとお礼の言葉をいただく。


 それから一ヶ月したころ、社長からファックスが送られてくる。そしてすぐさま電話がかかってくる。


「ファックスを受け取りました。是認通知ですね」


「不問と言うことですか」

 

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「そうです。よかったですね」


「と言いますと」


「是認通知が送られてきたと言うことは、しばらく調査に来ないと言うことです」


「ありがとうございました」

 

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