第二十八章 帰還


【時】西暦2048年11月11日(西暦の世界へ)
【空】御陵北海道(民宿)
【人】瞬示真美一太郎花子


***

 緑の時間島の中で瞬示と真美が雄大な宇宙を気持ちよさそうにながめる。子供のころ、両親に連れられて郊外の緑豊かな池のほとりでキャンプファイアをしたときに見た夜空を思い出す。


教科書で見た記憶がある渦巻状の銀河に超高速で向かう。それは天の川という銀河だ。


 ふたりはそれまでと違ってゆっくりとしたスピードで移動しているが、それでも驚くべき速さだ。やがて小さな黒い星のすぐそばを通りすぎる。その星の表面には無数の黒い角砂糖のようなものが浮かんでいた。自分たちがまっすぐに移動していないことに気が付く。ゆく手のはるか彼方にかすかに輝く点が見える。


 しばらくして、寄りそうふたつの星のそばを通りすぎる。暗くて色は感じられない。一方は大きく片方はその半分ぐらいの星だ。ふたりにはどこに向かって進んでいるのか見当もつかない。しかし、興奮するわけでもなく、不安にさいなまされるということもない。

 

[22]

 

 

 今度は先ほどの星よりかなり大きな星のそばを通過する。そのときふたりははるか遠くで弱々しく輝く星を発見する。


 さらに時間が経過する。今度は青緑色の星のそばを通過する。まだまだ遠いが輝きを増す星は太陽のような恒星なのだろうか。


 次の星が見えてくる。見覚えのある美しいリングを持った星、土星だ!土星に違いない。そうすると正面で輝く星は太陽だ。


 理科の授業をまじめに受けておくべきだったと瞬示が苦笑する。真美は土星の美しいリングをうっとりとながめる。ふたりは冥王星とその冥王星に寄りそう大きな衛星、そして海王星、天王星と続いて今土星の近くにいる。それぞれの惑星についての知識はないし、その順番でさえ怪しげな記憶しかない。いや、四つではなかった。五つの惑星とすれ違っている。最初の星は?名前が浮かばない。惑星がもし九個あるとするなら第十番惑星とでもいう未知の惑星なのか?


 そんなことはふたりにとってどうでもいいことで、自分たちが太陽系の中を移動していることが重要なのだ。しばらくすると今までのどの星よりはるかに巨大な木星が見えてくる。ふたりは木星とすれ違う時間を長く感じる。そして目玉のような斑点がある木星にしっかりと見つめられているような気分になる。


 次は赤い火星のはずだ。しかし、すぐには到達しない。ゴミのように大小様々な岩石のよう

 

[23]

 

 

なものが無数に現れる。小惑星群だ。まもなく火星が現れるはずだ。


 ふたりは少し不安を覚える。今までと同じように火星のそばを通過するのだろうが、その次の地球もそのそばを通過して金星、水星と向かうのか?そしてその後は?


 赤い火星が現れる。やはり、そのそばを通過する。今はまぶしい太陽がふたりの不安をかきたてる。果たして次は地球なのか。ここが太陽系だと確信しているものの、偶然火星や木星や土星に似た星にめぐりあっただけなのかもしれない。


 遠くにフーッと青い点が現れる。やがてはっきりと青と白が混ざりあった鮮やかな惑星を確認する。


 ふたりは円球の真ん中から近づいていく。すれ違うような角度ではなく確実にその円球に向かっている。そばには衛星が見える。月だ!まぎれもなくこの惑星は地球だ!月のすぐそばを通過する。地球が見る見るうちに大きくなり全体から部分へと姿を変えていく。このままでは地球にぶつかってしまう!どんどん吸いよせられる。しかし、落下スピードはどんどん遅くなる。


 やがて日本列島が姿を現す。瀬戸内海が、淡路島が、関西国際空港が見えてくる。ふたりはいつの間にか時間島から抜けだしてまばゆいピンク色の輝きを発しながら地上を目指して落ちていく。やがてうっそうとした木々におおわれた御陵上空に達する。


【御陵だ!】

 

[24]

 

 

 ふたりは御陵を通りすぎて自分たちの家の方へ向かう。踏切はなく高架の駅には電車が止まっている。ふたりが見慣れていた黄色とオレンジのツートンカラーの電車ではなく銀色に輝く八両編成の電車だ。ふたりの身体は自分たちの家の上で高度を下げるが、通過してその先の小学校の校庭の砂場に着地する。


 ふたりはたった今、光とともに地球に帰還した。


***

「帰って来たんだ」


 瞬示が叫ぶ。校舎は建て替えられて記憶とまったく違うが、ここは確かにふたりが六年間通った小学校だ。校門から二、三分ぐらい歩いたところにふたりの家があるはずだ。


【あれは?】


 小学校からは御陵の頂上付近しか見えないが時間島に包みこまれて緑色に輝いている。大きな地響きとともに地面が揺れだす。ふたりは御陵の真上に瞬間移動すると時間島が御陵を押しつぶす光景を目のあたりにする。御陵の森は炎をあげて燃えるのではなく、緑色のチリとなって見るまに消滅する。そして大きな鍵穴のくぼみが残る。堀の水が流れこんでくぼみは深緑色の池になる。ひょっとしたら緑の時間島の色なのかもしれない。


 御陵の管理事務所の前で年老いたふたりの管理官が地面に這いつくばるようにして池を見つめる。横付けされたパトカーから降りた警官もぼう然と見つめる。揺れはおさまったのにまだ

 

[25]

 

 

地面に伏せている管理官が警官にうながされて立ちあがる。そのとき、瞬示と真美の視覚にうっすらとした青い輝きが飛びこんでくる。


【あれは!】


 青い球体が見える。


【時空間移動装置?】


 しかし、すぐに消える。


【確かに見えた!時空間移動装置に間違いないわ】
【みっつ見えた】
【いいえ、四基だったわ】


 念を押すように真美が地上に視線を移した瞬示に同意を求める。


【うわあ、いっぱい人がいる】


 それまでまったく気付かなかったことがふしぎなぐらい御陵のまわりには人があふれている。


【まずい!】


 宙に浮かんでいる自分たちに気付くかもしれないと、すぐさまふたりは瞬間移動して元の小学校の砂場に戻る。そして御陵上空に銀色の巨大なものを見つけて驚く。


【超大型時空間移動船だわ!】
【なぜ、ここに!】

 

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【瞬ちゃん、外が騒がしいわ】


 先ほどと違って校門の外側が騒がしい。家から出てきた人々が御陵の方を見ながら騒いでいる。ふたりは上空を気にしながら人々の会話を拾いはじめる。


「今度は地震か?」


「緊急地震速報は流れていなかったぞ」


「でも、強い揺れだった」


「御陵に行ってみよう」


「人がいっぱいだ。テレビを見ていた方がいいかも」


 続々と家から人が出て道をおおいつくしながらゆるやかな坂道を御陵に向かって下る。鉄道の高架横の道路はすでに人々があふれていて、なかなか前に進むことができない。


【老人ばかりじゃないか】


 遠くでヘリコプターの音がする。


【どうしてこんなに年寄りが多いんだ】
【知らない人ばかりだわ】
【ぼくらも行こう】
【瞬間移動するの?】
【こんな人の多いところで瞬間移動はできない。歩こう】

 

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 ふたりはなつかしい校門を出て御陵に向かう集団の最後尾に続く。家並みは見慣れたものが多く、表札も覚えがあるものが多い。しかし、新しい家や記憶にまったくない家もある。二、三十メートル先にふたりの家が見える。


「道をあけてください」


 数十メートル先でふたりの中年の警官が群衆をかき分けて小学校に向かおうとする。瞬示と真美はまわりの人々の会話を注意深く聞く。


「御陵に緑色の光線がぶつかったらしい」


「宇宙戦艦の次は緑の怪光線か」


【宇宙戦艦!】


 瞬示と真美が同時に信号で叫ぶ。そのとき先ほどの警官がふたりを呼びとめる。ちょうどふたりの家の前だ。


「この付近でピンク色に輝いたものが落下するのを見ませんでしたか?」


「いいえ」


 首を横に振りながらふたりが同時に答える。


「失礼しました」


 警官が小学校へ小走りで向かう。うつむき加減で首をゆっくりと横に向ける。目の前には生まれ育った家がある。老朽化しているがふたりの家に違いない。

 

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 ふたりは身動きもせずに戸惑いながらじっと全体をそして玄関を見つめる。ドアを開けて「ただいま」と言って自分の家に入ることがこれほど困難なことだとは!今まで経験したことをどのように両親に話せばいいのか。親といえども信じてくれるのだろうか?ふたりは信号にすることなく同じことを考える。


【どうする?瞬ちゃん】

【もし別のぼくらが家の中にいたらどうなる?】
 それぞれ自分の家の中の気配を探る。


【いない】
【誰もいないわ】


 ふたりはほっとした表情をする。


【両親はあの御陵に向かう集団に加わったのか。そして、もうひとりの自分たちも】


 真美が久しぶりに腕時計を見る。


【瞬ちゃん!】
 真美が強烈な信号を発すると細い腕を瞬示の前に差し出す。


【S2048年!】
【永久(E)じゃないわ。西暦(S)を表しているのかしら】
【その下のこれって十一月十一日のことかなあ】

 

[29]

 

 

 瞬示が真美の腕時計の数字をなぞる。


【そうだとしたら、今日はぼくらの誕生日じゃないか】


 真美がこっくりとうなずく。


 ふたりは少し離れた群衆の最後尾に追いつくために早足で自分たちの家をあとにする。高架になった鉄道の手前で群衆の最後尾に追いつく。真美が瞬示の袖を引っぱって電信柱のプレートを指し示す。


「三国ヶ丘一丁」


 ふたりが住んでいた町名だ。


【いつの間に高架になったのかしら】


 真美が前方を注意深く見つめる。


【あの喫茶店がないわ】


 鉄道が高架になったときに立ち退きになったのか、喫茶店の建物自体がない。群衆は足踏みをするだけで固まって身動きがとれない。


「どうでしたか?」


 あきらめて戻ろうとする若い男を捕まえて質問する老人がいる。


「御陵がなくなって緑色の池になったらしい」


「えー、御陵が消えた?」

 

[30]

 

 

「陥没したみたいです」


 何機もの自衛隊や警察や報道関係のヘリコプターが御陵上空を旋回している。そのさらに上空に銀色に輝く宇宙戦艦が見える。


【超大型時空間移動船ではなく、宇宙戦艦だと言っていた】


 見上げる瞬示と真美には宇宙戦艦の主砲は見えない。


 ヘリコプターの音に負けないように人々の声が大きくなる。しかし、それはしばらくの間だけでほとんどの人々から会話が消える。しゃべらないのにお互い会話をしているようなふしぎな雰囲気が漂う。宇宙戦艦に気をとられているふたりにはその異様さに気付く余裕がない。


 まったく会話がなくなったのかといえばそうでもなくときどき声がする。


「すごい人だ。テレビを見た方がいいですよ」


 人々のなかにはうなずきながら同調する者が増える。


「テレビを見る方がいいのかも……」


 瞬示と真美が何人もの人とぶつかりながら、少しでも前に進もうとするがすぐにあきらめる。


「戻った方がいいぞ」


 ある老人がふたりに声をかける。


「若い人は無茶をするからな」


「今日は十一月十一日ですか」

 

[31]

 

 

 急に思い出したように瞬示がその老人にたずねる。老人は唐突な質問に戸惑う。


「えーと、そうそう、十一月十一日だ」


「2048年ですよね。今年は」


 真美が質問を追加すると老人が不機嫌そうな表情をして目を閉じる。


「48、2048年だ」


「ありがとうございました」


 瞬示と真美が手を打つ。


【やっぱり2048年だ!あれから……】
【『宇宙戦艦の次は緑の怪光線か』って誰か言ってたわ】
【えーっと、とにかく、確かめよう】


 ハンドマイクで警告を発する警官の声が連続して聞こえる。


「御陵陥没の原因が明らかになるまでこの付近には近づかないでください」


「ご近所の方は家に戻ってください」


「電車も運転を見合わせています。すぐ、ここから立ち去ってください」


 そのとき耳慣れない信号が真美の頭を直撃する。


{大きな緑色の池ができているぞ}


 真美は頭の中に怒鳴り声が聞こえたような感覚を持つ。瞬示はそれには反応せずに想いをめぐらせる。

 

[32]

 

 

――あの巨大土偶が抜けだしたのか?そのあとにできた窪地は堀の水に満たされて池になったのか?それに宇宙戦艦っていったい……


{宇宙戦艦が御陵を破壊したんだ}

{いや、緑の光線で御陵は消滅した。俺はこの目で見たんだ}


 瞬示と真美が驚く。頭の中に会話が直接飛びこんで来たのだ。ふたりは奇妙な信号の会話と宇宙戦艦に戸惑う。


【マミ!】
【心の中でしゃべったり、声を出してしゃべったりしている!】
【瞬ちゃん、みんな直接、心の中で会話できるみたい。それに宇宙戦艦が御陵を破壊したとも言ってたわ】

【宇宙戦艦ってなんだ?】


 上空を見ると雲ひとつない秋のすがすがしい青空を背景に銀色の宇宙戦艦が急速に降下する。


【どういうことだ。家まで戻ろう】


 ふたりはやはり戻りはじめた一部の人々といっしょに小学校に向かう。そして家の前の道路で近所同士の親しみある会話がふたりの頭の中に直接入ってくる。


【この会話はいったい?】

 

[33]

 

 

【せっかく帰ってきたのに、なぜ人目を避けるように歩かなければならないの?】


 瞬示も同じことを考える。そのときふたりの名前を呼ぶ信号が頭の中を通過する。


{瞬ちゃん}
{マミ}

 

 すぐにほかの信号でかき消されてしまう。ふたりは顔を見合わせると今聞いた信号を確認する。そして緊張感を持って自分たちの家に向かう。家の中から人の気配がする。


【誰か、いるわ】
【御陵から戻ってきたのか】
【三人いるわ】
【ぼくの家にも三人いる】


 瞬示も真美も一人っ子だ。


【ぼくらに違いない!】


 ふたりがそれぞれ自分の家の玄関の前に立つ。家はかなりくたびれてはいるものの手入れはゆきとどいている。インターホンはそんなに古くはないが、慣れ親しんだものではなく明らかに取りかえられている。お互い垣根越しに確認しあいながら、インターホンのボタンを押す。ブーという音ではなく合成された音楽がインターホンから聞こえてくる。そして玄関のドアが開く。

 

[34]

 

 

「あ!」


 それぞれの家のドアが大きく開くと両方の玄関の中では氷のように固まった自分たちがいる。


【瞬ちゃん!】
【マミ!】


 瞬示と真美が同時に強烈な信号を送りあう。瞬示が瞬示と、真美が真美と向かいあう。同じ場所に自分たちがいるのにふたりは消滅することもなく、もうひとりの自分たちと対面する。


「わあ!」


 もうひとりの自分たちが大声をあげて家の奥に消える。


***

 自分に出会って強制的に摩周湖上空に瞬間移動させられたのではなく、瞬示と真美は自らの意思でなぜか摩周湖に移動した。しかし、そこは透明な水をたたえているはずの摩周湖ではなかった。


【水がない!】


 大きなカルデラにはもとは小さな島だった円錐形の山があって、申し訳なさそうに囲む白濁色の沼がそのまわりを囲んでいる。


【本当にここは摩周湖なの】


 霧をはき出す力を失った摩周湖周辺はすがすがしく晴れわたっている。そして西の空がほの

 

[35]

 

 

かに赤味を帯びてくる。瞬示は真美をうながして腕時計をのぞき見る。


【あれから三十七年もたっている。何があったんだ。それともあのふしぎな事件で湖水がなくなったのかも】

【瞬ちゃん!三十七年もたっているのに、もうひとりのわたしたち、ぜんぜん歳を取っていなかったわ】

【!】


 ふたりとも黙ってしまう。確かに自分たちの世界の地球に戻ったが年代が違う。それが何を意味するのか戸惑うばかりで、御陵に戻るということ以外に選択肢がないような気持ちになりかけたとき真美がやっと信号を送る。


【あの民宿に行ってみない?】


 意外な選択肢ではあったが瞬示は返事もせずに瞬間移動の体勢に入る。ふたりは摩周湖上空からあの民宿のそばに現れる。しかし、悠々と水をたたえた川はなく枯れた草原がふたりを包む。


【ここも水がなくなっている】


 ふたりは視線を恐る恐る民宿に移動させる。あるにはあるが今にも倒れそうなほど老朽化している。民宿を見つけて安心したのか、その場に座りこんでもうひとりの自分たちのことについて信号ではなく肉声で話しあう。

 

[36]

 

 

「わたしが家にいた」


「でも、ぼくらは消えなかった」


「でも、三十七年も年月がたっているのに、まるっきり自分たちそのものだったわ」


「なぜだ!五十九歳(22+37=59)の自分たちじゃなかった」


「お父さんやお母さんも歳を取っていないのかしら」


 瞬示は答えようがないのか、少し間を置く。


「……でも駅は高架になっていたし、あの喫茶店もなかった。まわりの環境は数十年の年月を刻んでいた」


「あのまま立ちつくしていたら、どうなったのかしら」


「両方とも消えなかったということは、何を意味するんだろう」


 結局、首を横に振ることしかできないふたりはそのまま仰向けになって寝ころぶ。


「御陵がなくなっていた」


「あの緑色の池に見えるのは時間島なのか」


「時間島はあのままなのかしら」


「何か、おかしい」


「あの頭の中に直接聞こえてくる会話はいったい何なの?」


「宇宙戦艦が御陵を破壊したらしい」

 

[37]

 

 

「ここは本当にわたしたちの世界なの?」


 瞬示も真美もフーッと大きなため息をはくと黙りこむ。ふたりは自分自身を目のあたりにして驚きのあまり摩周湖の上空に瞬間移動してきたが、その摩周湖は単なるカルデラになっていた。三十七年もたっているとはいえ、ここが自分たちの世界だとしても強い違和感を感じる。


 しばらくして以前ここへやって来たときにあった川の方からふたりの思考に割りこむような気配がする。ふたりが立ちあがってその方向を見る。急に緑色の川が現れて足元に迫ってくる。


しかし、せせらぎの音はないし風の音もない。


【瞬ちゃん!時間島なのかしら】


 真美がたまりかねて信号を送る。瞬示はまばたきもせずにじっと動かなくなった緑の川を見つめる。


【時間島の色がいつの間にか緑に変わっている】


 瞬示も真美もこの川を時間島だと確信する。


【形も変よ】


 瞬示は形にはこだわっていない。時間島の形は変幻自在だからこだわる必要がない。


【御陵の時間島がここへ移動してきたのか】
【何か、いいニオイがするわ】


 真美の信号に瞬示は鼻の穴をふくらませる。

 

[38]

 

 

【森のニオイだ】


 真美が身体を民宿に向ける。


【海辺なのに、森のニオイがするなんて】
【でも、確かに時間島からニオイが出ている】


 真美が急に唇に指を一本立てる。


【誰かいる!】


 民宿の中を伺うような仕草をする真美に瞬示が相づちを打つと一歩踏みだす。


【確かに誰かがいる】


 真美も瞬示といっしょに民宿に向かう。玄関にたどり着くと瞬示はドアに手をかける前に後ろを振り返る。緑の時間島は川の形を取ったまま、流れだす様子もなくじっとして動かない。


【食堂よ。誰かいるわ】


 ふたりは玄関横から食堂に向かう。勝手口が開いている。忍び足で勝手口のドアを通りこして食堂の窓にまわる。食堂では老夫婦が今にもつぶれそうなあのなつかしいテーブルに向かいあって食事をしている。


【一太郎だ!】
【花子だわ!】


 ふたりが顔を見合わす。

 

[39]

 

 

【すごく歳をとっているけれど間違いない】
【どうして、もうひとりのわたしたちは歳を取っていないの】


 真美の強い信号に瞬示が言葉を探そうとすると、一太郎と花子の会話がふたりに直に伝わってくる。ふたりは意識することなく一太郎と花子の泡のように浮きあがる会話を読みとる。


「同じ研究室で働くことになったのには、本当にビックリしたわ」


 花子がなつかしそうな声を出す。


「あんな突拍子もないシステムをよく開発できたものだ」


 一太郎が遠い昔を思い出すようにうつろな目で花子を見つめる。


「また、いつもの話ね」


「歳をとったな。昔話しかできなくなった」


「もうすぐ六十ですよ」


【六十歳!】


 真美が驚いて瞬示に信号を送る。瞬示がしーっという仕草を真美に向ける。


「花子の言語学の知識がなかったら、あれは完成していなかったな」


「何を言ってるの。あなたの努力のたまものだわ」


「また同じ話になってしまうな」


「仕方ないわ。三十年以上、必死に走り続けていたんですもの」

 

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「仕事を続けていた方がよかったのかな」


「また同じことを言って。『もういい。やり残したものはない』って一年前に隠居を決めたのは誰ですか」


「ははは、そうだった。一年か……ずいぶん前に退職したような気がする」


「そうね」


 花子が壁につるしてある日めくりを見る。


「2048年11月11日……。あなた、今日は退職してからちょうど一年よ」


「そうか、ここへ引っ越してちょうど一年か」


「でも、ふしぎなものね」


「何が」


「特殊なワープロソフトの開発のために同じ研究室でいっしょに仕事をすることになったんですもの」


 一太郎と花子はいつもこのような会話から始まって同じことを語りあう。食事が終わっても座り続けることが苦痛になるまでお茶を飲みながら、昔話をするのが日課になっている。


 いつの間にか瞬示と真美は川の形の緑の時間島に身体を預けて気持ちよさそうに一太郎と花子のとりとめもない会話に聞きいる。


 一太郎と花子の会話は、同じことを繰り返すことが多くてなかなか前に進まない。まるで磨

 

[41]

 

 

きあげられてツルツルになった手ざわりのよい丸い石のような会話に聞こえる。瞬示と真美は気持ちのよい歌を聴いているような錯覚に陥る。


【瞬ちゃん、あのふたり幸せそうね】
【ああ、あんな風な老夫婦になるって何だかうらやましいなあ。でも六十歳と言ってたなあ】
【やっぱりあれから三十七年、たったのかしら】


 ふたりはやがて眠るように動かなくなるが、今日の一太郎と花子の会話はいつもの繰返しの会話の殻を破って、瞬示と真美の心の中で壮大な物語を展開する。


(以下、第三十四章まで一太郎と花子の回想が続く)

 

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