第七章 暴走時計


【時】永久紀元前?年 永久0255年(前章より240年後)
【空】鍾乳洞・その周辺
【人】瞬示真美


永久紀元前?年


***

 暗闇に近いが淡い乳白色の空間が広がっている。天井から水滴がここかしこに落ちる音が響く。ここは巨大な鍾乳洞。長い年月をかけて天井に向かって伸びる石筍がいたるところにある。


 長いもの、短いもの、太いもの、細いもの。


 まっすぐなもの、曲がったもの。


 根元が水に浸かったもの、浸かってないもの。


 そのなかに奇妙な形をした石筍がふたつ並んでいる。奇妙というより頭のない人間の形をしている。このふたつの人型の石筍のところだけは天井から落ちてくる雫の色が黄色だ。


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 よく似た体型だが、シンボルからひとつが男でもうひとつは女だ。ここまで成長するのに何万年もの歳月が流れている。


 首から上ができあがるのにまだ数百年、数千年を要するのか。


 ここは御陵が陥没してできた池の底のそのまた底なのか。


 天井から落ちた水は川となって一定方向に流れる。その先で滝となって落下しているのか、ゴーッという低い音が聞こえる。


 慣れると雫の落ちる音が規則正しく聞こえる。心休まるリズムを刻んでいる。このリズムはいつ始まったのか。そしていつまで続くのか。


永久0255年


***

 頭のない人間の形をした石筍が鼻のところまでできあがる。鼻と口で雫のリズムに反応するかのように息をする。鼻の部分ができてからはテンポが以前よりかなり早い。やがてポツンポツンと落ちていた雫がしたたり落ちる小雨になる。


 この石筍の口元が荒い息づかいに変わる。川の水量が徐々に増えるとともに水面が見る見るうちに上昇する。したたり落ちるという状態ではなく土砂降りの雨のようになる。小さな石筍は完全に水面下に沈み、細いものは川の流れに逆らいきれずにボキボキと音を立てて折


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れる。まるで時間に負けて流されるのように。


 人間の顔ができつつある。しかし、水面は波を立てながら上昇して口元に迫る。


 水面の上昇に負けまいと、耳、目、つまり頭部全体が急速に形成される。まるで水面の上昇と競争するかのようにその石筍が人間の身体に仕上がっていく。


 それまでの何千倍何万倍の速さで時間が加速する。ついにその石筍は完全な人間の姿になる。


瞬示と真美だ!


 この世の出来事には思えないふしぎな光景が展開する。だが、ふたりの身体が完全に水没する。うっすらと輝く黄色い水の中で瞬示と真美の身体が黄色から淡いピンクに変化する。


 意識が生まれる。ふたりが微笑むような表情を見せる。


【瞬ちゃん】


 真美が瞬示の意識に直接言葉を送る。


【摩周湖に引きこまれたときのような】


 瞬示も真美の意識に直接言葉を送る。


【気持ちがいいなあ】
【思い出したわ】
【このゆらゆらとした……】


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あまりに気持ちがいいのか、急流の中で身体が流れの先へ大きく傾いているのに気付かない。


【気が付いたら、女と男の戦場にいたわ】
【あの巨大土偶はいったい……】


 そのとき真上から数本の槍のような鍾乳石がふたりに向かって落下する。その直前に足が岩から離れるとふたりは川の流れに乗る。間一髪、鍾乳石の落下から逃れた!


 時間の槍はふたりに命中しなかった。そしてふたりは別の時間の流れに乗り移ったように洞窟の中を流される。流れの先の方から青い明るい輝きと大音響がふたりの意識に直接届く。


 洞窟から滝となって大量の水が流れ落ちる。洞窟の外の世界は澄みきった秋のようだ。ふたりは勢いよく落ちていく。しかし滝壺は見えない。とてつもなく遠い地の果てに滝壺があるのか。あるいは滝壺はなく永遠に落下し続けるのか。ふたりは時間という名の滝の中にいる。


 優に百メートルぐらい降下したとき、落下がピタリと停止する。時間が止まったように滝の流れが止まる。音も止まり静寂がすべてを支配する。


 ふたりは静止した滝の中でまったく身動きがとれない。氷のように固まった滝の中でピンクに輝いている。まるで止まった時間の中に捕らえられて凍りついたようにも見える。


【瞬ちゃん】


真美が不安そうに瞬示を呼ぶ。


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【マミ!】


 瞬示は呼ぶというより訴える。


【なに?】
【いや】


 瞬示の信号が止まる。身体をまったく動かすことができないのに思考は自由にできる。


【瞬ちゃん、どうしたの】


 瞬示が信号というよりイメージを送る。


【雨の中で頭を復元した巨大土偶、水の滴りの中で頭が形造られたぼくら、真上から攻撃を受けた巨大土偶、真上から落ちてきた鍾乳石を避けたぼくら】


 瞬示のイメージ信号を受けて真美の意識に巨大土偶の姿と自分たちの姿が浮かぶ。


【最後が違っているわ】


真美は巨大土偶が消滅してしまったのに自分たちは再生している点が違うというイメージを返す。


【いや、巨大土偶は再生した。それに御陵から消えたという点ではぼくらと同じだ】
【……】


 真美が同意を意味する白い信号を送る。


【ぼくらは攻撃をしたけれど、逆に巨大土偶は何か知らせたかったんじゃ?】


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【巨大土偶が先に攻撃してきたのよ】
【そうだった】
【わたしたち、これからどうなるの】


 真美の手が自然に動いて瞬示の手を取ると、同時に巨大な音が響きわたって再び滝が動きだす。しかし、落下するのではなく、何と今度は上昇している!


 ふたりはしっかりと抱き合う。時間が逆流していることを誇示するように水が大きな音を立てながら上昇する。


 ふたりを含む水が洞窟に達したとき、水は元の洞窟に戻っていくが、ふたりはまわりの黄色い水とともに滝から分離してそのまま天空に向かう。しばらくするとふたりの下の滝の流れは再び停止して一呼吸置いて落下に転じる。飛沫と轟音を連れだって落下する。


 一方、ふたりは黄色い水の塊に包まれて上昇し続ける。その空には雲はなく碁盤の目のように、ただし黒ではなく白い線で区切られた青い空が果てしなく広がっている。どこまでもどこまでも規則正しく正方形に区切られた青い空だ。まるで空が方眼紙に見える。しかし、太陽は見えない。よく見ると碁盤の目のひとつひとつが大きくなったり小さくなったりしている。まるで呼吸しているように見える。


 ふたりの上昇スピードが速いのかゆっくりなのか判別できない。空に向かって上昇しているというよりは空に向かって落ちているという感覚を持つ。上下の区別がつかない。


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 足元を見ると、いつの間に発生したのか霧が果てしなく広がっていて、わずかに滝のところだけがくっきりと見える。しかも滝は一、二分ぐらいの周期で落下と上昇を繰り返す。まるで白い弦をつまびくようなリズムをとって落下と上昇を規則正しく何度も繰り返す。


 その滝から視線を上げると白い霧から透明に近い空の青へと変化していく。正方形ひとつひとつが滝の流れと同じように、一、二分ぐらいの周期で大きくなったり小さくなったりする。


 いつの間にか黄色い水は消えてふたりの身体は例のジーンズに包まれて空中で静止している。やがてゆっくりと降下しはじめる。正方形の空のひとつひとつが呼吸をやめて一定の大きさを維持する。


 眼下の滝は再び上昇することなく、ゆったりと落下する。


 一定の大きさを保っていた正方形のひとつひとつが今度はゆっくりと大きくなる。いつの間にか足元の霧がなくなる。


 まるで急加速して針をグングン回していた時計が、ひっきりなしに微調整を繰り返しながら元の時間をやっと探りあてて正常なペースで時を刻みはじめたようだ。


 滝は岩山の側面の洞窟から流れ落ちる。霧が晴れてふたりがいる高い位置からは、まるでパノラマのように遠くの山々が連なっているのが見える。


 しかし、高度を徐々に下げるふたりは、その美しくも雄大な景色を楽しむ余裕はなくただ真上の空を見上げる。正方形を区切っていた白い線は消えて、いつの間に現れたのか太陽が眩し


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く輝いている。そしてふしぎなことにかなりの距離を置いて明るい三日月がふたつ見える。


【瞬ちゃん、あっちとこっちに月が見える】
【ほんとだ!月がふたつある】


 ひとつは上弦の三日月で、もうひとつは下弦の三日月だ。
 ふたりは滝からまっすぐに伸びる川に向かって、秋のさわやかな風に流される気球のようにゆらゆらと移動しする。


***

 ふたりは川と寄りそう小径に降りる。幅員二メートルぐらいのゆるやかな坂道で、何ひとつ動くものがない静まりかえったまわりを見渡すとひんやりとした湿気を感じる。


 両脇には空に向かって寸分の狂いもなく同じ高さの同じ太さの杉の巨木が規則正しく数メートル間隔で並んでいる。何本もの根が小径との境界あたりで地面をいったん盛り上がてから地下に潜る。滝に向かって右側の巨木の根で盛り上がってできた土手の向こう側には幅員四、五メートルの川が流れている。そしてその川から心地よい水のニオイが付近一帯を包んでいる。


 杉の巨木に太陽の光が遮られて薄暗い小径を瞬示と真美が歩きはじめる。正面には苔か、それとも草が生えているのか、緑色の屋根を持つ小さな山門が見える。


 御陵は?土偶は?黄色い球体は?洞窟は?ここは?すべてが夢ではない。そしてふたりは自


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分の思いどおりに身体を移動させることができる。一方、意志に関係なく勝手に移動すること
もある。今のところ、後者の移動の方が多いが。


 ふたりはあの滝が造りだした川を確認するために小径から巨木の間を抜ける。


【長い旅をしていたような気がするなあ】
【ここはどこなのかしら】


 真美が周囲をグルッとステップして見回す。そして急に顔をあげる。


【まるで、時間が空でダンスをしているみたいだったわ】
【マミ!】


 瞬示の強い信号で真美の視線が川に向かう。


【!】


 目の前の川の流れに言葉を失う。川の流れが逆なのだ!低いところから高いところへ流れている。上流の滝に向かって川が流れている。逆流しているので岩に当たってできる飛沫が奇妙に見える。


 ふたりは小径からは見えなかった空を仰ぐ。太陽は杉の巨木に遮られて木漏れ日となって川面を照らす。雲ひとつなくさわやかな空が広がる。


【時間が逆に流れている?】


 瞬示が時間を強く意識する。地上に降りる前、確かに滝は流れ落ちていた。高いところから


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滝の状態を確かめるために瞬示が身体を浮かそうと気持ちを集中させる。しかし、身体はピンクに輝くが浮かぶどころか微動だりしない。


【マミ、身体がいうことをきかない】


 瞬示の信号の意味を確かめるために真美も身体をほんのりとピンクに輝かせる。しかし、真美の身体も浮くことはない。ふしぎな体験をしたので集中力が鈍ったのかもしれない。そう思いながら、ふたりは改めて神経を集中させる。身体がピンクから赤に変化するがまったく身体が浮かない。何度か挑戦するが、やがて輝きが消えると急にのどの渇きを覚える。ふたりは水辺に近づくと川の水をすくって貪るように飲む。


「うまい!」


「おいしいわ」


 下流から上流に向かって流れる川の水はふしぎなほどうまい。


【もう一度やってみよう】


 しかし、ふたりの身体はまったく川岸から浮きあがることはない。


「超能力が消えた?」


「そんなこと……」


 どちらから言いだすでもなく、ある直感を共有しながら小径に戻って、示し合わせたように神経を集中する。身体がピンクに輝く前にすっと浮きあがる。


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「なんだ!」


 杉の巨木のてっぺんの高さまで上がったふたりはただ驚く。川は高いところから低いところへ理屈どおりに流れている。そのまま川の方に向かおうとするが、川に近づくと落ちかける。身体をまったくコントロールできない。慌てて小径の方に戻って着地する。すぐに歩いて川に向かう。


【!】


 やはり川の流れは逆だ。上から見る川の流れとそばで見る川の流れが正反対になっている。ふたりには不可解なことだが、川を流れる時間と小径を流れる時間の方向が逆になっている。

 

【どういうことなんだ】


 真美は瞬示に返事することなくワナワナと地べたにへたりこむ。


 よく考えれば摩周湖の事件以来自らの意志で行動したことがなかった。次々とふしぎなことばかり起こて訳のわからないまま、ただほんろうされてきた。


【滝壺まで歩いて行ってみよう】


 瞬示はあえて目標を設定して、自らの意志を確認するかのように提案する。真美がしっかりとうなずく。


 やがて山門にたどり着く。木造で茅葺きの屋根を持つ小さな山門だ。屋根には草が青々と生えている。陽が当たらない壁には苔が生えている。誰が建てたのか。瞬示は文字でも書かれて


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ないかと壁や柱を見るが何もない。真美が指をさしながら瞬示を呼ぶ。


「瞬ちゃん、あれ」


 次の山門が見える。ふたりは黙ったまま次の山門に向かう。しばらく歩くと背後からミシミシという音が聞こえてくる。驚いて振り返ると山門が少し傾いて茅葺きの屋根が草を載せたままずり落ちかけている。


 そのままふしぎそうに山門を見つめ続けるが音はしないし、何の変化も起こらない。仕方なく次の山門に向かって再び歩きだす。すると背後で今度は大きな音がする。同時に振り返る。


 山門は屋根が落ちて半分つぶれたような格好になっている。目をこらして異様な姿の山門を見つめるが何の変化も起こらない。そろって首を傾げる。


【気味が悪いわ】


 真美が瞬示の腕をつかむとピッタリと身体を寄せる。今度は前を向いていっしょに半歩だけ足を進めてすぐに振り返る。さっきよりほんの少しだが明らかに朽ちて崩れかけそうになっている。ふたりは振り向いたまま今度は一歩だけ踏みだす。山門がミシミシと音をたてながらゆっくりと倒れる。顔を見合わせることもなくいっしょに倒れた山門に瞬間移動する。山門は完全に崩れている。


 瞬示と真美は後ずさりするように山門から離れる。すると歩調に合わせて残がいのような柱や壁を構成していた木片も粉々になって消滅する。山門が元から存在していなかったように跡


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形もない。ただ小径があるだけだ。


 ふたりは無言だが意識を共有しながら、しっかりと手をつないで再びゆるやかな登り坂の小径を歩いていく。木の葉の香りを含んだ冷ややかなそよ風が流れているのにふたりの手は汗でびっしょりになる。


 次の山門へ到着したふたりは念入りに柱や壁を調べる。やはり特に変わったところはなく、先ほどの山門と何もかもが同じだ。


 今度は後ろ向きに歩いて小径をゆっくりと登っていく。目の前で山門はミシミシと音を立てながら少しずつ崩れだす。ふたりはキッと立ち止まる。つぶれかた山門の崩れもピタッと止まる。今度は空間移動をせずにつぶれかけた山門のところまでゆっくりと戻る。


【!】


 ふたりの戻る速さに応じて山門が元の形に戻る。もう一度後ろ向きで離れる。元の姿に戻った山門がミシミシと音を立てながら再びつぶれだすとやがて跡形も残さずに消える。遠目に何も残っていないことを確認してから、ふたりは山門があったはずの場所に戻る。


 何もないところからふたりの歩調に合わすように山門が徐々に姿を現す。ふたりは直視したまま納得する。始めはまるで土から生まれるように朽ちはてた姿に戻り、やがて今にもつぶれかけそうな山門となり到着したとき完全に元の姿に戻る。まるで無から有が創造されるような感じで山門が復元する。


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【時間が逆流している?】


 そして瞬示と真美のどちらからでもなく、ふたりは巨木の根元を乗り越え川に近づいてその流れの方向を確かめる。相変わらず川の水は逆流している。


 ふたりは今起こていることを何とか理解しようとする。ふたりの思考が全身をかけめぐる。しかも、お互い連絡を取るように交換しながら思考を進める。小径に戻って次の山門に向かいだすと、急に瞬示がつぶやく。


「いったい山門はいくつあるんだ」


 山門の数を確認するために瞬示は杉の巨木の上にジャンプする。真美も慌てて瞬示のあとを追う。しかし、ふたりの強力な視力をもってしてもその数を確認することはできない。なぜなら、滝へ至る小径が陽炎のようにゆらゆらと揺れているからだ。仕方なくふたりは次の山門の手前に降りる。


【ここで待っていて】


 瞬示が有無を言わせずに真美の方に身体を向けたまま後ずさりの体勢で山門を通りぬけていったん立ち止まると、真美と山門を見つめながら注意深く再び小径を上っていく。


【何かあったら、すぐに戻ってきて!】


 真美が哀願する。しかし、何も起こらない。


【つぶれない】


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 瞬示が真美にポツリと返事すると歩調を早める。


【ゆっくりにして!】


 真美は瞬示が消えてしまうのではと不安になる。


【大丈夫】


 瞬示が小走りで戻ってくる。


【良かった】


 思わず真美が瞬示に抱きつく。


 一息ついてから今度はいっしょに歩きだす。山門を通りぬけてふたりは後ろ向きに小径を進む。先ほどと同じように山門が崩れはじめる。ふたりはすぐに立ち止まる。山門の崩れも止まる。瞬示が真美に山門まで戻るように催促する。


 真美は拒否するようにほほをぷくっと膨らますが、しぶしぶ崩れかけた山門まで戻る。崩れかけた山門の下をくぐり反対側に出る。まったく何も起こらない。瞬示も真美のところまで戻る。山門は崩れかけた姿のままだ。ふたりいっしょでなければ事が起こらない。


【わたしたち、時間をコントロールしているのかしら】
【とても、コントロールしているなんて思えない】
【じゃ、どういうこと】
【ぼくらの存在が時間に影響を与えているのかもしれない】


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【わたしたち、別々なら何も起こらない】


 ふたりはお互いを見つめあう。しかし、ふたりにはお互いの関係が何を意味しているのかはわからない。燃えるような愛情を共有しているわけでもないし、もちろん憎みあっているわけでもない。


 真美がまっすぐ空に向かって伸びた杉の木を見上げる。


【杉の並木や小径に生えている草は何ともないわ】


 瞬示が真美の指摘におおきくうなずく。


【山門と杉の木が違うのは】


 瞬示の質問に真美が即答する。


【山門は人間が造ったもの……?】
【この杉の木で造ったんだろうか】


 ふたりは山門をくぐり抜けていつの間にか傾斜がきつくなった小径を登っていく。背中の方でミシミシという音がする。今度は振り返りもせずにそのまま歩いていく。そしてミシミシという音が消える。山門は跡形もなく崩れ去ったようだ。戻れば何もないところから山門が再び姿を現すのだろう。


【無から有が生みだされてるんだわ】
【そうかなあ、時間が行ったり来たりしているだけだ】


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 瞬示は重要なことに気が付くが、思考が連続しない。真美も瞬示の言葉を聞き流してしまう。


 再びふたりは川に向かう。川は相変わらず川下から川上へと流れている。川岸を後ろ向きに歩いたり戻ったりするが、何の変化も起こらない。


【川の時間の流れは小径の時間の流れとは反対だけど、山門の時間の流れはどちらなんだろう】
【別かもしれないわ】
【ぼくらは?】


 真美は首を横に振るだけで泣きそうな顔をする。地震で足元がふらついて不安になるよりもっとひどい状況だ。いや、地震ではない。時間がグラグラと揺れる時間の震動、時震をふたりは感じているのだ。だが、ふたりの感覚はそこで停止する。


 小径に戻ったふたりは、いくつかの山門をくぐり抜けてやがて険しい岩山の横穴から流れ落ちる滝の下にたどり着く。逆流している川の水は滝壺のところで地下に潜るかのように消える。この滝壺を境にして時間の流れが異なるように見える。


 有から無へと、無から有へと、その間を時間が行ったり来たりしている。先ほど瞬示が気が付いたとおり、時間が振り子のように揺れる。


 ふたりは滝から岩山の洞窟に視線を移す。


【あの洞窟の奥に進めば元の世界へ戻れるかもしれない】


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 瞬示が真美に同意を求める。


【元の世界が復元されているかもしれない】


 真美は瞬示以上に確信を持つ。


 ふたりは洞窟に突入する意志を固める。滝のように流れ落ちた様々な出来事の答えが洞窟の奥にあるような気がしたのだ。ふたりの身体がピンクに輝く。


***

 ふたりは完全に瞬間移動の仕方をマスターするが、瞬間移動せずに身体を浮かしてゆっくりと洞窟まで昇る。洞窟からは大量の水が大きな音をたてて落下する。洞窟の入り口に達すると突然目の前の水がすべて赤に変わる。生臭いニオイがふたりの鼻を突く。


【血だ!】


 真美は目を閉じて顔を背ける。


 すぐにその量が減って洞窟からはドロッとした血がしたたり落ちる。まるで出血が止まったように残った赤い雫が洞窟の入り口から滝壺にポタポタと落ちていく。しかし、入り口は真っ赤に染まったままだ。


 真美は今にも吐きそうな表情をする。瞬示はじわじわと高度を下げる真美の手を取る。瞬示の視線が真美の肩越しに真っ赤な滝壺を捕らえる。一方洞窟の入り口のあたりにベットリと付


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着していた血が固まりだす。


【入るぞ】


 真美が瞬示にしっかりと握られた手を振りほどこうとする。涙を浮かべて上目気味に瞬示を見つめる瞳がその涙で大きく見える。真美のそんな瞳のはるか下に川が見える。


【川が!】


 真美が瞬示の視線をたぐる。滝壺から下流に向かって赤い水が流れている。川の流れが正常に戻っている。瞬示は真美の手をしっかりと握り直す。


 しかし、滝が消滅したため、このままでは川はすぐに涸れるだろう。ふたりはそんな川を眺めながら、もうここに留まる理由がないという雰囲気を共有する。そのとき周辺の空気が洞窟に吸いこまれる。血はすっかり固まり生臭いニオイも消えて、すがすがしいふしぎな風がふたりを誘うように洞窟の奥に向かう。


 瞬示は洞窟の入り口の岩盤に手のひらを当てる。岩のザラザラとした感触はあるが、温度が感じられない。冷たくも温かくもない。今度は自分のほほに手を当てる。体温を確認してからもう一度岩に手を当てるが、やはり温度の感触はない。


 瞬示が真美の温かい手を引くと、真美が軽くうなずく。ふたりは洞窟に慎重に入る。入り口近くは水で溶いたような淡い闇だが奥にいくにつれて段々と暗くなる。


 ふたりは洞窟の地面から少し身体を浮かして進む。目が慣れるというより、暗闇の中でも苦


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もなくすべてが見える。洞窟の中は水がまったく流れていないどころか、ひどく乾燥してひんやりしている。ここで大量の水に流されて外へ押し出されたとはとても信じられない。


 あれは違う洞窟だったのか?いや、同じ洞窟に違いないのだが、時間が異なる。瞬示と真美はこの洞窟で数え切ないほどの歳月をかけて身体を一から復元した。そのあと強烈な時震に襲われ裂けた時間の谷底に落ちこんだが、やっとの思いで這いだそうとする。


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