第八話 ピンチヒッター


 相続税調査については第一話で述べたが、もっと話せというリクエストが多い。しかし、残念ながらあまり相続税の調査を受けることがないのでネタが少ない。そもそも相続税の申告を扱うのは多い年で四件まで。これは後に述べるが私の限界である。扱う案件は顧問先やその親戚の相続で、その知人の相続もやむを得ず引き受ける場合もあるが、大概後輩の税理士に振る。


もちろん自分がなぜ引き受けないのかの理由は伝える。


「資産税に強い税理士」とか「相続税の専門家」などと喧伝する税理士や税理士法人をよく見かけるが、節操もなくどんな相続税案件でも引き受けるようだ。ある程度の相続税申告書作成料が見込めるが相続人との信頼関係を構築するのに時間がかかるし法人税や所得税のように帳簿があるわけでもない。相続税の申告に手を出すより会社の顧問をしている方が時間単価は高い。それにいただいた相続財産などの資料を確認することなくそのまま正しいものとして申告書を作成するのはリスクが高い。だから引き受けた税理士は調査で何か問題が発生すると「知らなかった」を連発する。


 会社の顧問税理士が社長の相続税の案件を辞退することが結構多いと聞く。社長が亡くなって配偶者と新社長の長男と嫁いだ長女が相続人で、親子あるいは兄妹仲が悪い場合、他の税理士を照会するか探すように促すようだ。


 要は各相続人と信頼関係を一から構築しなければならない。しかも相続税の申告期限は亡くなった日の翌日から一〇ヶ月以内だ。その期限の数ヶ月前に依頼されたら、とてもじゃないが信頼関係の構築はまず不可能だ。

 

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相続というのは亡くなった人の集大成だから、それをどう申告書に反映させるかは非常に困難な作業になる。現職時代相続税の調査を五〇件ほどしたが相続人と税理士の信頼関係が希薄な事案ほど財産の申告漏れが多かった。だから私は生前から被相続人予定者や相続人との信頼関係が構築できている顧問先の相続税の仕事しか引き受けない。


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 さて相続に関する仕事は申告書を書くだけではない。大黒柱失った直後からそれこそ親身になって様々な対応をするのも仕事だ。


 少し話がそれるが、税理士は受け取った報酬の領収書に印紙を貼らなくていい。なぜなら税理士は商人ではないからだ。つまり我々の仕事は商売ではないと言うことだ。だから印紙税が非課税なのだ。最近自己研鑽もせず税理士も税理士法人もまるで商売人のように営業する姿をよく見かけるが情けなく思う。もちろん税理士だけではないが。


 私は相続税に詳しいと言うことで一時期かなりの数の税理士事務所の顧問をしたことがあった。非常に潤ったが徐々にやる気をなくしてほとんど辞めてしまった。自己研鑽する意欲がないのか相談内容が余りにも稚拙で本当に税理士なのかと疑いたくなることも多かった。だからでもないだろうが税理士会は研修を義務化した。恥ずべきことだ。


 その研修に問題がある。顧問先が少なくて暇を持て余した税理士が講師になる場合がある。

 

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さらに広告宣伝を兼ねた講演や本を出版して目立とうとする税理士も多い。要は講師の質の問題である。終了時に視聴者が一人もいなかったという笑うに笑えない研修もあるようだ。


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 相続の仕事は年間四件が限度だと述べたが、それは相続税に限らず基本的には税務申告書の作成というのは大量生産できないからだ。法人税や所得税もそうだが特に相続税というのはひとつとして同じ案件はない。つまり手作りになる。そういう意味では税理士は巷で言われているようにAI(人工知能)が導入されたら真っ先に失業すると言われているが、それは職人技を持っていない税理士に限られる。

 税務署の仕事も同じで効率化することは不可能に近い。つまり個々人の(法人であっても社長以下すべて個人の集団)経済活動は様々だ。例えば同じ自動車メーカーであっても各社によって原価計算の方法は異なる。もちろん業種が違えばまったくと異なる。大量生産される自動車であってもメーカーごとに原価計算が異なると言うことは皮肉なことだが、結局人間が製造するのだからむしろ当然なのかもしれない。


 原価は利益を左右するので通達行政と揶揄される方法によって税務当局は権限を笠にして調査をするが、通達といえども細部に当たって制定することは不可能だ。さらに大問題なのは国税調査官で原価計算を理解している者が極めて少ないと言うことだ。


 このように原価計算ひとつとってもメーカーの数だけの計算方法があることから分かるように個々の事案に沿った調査というのは非常に困難だ。

 

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しかも権限に頼った調査をすると不信感が生まれる。そうでなくても国民は政府や官庁を信用していない。
 さらに税務当局もそうだが税理士も極めて高い倫理観を要求される。これはあらゆる行政機関と資格業に求められる絶対的な要請だ。理想論だがこの倫理観が崩れたとき大事件が発生するのは近時の決裁文書を含む各種文書の隠匿、改ざん事件を見れば明らかだ。


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 相続税の話に戻るが、これから紹介する税務調査は非常にバカげたものだ。
 ある大きな税理士法人(税理士だけで三〇人以上いて複数の支店がある)が提出した相続税の申告に調査が入った。担当者はベテラン調査官ふたり。相続税の調査は必ずふたり一組で調査する。言った、言わないというトラブルを避けるためでもあるが、質問する者と記録する者に役割分担するためだ。何しろ被相続人の一生の決算書とも言うべき相続税の申告内容は奥深い。そういう意味で慎重に調査を進める体勢を取っている。


 ふたりの調査官の猛攻に根を上げた被相続人の長女が夫を通じて私に助けを求めてきた。私はその夫の父親の存命中から経営する会社の申告や個人の確定申告や資産の税務管理を任されていた。その父親の相続税の申告書を提出する前に土地の評価で税務署でもめたが一蹴して相続税の申告書を提出した一連の対応を高く評価してもらっていたので私に白羽の矢を立てた。


 さて調査の立会を引き継ぐことにしたが条件を付けた。それは申告書を作成した税理士法人を首にすることだった。

 

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なぜなら申告書を精査すると余りにも稚拙な内容だったからだ。しかも過大申告の可能性が高かった。なぜ税務署から攻められるのか不思議だった。


 税理士法人は執拗に抵抗したが、野球で言うと監督は配偶者だ。結局その税理士法人に変えて私をピンチヒッターに起用した。私の仕事は財産の過大評価で満塁となったランナーの一人をホームに帰すだけだった。しかも相手ピッチャー(調査官)は力ずくで投げすぎたのか球のコントロールが滅茶苦茶だった。だから押し出しのフォアボールを狙う。打席に立つと税務署の主張に対する反論書を提出した。


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 相続人は配偶者と長男と夫を通じて依頼してきた長女と次女の四人だ。


 長男はグローバルな上場企業に務めていて東京の郊外の高級住宅街に住んでいる。この住宅も相続財産だったが過大評価されていた。それはさておき海外勤務が多い。


 長女は先ほど説明したとおり私の顧問先の会社社長の妻で被相続人の隣の市に住んでいる。夫も資産家の息子で都銀に勤めていたが、父親が亡くなったとき定年で退職した。夫は長男より海外勤務が多く、長女は語学が堪能なことや子供に恵まれなかったので絶えず夫婦で海外に赴任していた。


 次女は離婚していて被相続人が購入した近所のマンションに一人息子と住んでいた。


 この一族は名門の家系で不動産管理会社を経営していた。その株価計算の基になる会社所有土地の評価も間違っていた。つまり株価が過大評価されていた。

 

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どうも相続税の申告書を作成した税理士法人は土地の評価に弱いようだ。


 やってはならないことだが、調査で申告漏れの財産が指摘された場合に備えて課税価格が過大な相続税申告書を提出する税理士が結構いる。依頼者を裏切る行為だ。申告書をよく見ると庭園やその設備としてかなりの額を財産として申告していた。庭園というのは公開に値する立派なもので入園料を徴収されても価値のあるものをいう。だから通常の自宅に付随する庭園は評価に値しない。だからこれも過大申告してることになる。納税者にとって高額な申告書作成料を請求されるし、高い税金を払わされるでは、踏んだり蹴ったりだ。


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 この調査の最大の焦点は一言で言えば配偶者や子供名義の預金や上場株式が相続財産に当たるのかということだった。


 調査官は被相続人の取引銀行と同じ銀行で同じ支店の預金であることと、特に長女の預金は旧姓で住所も被相続人の住所地であることを根拠として被相続人の財産だと主張した。住所地に関しては長男や次女も同じだった。


 私が調査していても追求するだろう。ただし、その預金の入出金を詳細に検討する必要がある。被相続人の預金からの入金、逆に相続人の預金から被相続人の預金への出金が確認できれば実質被相続人の預金と言える。しかし、もうひとつ考えなければならないことがある。もし相続人が先に死亡すればこの預金は長女の財産になるのかどうかだ。

 

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そして同じ銀行の父親名義預金が相続人のものと認定できるか否かを検討しなければならない。


 調査権という名の権限の行使はあくまでも慎重でなければならない。そうでなければ調査権の乱用になる。


 私は子である各相続人から大学卒業後から相続開始日までの住居の移動状況を聞き取ることにした。


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 長男は就職した当初は本社勤務でその後は国内支店を転々とし本社に戻った後ヨーロッパの現地法人の本社に転勤した。もちろん家族ぐるみでの転勤だ。


 数年を経て日本本社に戻ったが、その後米国の現地法人の支店に転勤した後同じ現地法人の本社を経て日本に戻る。


 しばらくは本社勤務だったが中国の現地法人の本社に転勤した。最後の中国だけが単身赴任だった。


 このような状況だったので被相続人である父親に財産管理を頼んでいたとしても不思議な話ではない。中国転勤の場合だけは日本にいる妻に財産管理を任せてもよかったが、引き続き被相続人に財産管理を任せていた。もちろん日本にいるときは自ら管理していた。逆に海外で自ら財産管理するのは不可能だろう。

 

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 長女も海外勤務の多い夫ともに海外で暮らすことが多かった。いつの間にか長女は財産管理を父親に頼るようになっていた。ただ長男と違ってなぜ旧姓のままで住所が結婚前のままだったのかを説明しなければならない。しかし、これは困難なことではない。妹のケースが参考になる。


 次女は長女より早く結婚し男の子を出産した。若すぎたためか夫婦関係がうまく行かず姉が結婚する前に離婚した。預金はすべて旧姓のままで住所も父親の住所のままだった。それが幸いしたとは言えないが、離婚訴訟で夫からこの次女の預金はまったく見えなかった。


 これはよくある話だ。資産家の娘と結婚すると相手は当然妻の財産を意識するから、万が一に備えて旧姓のまま預金をベールに包んでおくということはよくある。熱烈な恋愛結婚しても独身時代の預金まで新郎に教える必要はない。それぞれの財産はそれぞれの固有財産だから。


 シングルマザーとなっても次女は金銭的には困らない。もちろん旧姓に戻ったから預金は父親でなく本人が管理し生活している。銀行に届けている住所など問題ではない。だから次女の預金は被相続人の家族名義預金ではなく次女のものだ。


 そうすると姉の旧姓の預金も本人の財産の可能性が高い。幸いにしてこの調査時点で長女と夫は仲良く暮らしている。もちろん夫も資産家なので妻の預金に興味はない。海外勤務が多い夫婦だから、長女が父親に預金の管理を任せていても不思議なことではない。

 

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 株式配当はすべてそれぞれの名義人の預金に入金されていた。その預金が被相続人の財産ではないとすると株式はそれぞれの名義人の財産と言える。


 このようにして名義預金や名義株だと主張する調査官の主張を退けたが、一部申告漏れもあった。それは登録株だった。明らかに申告書を作成した税理士法人のミスだ。


 さて被相続人が亡くなる二週間前に二階建ての自宅の一階のすべての窓に二〇〇万円ほどかけてシャッターを取り付けた。調査官は家屋の評価額に二百万円をプラスしろと言う。しかし、家屋の評価は「固定資産税の評価額」とする国税庁長官が発遣した「財産評価基本通達」に定められている。


 調査は亡くなった二年後であったが、自宅の固定資産税の評価額に変動はなかった。市役所は改築改造などすれば固定資産税の評価額を上げる。そうすることによって固定資産税が多く徴収できる。しかし、シャッターを取り付けた程度では家屋の価値が増えたと認識しなかったのだろう。評価額は据え置かれたままだった。


 土地の評価を過大に申告しているのに、つまり先ほどの通達どおりに評価すれば課税価格が減少するのに、相続人や申告書を提出した税理士法人には何も伝えていない。課税価格が増加する場合に通達を無視して攻めるから、減少する場合も通達を無視して黙っている。これでは儲けに走る商売そのもので強いては税務行政を歪めてしまう。

 

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 私が現職時代の時には増加するものも減少するものも指摘して、増加額が上回れば修正申告をお願いした。不動産管理会社の株価の計算も土地の評価が過大だったので株価も過大となった。ひどい調査だった。相続税を再計算すると過大申告となり税金を払いすぎていた。


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 調査責任者の統括国税調査官と担当調査官の前で苦言を申し上げる。


「通達を無視して納税者を欺すなんてひどいじゃないですか」


 この一言でカタが着いたと思ったら、統括官が深く頭を下げてつぶやく。


「先生。立場上還付だけは、ちょっと……」


 調査して修正申告を取るのが本筋だから、還付は勘弁して欲しいというのである。


「是認と言うことで……なんとか」


「何を言ってるんですか!いい加減な調査で配偶者は体調を崩して入院までしたのですよ。還付は当然でしょ」


「聞けば先生は元税務職員だったんでしょ。署の立場をなんとか……」


「だから辞めた。過小申告すれば加算税や延滞税の処分を受けるは当然ですが、通達違反して、ただ納税者をいじめるだけの調査をしておきながら、よくも言えますね。この還付金は慰謝料です」


 統括官も調査官も黙ったままだった。

 

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「まあ、私の一存で決める話ではないので、取りあえず相続人に伝えます」


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「先生のおっしゃるとおりですが、すでに支払ったものは無いものと思っています」


 さすがそれなりの家系の配偶者は税務署を「許す」と言う。この一言で他の相続人は意見を差し挟まなかった。


「そうですか。よく分かりました」


「先生にはご苦労をおかけしたのに……」


 私はここで声を上げて笑う。


「あまり苦労はしていません。苦労というのか、青ざめたのは税務署でしょう。分かりました。明日にでも税務署に赴きます」


「今回の件、本当にお世話になりました」


 深々と頭を下げる相続人たちに見送られて自宅を出た。そして携帯で統括官に連絡を取ると、意外にも今からでもいいから来て欲しいとのことだった。


 税務署に着くと統括官と担当の調査官が玄関で待っていた。小部屋に案内される途中で朗報を伝えた。小部屋には缶コーヒーが置かれていた。


「ありがとうございます」


「電話でもよかったのですが」

 

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「缶コーヒーですが……どうぞ」


 非常に気を遣っている。


「いただきます」


 一口飲んで二人を見ると頭を下げたままだ。


「それより是認の起案が大変ですね」


 調査したが問題はなかったという署長への報告は結構大変なのだ。調査官が頭を上げて応じる。


「先生からご指摘を受けたとき調査を打ち切っておけばよかったと思っています。ご指摘は理にかなっていました」


「たまには刺激的な税理士がいてもいいでしょう」


「今回の調査では先生はピンチヒッターでしたが、先生がハンコを押された事案は調査しません」


「調査してもらわなければ稼げないんだが」


 私が笑うと調査官は再び頭を下げる。脱税に加担した税理士は税務署のブラックリストに載るが、きちんと対応する税理士がホワイトリストに載ることはない。なぜならホワイトリストがないからだ。


 残ったコーヒーを飲み干すと立ち上がる。

 

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「またどこかでお会いすることがあるかも知れません。そのときはお手柔らかに」


「それは、こちらのセリフです」


 調査官がドアのノブに手をかける。


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 後日この調査官は個人として配偶者を訪ねてお詫びしたようだ。配偶者から電話があった。


「ビックリしました。菓子折を持って来られて……」


「調査官が?」


「そうです。ていねいに頭を下げて『申し訳ありませんでした』と」


「そうですか。あり得ないことですが、よかったですね」


「すべてを円満に解決していただいて、本当にありがとうございました」


「私もいい仕事ができてよかったです」

 

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