第二話 節税に協力してくれる税務署


 バブルは繰り返されると言うが、平成初期のバブルがはじけると日本経済は少なくとも二〇年以上停滞した。いわゆる「失われた二〇年」だ。最も印象的なのが初任給だ。約二五年間つまり四半世紀の間にわずか数パーセントしか上がっていない。ところがあのバブル期を上回る地価を付けた土地が都心に次々と出てきた。ふたつとして同じ土地はないから自動車や家電製品のように明確な価格はない。つまり土地には美人コンテストのような側面がある。つまり個性が強い。


 さて国は毎年三月中旬過ぎに公示価格なるものを発表する。実際の売買価格は公示価格で決まるものではない。メーカー希望価格に似ている。人気商品は希望価格より高く売ることができ、逆に人気がない商品は買いたたかれる。


 土地も同じだ。公示価格の何倍もの値段で取引されることはよくあることだ。まるで美人に群がるかのように。さてこのようなとき、ある異変が起こる。国税庁は公示価格を基に毎年「路線価」(道路に面している土地の平米当たりの単価をその道路【路線】に付けている)を発表している。土地を相続したり贈与を受けたりするとその土地の評価額を算定しなければならないが、神様でない限りその土地の時価など算定できるわけがない。だから申告の便宜を考えて路線価なるものを毎年発表しているのだ。その価格の賞味期限はその年の年末。


 さて土地の売買が活発になると年末にこの路線価の数倍で売買されることもある。つまり実勢時価が路線価の四,五倍になることもある。元々路線価は公示価格の八十パーセントを目途に定められる。

 

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評価の安全性を二十パーセントに託しているのだ。そうすると奇妙なことが起こる。


 たとえば坪あたりの時価が一〇〇という超人気の土地があるとする。時価上昇が激しいため路線価は二五だとする。このような土地を贈与すれば贈与税が九〇パーセントも安くなる場合がある。


 この場合税務署は贈与税の申告書に何ら異論を挟むことはない。いや、できない。しかし、問題がある。節税できると言っても、絶対額でかなりの贈与税を納付しなければならない。つまり納税資金の問題がある。贈与を受けてすぐさま数倍の価格で売却してその代金で納税すれば良さそうなものだが、このとき税務署が恐ろしいクレームを付けてくる。さてそのクレームとは?


 租税回避のために不当に税金を安くする方法をとると、それらの一連の行為を税務署長は否認することができる。贈与前の所有者が高額で土地を処分してその代金を受贈者に贈与したと見なすのだ。二五ではなく一〇〇に対して贈与税を課税する。これが税務署のやり方だ。だからこんな節税策は常識ある税理士なら絶対に勧めない。


 私もこんな非常識な節税方法を提案することはない。しかし、結果として手を染めたことがある。もちろん税務署に相談した上でのことだったが、問題にはならなかった。


***

 

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 私の顧問先に上場会社の創業社長がいた。もちろんお付き合いが始まったときは引退されていた。驚くほどの資産を持っている割には余り相続税対策に興味を持っていなかった。むしろ興味を持っていたのは相続人予定者である子供たちだった。


「このまま地価が上がれば大変なことになる」


 相続財産の大半が上場会社の株式だがそれなりの不動産も持っている。つまり有り余る上場株式を売って不動産を購入していた。本人だけでなく配偶者も相当の資産家でいわゆる一等地と呼ばれる土地を所有していた。ある年末に配偶者から相談を受けた。もちろんそそのかしたのは子供たちだ。銀行や証券会社が著名な税理士を招いて相続税対策の講演会を開催することが多いが、子供たちはその講演会で節税策を仕入れてきた。


「土地の値上がりがすごいらしいですね」


「そうですね」


「息子たちが言うには実勢時価に比べて路線価がかなり安いと」


 何を言いたいのか分かるし、ろくに実務をせずに有名になりたいが故に派手な節税対策をぶち上げる税理士の考えも手に取るように分かる。しかし、言われるままに実行すると思わぬ落とし穴にはまることがある。だから母親は私に確かめようとした。


「路線価が時価の上昇に追従できないうちに子供夫婦や孫たちに贈与して時価が高いうちに売却させるとかなりのお金が子供たちに移動できるのでしょうか?」

 

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 私はいつも堅いことばかり言っているので、否定されると思ったのか、あるいはそんなうまい話などないと思ったのか口調がていねいだ。


「理屈ではそうなりますね」


 母親の表情がほころびる。


「お持ちの土地ならまだまだ値上がりするでしょうし、買い手もすぐ付くでしょう」


「じゃあ、早速贈与したいのですが。司法書士さんに聞けば登記手続きに一週間かかるので実行されるのなら、すぐ決断してくださいと言われたようで子供たちが急かすんですよ」


「そのとおりです」


 母親はスマホを取り出すと息子に電話を入れようとする。


「ちょっと待ってください」


 ブレーキをかける。


「すでに売却先が決まっていると言うことはありませんよね」


「息子たちが仲介業者に依頼しています。先生のおっしゃるとおりすぐに買い手は見つかるとのことです」


「やはり。贈与するのはいいですが、その後が問題ですね」


「何が問題なのですか」


「息子さんたちに来るように告げてください」

 

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「分かりました」


***


「年の瀬のお忙しいときに時間を取っていただきましてありがとうございます」


 長男が現れる。


「単刀直入にお伺いしますが、仲介業者と仲介契約を結びましたか?」


「銀行が紹介してくれた仲介業者と専任媒介契約書を結びました」


「それはどのような仲介業者ですか。銀行の関連会社では?」


「そうです。銀行員の退職後の受け皿会社です」


 要は銀行主催の講演を聴いた長男をそそのかしたのだ。


「この相続税対策のスキームを講演した税理士や銀行や仲介業者は責任を持つと言っていましたか?」


「そこまでは」


「だったらこう言ってませんでしたか?顧問税理士がいるなら相談するようにと」


「そういえば……」


「お母さんが私に尋ねられたのは賢明でした」


「このスキームのどこが問題なのですか」


「贈与を受ける時すでに売却を考えている点に問題があります」

 

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「?」


「一言で言えば不動産の贈与なのか、売却代金の贈与なのかということです」


 すぐ得心がいかない母親や長男に例を挙げて説明する。


 時価二億円の土地が収用されることになった。収用というのは私有地を買い上げて公共のために、例えば高速道路を造るためにその用地を買収することを言う。そのために少し高い目の価格で買収することが多い。仮にその土地の収用価格が三億円だとする。そして相続や贈与の際の路線価で評価すると一億円だとする。これを知った土地の所有者が収用前に子供と孫併せて一〇人に贈与する。


 ひとり当たりの受贈額は一千万円で贈与税額は約二〇〇万円だから贈与税の総額は約二千万円となる。


 収用する方は登記上の所有者に収用代金(総額三億円)を支払うので受贈した子供や孫は三千万円ずつ受け取る。この受け取った三千万円が仮にすべて利益だとしても収用の特例で利益が五千万円以内なら税金はかからない。子供や孫は二〇〇万円の負担で三千万円のお金を手にすることができる。ところがそうは行かない。


 土地の路線価で計算した一億円ではなく収用額の三億円をベースに贈与税を課税する。なぜか?


 贈与というのは「ただであげます」「もらいます」という契約だ。この例では「あげる」側は三億円贈与する意思があり、もらう方も同じ額だと思っている。

 

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収用がなければあげる側は二億円と思っていても評価額が一億円なら税務署は一億円での申告を認める。この辺意外と税務署は優しい。路線価を基礎として課税価格を決めているという建前があるからだ。


 しかし、事前に収用されることを知りながら贈与する場合は三億円が贈与価額になる。だからひとり当たり三千万円もらったことになる。累進税率が適用されるので一千万の贈与税の三倍では済まない。その税額は五倍の約一〇〇〇万円になる。もちろん収用だから譲渡所得はかからない。しかし、手取金額は二八〇〇万円から二〇〇〇万円に激減する。


「仲介業者はいくらで売れると言っていますか」


「最低路線価の四倍で売れると言っています」


「実際四倍で売れたとしましょう。贈与を受けてすぐにその価格で売ると、その売却価格が贈与税の対象金額になります」


 収用の説明が功を奏したのか反論はなかった。結局贈与は実行されたが、売却は思いとどまった。彼らはいったん仲介業者との媒介契約を解除して冷却期間をおくことにした。


***


「親子間の売買なのですが、路線価の一・二五倍で売買することは可能ですか」


 私は税務署の資産税を担当する統括国税調査官に相談する。


「一応路線価は公示価格の八〇パーセントを目途に定められているから、先生のおっしゃる理屈も分からないではありませんが、ご相談の土地はこの一年足らずですごい勢いで値上がりしているようです。贈与税は路線価で計算していただいて構いませんが売買となるとあくまでも時価です」

 

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「第三者に売るのならその売値が売買価格そのものですが、親子間の売買なのでその価格をいくらにすればよく分からないのです。それに今回の売買は親から子ではなく、子から親なのです」


「親から子にできるだけ安く売るという話はよくありますが、子から親というのは珍しいですね」


「そうです。親から子ならできるだけ安く売りたいという心境が働くのは当然なので税務署としても安売りを『けしからん』というのは十分理解できます」


「先生も元税務署員でしたから分かりますでしょ?」


「やはり、そうですか」


「親から子へも、子から親へも同じで、税法は区別していません」


 統括調査官の正論に頷く。


「時価が安定していれば路線価で計算した価格の一・二五すれば公示価格、つまり時価と言えますが、今回の場合は無理でしょうね。値上がりがひどすぎます。バブルの再来ですね」


「我々貧乏人から見れば異常ですね。よく分かりました。不動産鑑定士にお願いして時価を算定してもらうことにします」

 

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「それが賢明ですね。できれば複数の鑑定士にお願いした方がいいかもしれません。ところでいったん贈与したものをなぜ買い戻すことになったのですか」


「ご説明したようにこの不動産は母親が持っていました。子供たちがある銀行の相続税対策の講演会で講師の税理士に入れ知恵されて自分たちや孫たちに贈与させたのです。そしてすぐ売却しようとしたとき、お父さんに気付かれ……」


 統括調査官が黙って話に聞き入る。


「『共有はダメだ。後でもめるだけだ』と叱責されました。その後その土地を売ると知って激怒したのです。絵画に趣味があった父親にとって思い入れのある土地で将来は美術館を建設しようと思っていたので『勝手なことをするな!買い戻す』と言うことになったのです」


「全員の印鑑がなければ売却できないからよく土地を共有にする場合がありますが、後でもめ事を起こす原因になることも多いですね。でも色々な相談があるのですね」


「よく分かりました。親が子に売る場合は安くてはダメだということは分かっているのですが、その逆もダメだと言うこともよく分かりました。相談してよかった。ありがとうございました」


 頭を下げて税務署を後にする。


***


 年が明けたが、不動産鑑定士に鑑定を依頼しなかった。相変わらず時価は上昇している。そして税理士にとって一年で一番忙しい季節がやって来る。

 

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確定申告期だ。資料を持って来たあの父親が尋ねる。


「先生。鑑定評価の件は?」


 当然このファミリーの確定申告はすべて私が行っている。


「実は二つの理由があって子供や孫たちからの買い取りを遅らせることにしました」


「しかし、いつ何が起こるか分からない。万が一のことがあればあの土地は共有のままだ。早く買い取りたい」


 上場会社の創業社長であった父親は百億円程度のお金は簡単に動かすことができる。受け取った資料を整理しながら答える。


「あの土地がどこまで上がるのかを見極めています」


「別に高くなっても構わんが、早く共有関係を解消させたい」


「土地の売買で得た利益に課税される税率は分離課税と言って国税、地方税を足しても約二〇パーセントの一定税率です。相続税や贈与税は累進課税と言って最高税率は五五パーセントにもなります。


「それならできるだけ高く買ってやりたいな」


「そうでしょ。だからどれだけ上がるか楽しみに待っているのです。それに預金を減らして土地にすると評価額は安くなります。相続税の節税効果は強力です」

 

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「そうですか。先生はいつもよく考えていらっしゃる。ありがたいことだ。ところでもう一つの理由は?」


「できるだけ贈与した年から間を置いて売買したいのです」


「どういうことですか」


 息子たちに説明した話を交えながらていねいに説明する。


「そうか。極端な話、贈与を受けてすぐ売ると、その売却価格が時価だと、安い路線価で贈与したことが認められないことになるのか」


「必ずそうなるとは限らないのですが、リスクは避けるべきです。あの土地が値下がりし始めたら別ですが、今は待ちです」


「さすが読みが深い。つまらない質問をして貴重な時間を取らせてしまった。すべて先生にお任せします」


 資料の確認が済むと告げる。


「申告書を作成する途中で足らない資料の手配をお願いすることもあります。そのときは申し訳ありませんが……」


「いつでも言ってください。持ってきます」


 席を立って深々と頭を下げる父親をエレベーターホールまで送ろうとすると私を制する。


「見送りは結構。それより息子たちにはつまらぬ入れ知恵を聞くより、何でも先生に相談するように申し伝えます」

 

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 結局エレベータホールまで同行した。


「決して悪いようなことはしません。何でも相談してください。寒い中ありがとうございました」


***


 確定申告期が過ぎたころその年の一月一日現在の公示価格が発表された。建前上時価だと言われる公示価格は全面的に上昇していた。贈与の対象となった土地の単価は平均上昇率をかなり上回っていた。ちなみにこの公示価格を基礎にその年の路線価が決定される。


 そして桜の花も散ったころ固定資産税の納付通知書が送られてくる。贈与を受けた子供の一人から問い合わせがあった。


「今年の固定資産税が去年に比べて倍近くなっているのですが」


「それは去年土地の贈与を受けたからです。しかも更地なので高い。家を建てれば安くなるのですが」


「早く親父に買ってもらわないと」


「まあ焦らないでください。まだまだ土地の値段は上がるでしょう。何しろあの土地は一等地にあります」


「銀行員の話によると近隣の土地が坪●●円で売れたようです」

 

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「口の軽い銀行員ですね。上手に取り入って情報を収集してください」


「分かりました」


 そして七月の初め国税庁から路線価が発表された。案の定例の土地の路線価は急上昇していた。更に残暑が収まりかけたころに七月一日現在の基準地価格が発表された。基準地価格というのは、平たく言えば年一回しか発表されない公示価格を補完するもので地方自治体が発表するものだ。くだんの土地の価格は上昇し続けている。上昇率は公示価格の上昇率を上回っていた。

 

 年が明けて再び確定申告の季節が訪れた。そして昨年の所得を計算し提出した確定申告書の控えを携えて父親の家を訪ねた。もちろん息子たちも集まっていた。


***


「さて例の土地の件ですが」


 この言葉を待っていたように長女が湯飲みをテーブルに置くと全員の視線が私に集中する。


「元税務署員で税理士と不動産鑑定士の資格を持つ後輩によれば上昇基調は変わりませんが、その率は鈍化しているようです」


 もちろんこのような予想は新聞にも書かれている。


「そろそろ鑑定評価を依頼して売却すべき時期かも知れません。贈与を受けてから足かけ三年になります。キチンとした鑑定評価額で売却しても税務署からクレームはないでしょう」

 

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「お任せします」


 まず父親が切り出す。すると息子たちが頷く。


「売買価格は総額で数十億円になります」


 父親にとってすぐ用意できる金額だ。用意したペーパーを配布する。


「すごいですね」


「それに現金が減って財産の一部が土地に代わります。その土地は路線価で評価しますし、法人を設立してビルを建てさせるか、お父様自身がビルを建てて貸すかは追々考えるとして、評価減を狙うこともできます」


「でも時価が上昇し続ければ――」


 ここで父親が制する。


「確かに時価が上がると相続税の負担が重くなる。それは財産価値が増えるから当然だ。しかし、本当の意味でその不動産の価値が上がるのは有効利用することだ」


 私に成り代わって父親が息子たちを諭す。


「昔上場するまでは会社に金を残そうと頑張っていたが留保金課税という制度があって法人税率(地方税を含む)は最高で約七十パーセントだったし、所得税率(地方税を含む)は約九十パーセントだった。それを思えば土地の売買で二〇パーセント(地方税を含む)で済むなんて夢みたいな話だ」

 

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 さすが身ひとつで上場までこぎ着けた創業社長だ。もちろん今は退職して弟が、そしてその息子が社長になっている。自らの息子たちを後継者にはしなかった。それは企業の経営がいかに大変かを知り尽くしているからだ。はばかって意見することがなかった私の気持ちをストレートに述べてくれた父親に感謝した。


「そうでしたね。確か松下幸之助が『税金が高いと言うが、それでも一〇パーセントも残る。ありがたいことだ』と言っていました。百億円儲けても十億円残るからです」「まあ、そんなところだ。しかし、できるだけ財産は残したい。ただ違法なことはしない方がいい。知恵で儲ける。知恵で節税する。それを忘れないように」


 息子たちより私の方がいい勉強になった。


***


 無理のない範囲で高い目の鑑定評価をしてもらう。強気の評価をする三人の不動産鑑定士が出した評価額の平均値で売買を実行する。一人では恣意性があるからだ。そして翌年息子たちやその孫たちの申告書を作成して税務署に提出する。


 父親から今回の申告に付いては別途報酬を請求してくれと言われたが、丁重に断った。それは多額の顧問料をいただいているからだ。そしてこの申告に対する税務調査はなかった。低いのは問題だが高く申告すれば税務署も動きにくい。結果として税務署は私が考えた節税スキームを助けてくれたのだ。とは言え、スッキリしなかった。

 

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それは今の税制が金持ちを優遇しているように見えるからだ。
 さて、この第二話は税務調査に至らなくなった話になってしまった。

 

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