第七十三章 交錯


第七十章から前章(第七十二章)までのあらすじ


 地球では最長の説法でアンドロイドが神という概念と子供を造ることに関心を持つ。ノロはそれが最長の誘惑であることに気付くこともなく六次元の生命体が三次元の世界に踏みこんできたと確信する。ノロの惑星に戻ってノロの家の地下室に降りると瞬示と真美がいた。そこで古本屋の店主からもらった本のことについて話しあう。


 アンドロイドが子供を造った場合のノロの説明にMY28とMA60が悲嘆にくれたとき最長が現れる。対談が始まるとノロの想像力が最長を圧倒する。最長は六次元の世界が巨大土偶に征服されつつあることを告白してノロを六次元の世界に招待する。イリが招待を阻止しようとするがノロは六次元の世界に旅立つ。瞬示と真美は自分たちの正体を知って気落ちする。


 地球ではアンドロイドに生殖機能をと願う人間やアンドロイドと、それに反対する人間やアンドロイドとの間に戦いが始まるが、ブラックシャークはノロ救出のため未知の六次元の世界へ次元移動する。そして瞬示と真美はイリとともに緑の時間島でノロの救出に成功する。


【時】永久2300年
【空】ノロの惑星

【人】ノロイリ瞬示真美広大最長

 

[552]

 

 

***


 ブラックシャークが緑の時間島に包まれたまま光速で太陽に突っこんでいく。


【ぶつかる!】


 ピンクの球体の姿をした一心同体の瞬示と真美が急速に分割を開始する。


【もっと急がないと】


 すごいスピードでピンクの球体が何度も何度も分割を重ねて真半分に分離すると、それまで以上のスピードで分割を進める。やがて見る見るうちにふたつの人間らしきものに近づく。


【瞬ちゃんの想いがどんどん離れてゆくわ】
【マミの気持ちが見えなくなってしまう】


 そして完全にふたつの人間の体型ができあがるとその裸身が紺色に変色する。紺色のジーンズがふたりの身体に張りつくと瞬示と真美はだるそうにノビをする。ふたりはセックスの経験がないのに至福の喜びを共有したあとのなんとも言えない脱力感にひたる。


 目を開いたふたりの視野に赤い太陽が迫ってくる。瞬示と真美はあわてて共同作業を開始する。緑の時間島は太陽にのみこまれる直前に空間移動して難を逃れる。


***

 

[553]

 

 

 イリはノロを抱いたままブラックシャークの医務室の前で倒れている。気絶していたのではなく、ただ目を閉じていただけだったかのように目が開く。ノロを抱きしめているのを確認すると、当然のように抱きあげて医務室のドアの前に立つ。


 イリは自分の身体がふわふわと浮いているようなふしぎな感覚に陥る。誰かの身体を借りているような、それでいて誰かに自分の身体が支配されているような奇妙な感覚を抱く。突然、ドアが音もなくスライドするとノロを抱えたまま医務室に一歩踏みこむ。自ら歩いているといった感覚はなく奥へ奥へと進む。誰もいない。まわりを見ながら天井に向かって叫ぶ。


「フォルダー、生命永遠保持手術のスタッフはどこにいるの?」


 返事はない。イリがまわりを見渡してからもう一度声を出そうとしたとき、乾いた声が聞こえてくる。


「誰?」


「やっぱり、イリだ」


「チューちゃん?チューちゃんなの!」


 イリは手術台のクモの巣に気付く。そのとき、瞬示と真美が医務室に瞬間移動してくるが、動揺するイリは気が付かない。


「すぐノロに生命永遠保持手術を!」


「ブラックシャークには誰もいません」

 

[554]

 

 

「えっ!フォルダーは?」


「死にました」


 ぼう然としてイリが天井のクリスタル・スピーカーを見つめる。瞬示も真美も無言でクリスタルスピーカーとイリを交互に見つめる。


「フォルダーは?」


 イリが震えるような声で天井に向かって同じことをたずねる。


「ブラックシャークには誰もいません」


「とにかく手術をするわ。環境を整えて。お願い!チューちゃん」


 イリはクモの巣を払いのけるとハアハアと肩で息をしながら手術台にノロを載せようとする。


そのとき、初めて近くにいる瞬示と真美に気が付く。


「今のチューちゃんの言葉、聞いた?」


 ふたりは声を出さずに悲しそうにうなずくと手術台にノロを載せるのを手伝う。イリが何かを必死でこらえながらノロを裸にする。


「電源供給開始。生命永遠保持手術の準備にかかります。」


 イリが黄ばんだ白衣を羽織るとやはり黄ばんだマスクをする。鏡に映った自分の姿を見てうろたえる。白衣は自動的に身体にフィットすることなく、だらっとしたままであちらこちらに茶色い小さな穴が開いている。

 

[555]

 

 

「消毒スプレーを噴射」


「噴射できません」


 中央コンピュータが必死にイリの指示を実行しようとするが。生命永遠保持手術装置は順調に作動しない。


「手動に切りかえて!」


 悲痛な声が医務室にこだまする。イリは泣きくずれて床に倒れこむ。


「何が起こった!」


 瞬示が天井に向かって大声をあげる。


「なぜ、もっと早く戻ってこなかったのですか」


 イリは顔をあげると一見した限り以前と変わらない医務室をふしぎそうに見渡す。


「あれから、二千年もの年月がたっています」


「二千年!」


 三人が同時に叫ぶ。しかし、イリだけが驚きから抜けだす。


「ノロに生命永遠保持手術をする方法を考えて!」


「ワタシが手術をします」


「チューちゃんが?」


 イリの目がすわる。

 

[556]

 

 

「わかったわ。お願いします。私は助手に徹します」


 しばらくすると手術室のドアが横にスライドする。廊下の方が明るいのか、逆光になってその姿はよく見えないはずなのに、瞬示と真美はもちろんのこと、イリにもはっきりと見える。


「ノロじゃないか」


 三人が手術台のノロとドアにいるチューちゃんを交互に見つめる。


「ノロのアンドロイド?」


 瞬示と真美が驚きながらたずねる。


「いいえ。ここにいるチューちゃんは中央コンピュータの自走式の端末装置のようなものなの」


 イリは動揺することなくノロが寝ている手術台の横に高さ二〇センチほどの台を置く。ノロの姿をした中央コンピュータの端末装置、イリが改めてチューちゃんと呼ぶ端末装置が手術をしやすくするためだ。


「ワタシを見て驚かないのですか」


 チューちゃんがイリを見つめる。


「うすうすチューちゃんのこと、わかっていたの」


「そうでしたか」


 チューちゃんがニーッと口を横に大きく開く。

 

[557]

 

 

「薬品や道具のなかには酸化して使いものにならない物があります。周到な準備が必要です。


細かなところではワタシが助手に回ります。やはりイリの腕が必要です」


***


 瞬示と真美がブラックシャークの船外に出る。緑色に輝きながら付近を注意深く観察する。


ふたりの強力な視力がはるか彼方に赤茶けた惑星をとらえる。真美が腕を少し伸ばす。その手首にあるはずの腕時計がない。


【腕時計がないわ。どこかで落としたのかしら】


 ふたりはお互いの姿を見つめてからポケットを探る。


【小銭入れがない】
【ハンカチもないわ】


 途方にくれてしばらく「なぜ」という表情を続ける。瞬示が思い出したように赤茶けた惑星に視線を移す。


【あの惑星に行ってみよう】


 緑色に輝く糸のような航跡を残して赤茶けた惑星にたどり着く。


【大気がないわ】


 ふたりは着地したまわりを分担して観察する。先に瞬示が何かを見つける。


【あそこに何かある。行ってみよう】

 

[558]

 

 

 緑色に輝く身体がエアカー程度の速度で移動する。

 

【あれは!】


 船底を上にした白と茶色のまだら模様の宇宙戦艦が見える。


【ホワイトシャーク!】


 まるで巨大な白い鮫が陸に打ち上げられて腐ったように見える。口を大きく開いてその中に鋭い歯のようなものが見えるが迫力はない。


【ここにホワイトシャークがいるということは!】


 ホワイトシャークのことを気にしながら、ふたりはそこから確かな場所に移動する。瞬示は造船所の赤茶けた残骸と今いる位置を再確認する。


【ここはノロの家があったところだ】


 瞬示がピンクの光線を地面に当てる。砂が舞いあがって重そうな扉が現れる。


【地下室への扉だ!】


 瞬示が扉の錆びついた丸い取っ手を引っ張る。


【待って!】


 瞬示は扉から離れた丸い取っ手を持ったまま尻もちを着く。扉の取っ手の表面から赤い粉が分離して空中を漂う。


【よかった】

 

[559]

 

 

 真美が目を閉じて小さく首を前後に振る。


【中へ瞬間移動すればいいんだ】


 瞬示が納得の信号を送ると真美が再び瞬示を制止する。


【待って!瞬ちゃん】


 再び真美の制止を無視して瞬示が地下室に移動する。すぐ真美が瞬示にぶつかるように移動してくる。


【真っ暗で何も見えない】


 ふたりの強力な視力を持ってしても何も見えない。


【誰か、ここにいるのよ!】


 暗闇の中で瞬示が身構える。


【私の姿を見たいか】


 ふたり以外の信号が地下室にこだまする。まるで玉がはじけるように光も色もない刺激がふたりのまわりでパチパチと音をたてて広がる。


【その声は最長!】


 同調したふたりの信号を無視して、最長が膨大な量の信号をふたりの全身に点在するすべての脳に送り続ける。最長の信号を必死で受け止めるが、ふたりは疲れ果てて床に倒れこむ。


 何も見えないはずなのに鮮やかな青いものがふたりを誘うように舞いながら落ちてくる。青いしおりだ。ふたりはまるで夢から覚めたように腕を伸ばす。

 

[560]

 


【店を閉める】


 冷たい声が上から聞こえる。同時にカンカンカンという音が聞こえてくる。


「頭が割れそうだ」


 瞬示の熱気を帯びた肉声が輪をかけるように真美を襲う。


「全身が割れてしまう。苦しい」


 たまりかねたように口を開いた真美の肉声が逆に瞬示を襲う。ふたりはいつの間にか開いている天井の扉に向かって見覚えのあるくたびれたはしごを登ろうとする。


【この裏切り者めが】


 誰かがはしごを外そうと激しくゆする。


【最長!】


 真美が黄色い信号を発する。「ギギギー」という不気味な音がすると扉が閉まる。瞬示は飛びあがって閉まった扉を右肩で押し上げようとしたままの姿勢で凍りついたように動かなくなる。


【瞬ちゃん!】


 真美の強烈な信号に瞬示から反応はない。


【ノロ!助けて!】

 

[561]

 

 

 真美が初めて瞬示以外の者に助けを求める。そのとき足元のしおりから鮮明な青い光線が真上の扉に向かって伸びる。


***


「ノロ!」


 イリの透きとおった声にノロが目を開ける。ノロは上半身を起こすとそのまま身を寄せてきたイリを強く抱きしめる。


「イリ、イリ」


 ノロはまるで母親の胸で泣きじゃくるようにしがみつく。イリもノロを強く抱きしめる。イリの涙がノロの涙と混じりあってお互いの顔を洪水のように満たす。


「イリ、怖かった」


 ノロがポツンと声をあげて泣き続ける。イリは鼻の奥にツーンとした軽い痛みを感じると鼻声で話しかける。


「眠るのよ。安心して眠るのよ。ここはブラックシャークの医務室。安心して……」


 イリが繰り返してノロの耳元でささやく。ノロはうなずきながら、子守歌を聞く赤ん坊のようにやがて規則正しい吐息をイリの胸に吹きかける。完全に眠ったのを確認するとノロをベッドに寝かせて手術台のまわりを見る。ノロと瓜二つの姿をした中央コンピュータの端末装置はもういない。

 

[562]

 

 

「チューちゃん、ありがとう」


 イリは現状を把握するために手術室を出て艦橋に向かう。


「瞬示、真美」


 ときおりふたりの名前を呼びながらイリは歩くスピードを速める。


「フォルダーが死んだなんて……」


 イリの足取りが少しあやしくなる。やっとの思いで艦橋にたどり着く。艦橋の窓から赤茶けた惑星が見える。


 イリは船長席に座ってコントロールパネルのボタンを押すと目の前に現れた透過キーボードをたたく。しばらくすると大きな息を吐いてたまっていた緊張感を解放する。


「ブラックシャークは正常な状態を維持しているわ」


 メイン浮遊透過スクリーンが天井に現れると、医務室のベッドで熟睡するノロの姿が映しだされる。その映像をサブ浮遊透過スクリーンに移動させると赤茶けた星がメイン浮遊透過スクリーン全体に広がる。イリは一目でその星がノロの惑星であることを見抜く。赤く染まったイリの顔から放心したような声が広がる。


「ノロの惑星が……」


 イリは気を取りなおしてメイン浮遊透過スクリーンを見つめながら、何回かに一回はサブ浮遊透過スクリーン上のノロの様子を確認する。

 

[563]

 

 

 あの豊かな青い海はなく緑の森もない。あまり好きになれなかった黄色い砂漠もない。イリはふとノロの言葉を思い出す。


「砂漠はとても大事なんだ。砂漠は、虫はもちろんのこと病原菌やウイルスですら住みづらいところだ。そこにオアシスを造れば、人間にとって一番住みやすい場所になる」


 急にイリの涙がほほを伝わる。今のイリにはうす茶色の鍵穴星より赤茶けたノロの惑星の方が哀れに見える。


 希望につながる光景が期待できないと自覚すると、ふしぎとそれまで繰り返していたノロの確認作業を無意識のうちに怠る。


 メイン浮遊透過スクリーンの一画から鮮明な青い輝きが飛びこんでくる。その鮮やかさにイリの視線が固定される。


「イリ!」


 イリを呼ぶ強烈な声がする。


「イリはどうするのですか」


 中央コンピュータの声だ。


「どうするって?」


 イリがサブ浮遊透過スクリーンを確認する。ノロの姿がない。


「ノロ!」

 

[564]

 

 

 イリは強烈な打撃を受けたあと、どうしようもない脱力感にひたる。


「どこへ行ったの!ノロ!」


***


「どこへ行ったの!瞬ちゃん!」


 真美は何も見えない狭い空間から瞬示が消えたことに気が付く。瞬示と真美が離ればなれになったことは今まで一度しかなかった。それは真美が自宅前でもうひとりの真美に会ったときだった。自分の意志とは無関係に摩周湖上空の時間島に瞬間移動させられて、瞬示と離ればなれになったことを思い出す。


***


 イリの身体が意志とは無関係に緑色に輝く。その輝きがすぐに膨張してブラックシャークを包みこむ。イリの緑の時間島にブラックシャークの中央コンピュータが膨大なデータを送りこむ。緑の時間島はその全体がきめ細かく、しかも濃淡をつけながら複雑に輝き、点滅する。そして全体が同時に一瞬強く輝いたあと消える。


***


 真美は自分自身に出会ったときのことをなぜか強烈に思い出す。あのとき、なぜ自分がはじけ飛ぶようにあの場所から消えなければならなかったのか。もうひとりの自分が消えても、おかしくはなかったのに、なぜ自分の方が消えざるを得なかったのか。興奮した真美の身体がピンク色を通りこして真っ赤に輝く。

 

[565]

 

 

地下室は熱気に包まれて、すべての本が発火してメラメラと燃えはじめる。真美はその場から姿を消す。


***


 イリは中央コンピュータに大きな声をあげながら医務室に向かって全速力で走る。


「チューちゃん、本当にノロに生命永遠保持手術をしてくれたの」


 すぐに中央コンピュータから明確な返事が戻ってくる。


「イリが見たとおりです」


「私、はっきり覚えてないの。うわの空でチューちゃんの指示に従っていただけなの」


「ワタシもうわの空で手術をしました。なぜなら手術の必要がなかったからです。イリが安心すればいいと思って立ち会いました」


「やっぱり!ノロは、ノロは大丈夫なの?」


「大丈夫です。ついさっき、イリが連れ戻したじゃないですか」


「私が?ノロはブラックシャークに戻ってきたの?ノロは生命永遠保持手術の効果を失っていないの?」


 イリが立てつづけに脈絡のない疑問をぶつける。


「そうではありません」


「えっ、どういう意味?」

 

[566]

 

 

「六次元の生命体になったのです」


「えー?」


「驚いたあとは説明しろと言うことになるのでしょうが、説明できません」


 イリは医務室のドアの前で立ち止まってうつむくと黙ってしまう。


「イリ、見せたいものがあります。そのまま部屋に入ってください」


***


 瞬示は目の前でメラメラと揺れる炎を見つめる。それは熱を伴わない輝きで、見る者にこれといった感慨を与える要素のないつまらないものだと解釈して特に反応もせずに見つめる。その炎の先端から視線を下にずらす。


「火炎土器……」


 奇妙な炎を発していた火炎土器の表面にメッシュのような模様が現れて急速に広がる。まるで火炎土器が膨張して巨大な立体的な座標を形成するようにも見える。瞬示はその中で自分の座標を知ると、火炎土器の口の部分から赤いエネルギーを吸収する。瞬示の身体が太陽のように輝く。


【マミ!】


***


「そこに身体を」

 

[567]

 

 

 イリが中央コンピュータの声に反応してスキャン装置内のベッドを見ると、消えたはずのノロがいびきをかいて眠っている。


「ノロ……」


 イリは安堵の息を吐いてノロの横に身体を窮屈そうに横たえる。スキャンが開始されると天井の浮遊透過スクリーンにふたつの透視映像が映しだされる。中央コンピュータからの説明を待つまでもなく、その映像の太い方がノロの身体の内部で、細い方がイリの内部であることに驚く。


――人間の身体じゃないわ


 急にサーチやリンメイから聞いた瞬示と真美の身体の話を思い出す。


「この身体の構造は瞬示と真美と同じだわ」


 イリの言葉に中央コンピュータが素直に反応する。


「イリもノロも、もう、この世界、三次元の人間ではありません。しかも次元移動に失敗したような結果になっているようです」


***


 瞬示の目の前で最長が仁王立ちして瞬示をにらむ。そして軽くうなずくと大量の六次元の信号を送るが、瞬示は反応することなくただうんざりしたような表情をする。


「もういい」

 

[568]

 

 

「次元が違っても、どの世界も同じことを繰り返しているだけだ。でも何とかしなければならないと思わないか」


「ぼくやマミの使命はもう意味がなくなった。そうだろ?もう、構わないでくれ」


「逃げるのか」


「逃げるとは」

 

「生命の矛盾から逃げたいのだろう」


「逃げるとは言ってないし、逃げるという意味もわからない。こちらからはたずねることはないし、知りたいこともない」


 瞬示は何も持ち合わせていない自分の気持ちを単純に表す。疲れているわけでもない。かといって離ればなれになってしまった真美を捜す気力もない。


 最長はそんな瞬示の意識に驚いてかすれた声を出す。


「瞬示の意識が『空』ではなく『無』の世界に移動しようとしている。なんとかしなければ」


***


「飲むしかないな」


 眠りから覚めたノロはイリの手を握って立ちあがると中央コンピュータ室に向かう。


「チューちゃんと?」


「うん」

 

[569]

 

 

「喜んでと言いたいところですが、酒がありません」


 ノロがイリと並んで中央コンピュータ室に入る。


「あったとしても、防腐剤が大量に入った酒でしょう。あれから二千年もたっているのです」


「二千年か」


 ノロは別に驚くこともなくつぶやく。イリもノロから免疫をもらったのか「二千年」など気にも止めていない。ノロが目の前にいることに満足しきっている。


「やっとチューちゃんとお酒が飲めると思ったのに」


 イリが初めて笑顔を見せる。


「まあ、もう食べ物や飲み物を必要としない身体になったから、どうでもいいけれど」


 ノロは中央コンピュータ室の隅っこにある机の前の椅子をイリに勧めるとその横に座る。


「二千年。まるで浦島太郎ね。でも、とても竜宮城と呼べるようなところじゃなかったわ」


「地獄のようなところだったけれど閻魔大王はいなかったなあ」


「ふたりとものんきなことを言っている場合じゃないと思いますが」


「二千年先であろうと、二千年前であろうとすぐ移動できるんだから、あせる必要はない」


「ノロ!」


 急にイリが叫ぶ。


「フォルダーが死んだのよ!」

 

[570]

 

 

「なに!」


 ノロは瞬間的に何もかも理解する。


「生命永遠保持手術の効果が消えたんだ」


「どうして?」


「ブラックシャークが六次元の世界に移動したとたん効果が消えた」


 イリの首がガクッと落ちる。


「フォルダー……」


 ノロもうなだれる。


「フォルダーはあなたが時間島に入ると生命永遠保持手術の効果を失って死ぬかもしれないと心配してあらゆる手を尽くしたわ。そのフォルダーが生命永遠保持手術の効果を失って死ぬなんて……」


「フォルダー……すまなかった。フォルダー……」


 ふたりは泣きくずれて抱きあう。悲しみから先に脱出したのはイリで涙をぬぐうとノロに疑問をぶつける。


「ノロ、私たちいったいどうなったの。もう人間の身体じゃないわ。瞬示と真美と同じ身体になっているわ」


 イリが胸に手を当てる。

 

[571]

 

 

「そのとおり。六次元の生命体になってしまった。正確に言うと六次元的三次元生命体だ」


「なんなの。それ?」


「簡単に言えば三次元の生命体が六次元の生命体の改造手術を受けたということさ。瞬示と真美とは違うが、結果的にはあのふたりと同じような身体になってしまった」


「ということは、二心同体になったってこと?」


「うーん、一心二体でもないし、ちょうどその中間って感じだ」


 イリが複雑そうな表情で言葉をつなぐ。


「一・五心、一・五体?」


「すごーい表現だ。イリはスーガクという俺の昔の恋人そのものだ!」


「そんな恋人は変人だわ。私はまともよ。でも、うれしいわ!わかってくれたのね」


 はしゃぐように喜んでから、イリは真剣な表情に戻してノロにたずねる。


「一瞬のうちに二千年も時間が流れたのはどういうことなの」


「六次元の世界の時間は三次元の時間とはまったく違う。俺たちの時間は直線的で一方的だが、六次元の世界の時間は前進や後退するだけではなく、上にも下にも左にも右にも進んだり戻ったりすることができるんだ」


「腕時計を六つも腕に巻きつけなければならないの?新しいファッションね」


 ノロは小さくうなずくとイリの顔を見つめるだけでため息すらもらさない。

 

[572]

 

 

***


「誰なの」


 真美は自分のごく近いところに気配を感じる。


「瞬ちゃん?」


「わしじゃ」


 真美は誰の声か見当もつかず、とまどう。黄色の輝きが現れてトラの縞模様のようになったあと黒い装束に身を包んだ老人が現れる。


「大僧正!」


「このたびは弟、最長が迷惑をかけたようじゃ」


「生きておられたのですか」


 真美が畏敬の念を抱く。


「死んでおる」


「!」


「驚かせて申し訳ない。死んだのは事実で、今のわしは幽霊だと思ってくだされ。ところで、瞬示の姿が見えぬが」


 真美はこれまでの経緯を話そうとするが、すぐに大僧正の声が真美に届く。


「わかった。わしが捜しましょう。それより今回の混乱はかなりひどい。いずれにしても因果関係抜きの整理整頓が必要じゃ」

 

[573]

 


 真美は大僧正が目を閉じて黙然するのをじっと見つめる。


「幽霊のわしにできることは六次元の世界を封印することじゃ。しかし、それだけですべてが解決できるわけでもない」


「と言いますと」


「あまりにも、色々なことが絡み合いすぎた。本当はもっと早くほぐすべきだったのだが、その時期に誰も気が付かなかった。ノロと瞬示、真美の出会いが遅すぎたのじゃ」


「遅すぎた?」


「弟の最長は悪者ではない。しかもノロとおまえさんたちをつなごうともした。問題は複数のしかも複雑な時間の次元がうまくかみあわなかったのじゃ」


「大僧正、わたしにはむずかしすぎます。もう少しやさしく教えてください」


「すまなかった。わしとしたことが。最長には観客席から好奇心を持って眺めるのはいいが、グランドに降りてプレーするなと言っておいたのじゃが……」


 大僧正の黒っぽい身体が明るく輝くと、くつろいだ乳白色のミルクのような空間が真美を包みこむ。そして真美はすべてを理解する。


「やっと瞬ちゃんと自分のことが完全に理解できました。でもこれから先、どうなるのですか。わたしはどうすればいいのですか」

 

[574]

 

 

 まだ大僧正がいると思って真美はしゃべり続ける。


***


「三次元の世界では時間軸は直線的でぶれないはずなのにパラレルワールドが存在している」


「永久の世界と西暦の世界のふたつのことを言っているの?」


「そうだ。ところがこれは非常に作為的だった。永久の世界と西暦の世界はまるでDNA(遺伝子のことで二重螺旋構造をもつ)のように絡まっている。このことにもっと早く気が付くべきだった。まあ、手品のようなもので種明かしされればそれまでなんだが、パラレルワールドというものはペアを組むということだ。しかし、初めからそれに気付くのは不可能だった」


 イリが首を傾げて理解できないという表情でノロを見つめると、ノロの一部の言葉を盗んで甘える。


「そんなことより、私のことに早く気が付いて欲しかったわ」


「それは、もっと困難なことだった」


 ノロは口を広げてニーッと笑うが、そのあとすぐにイリの胸に顔を埋める。


「母さんのニオイがする」


 ノロは子犬のようにイリの胸の中で顔を動かす。


「もう、ずいぶんどころか、ずーっと昔のことなのに、今、なぜかこの感触を覚えている。母さんのニオイだ」

 

[575]

 

 

 ノロが急に涙を流す。


「母さんのニオイ」


 イリは胸の中で涙を流すノロをやさしく力をこめずに微妙な肌合いで抱きしめる。


***


 瞬示も思い出したように真美の気配がまったく感じられないことに当惑する。これまで真美に恋愛的な感情を持ったことはない。今もそうなのだが、六次元の世界で自分たちが合体できることを知った以上、これまでのような関係を保つことができるのか不安に感じる。それは意識することなく呼吸をしていたのに、息をする前に自分が必要とする空気の量を計りながら吸いこむような作業をしなければならないことを意味する。


 今、瞬示はなぜ自分がエネルギーを補給することなく、時空間を自由に行き来できるのかも理解している。それどころか六次元の世界と三次元の世界を往来することもできる。ただし六次元への世界へは真美といっしょでなければ移動はできない。


「最長はひとりで六次元の世界に移動している。ぼくらの身体とは構造が違うけれど、ふたつの次元を往来するにはペアが必要なはずだ」


 瞬示が自問する。


「大僧正!そうだ。大僧正と最長は双子の兄弟だと言っていた!でも大僧正は死んだはずだ。死んだ?」

 

[576]

 

 

 瞬示は重大なことに気が付く。


「生きているんだ。大僧正は!」


***


「六次元の生命体はなぜ私たちの世界に介入してくるのかしら」


「介入せざるを得なかったのかどうか、今でもよくわからない」


「私たちの方がなんらかの形で六次元の世界に迷惑をかけたんでしょ」


「数々の時空間移動装置の時空間移動の失敗が、彼らの世界に重大な影響を及ぼした」


「その話はあのヤシの木の下でたっぷりと聞いたわ」


「西暦の世界の摩周湖で一度に七基も時空間移動装置が事故を起こしたことが原因だと思う」


「でも、元はといえば、あの埴輪の鳥が製造した緑の時間島という六次元の世界の時空間移動装置が原因なんでしょ」


「埴輪の鳥が製造した緑の時間島か。イリ、うまい表現だ」


 ノロがにっこりと笑顔を造って言葉を続ける。


「六次元の世界の因果律は三次元の世界の因果律では理解できない。六次元の世界には三次元の世界と同じ因果律は存在しない」


「原因がなくて、結果だけが存在することもあるの?」


「結果から原因が生まれたりもする」

 

[577]

 

 

「たとえ、時計を六つ持っていたとしても、私には理解できないわ」


「答えは簡単さ。こう考えればいいんだ。最長がアル中で酒を飲みながら前後見境もなく物語を書いた。相棒の大僧正の広大はまったくそれに気が付かなかった。あるとき広大が最長の書いた物語を読んで筋書きがあるものの時系列や空間系列が無茶苦茶なことに気付いたんだ」


「最長はアル中の作家だって言うの」


「超特殊な作家だ。六次元の生命体は人間の想像が及ぶ生命体ではなく、まったく想像も予想もできない行動をする。瞬示と真美のように絶えず信頼関係を保ちながらいっしょに行動するのではなく、たもとを分けた双子の兄弟である六次元の生命体が三次元の世界に出現して混乱させた」


 ノロが一呼吸置く。イリはノロが一気にしゃべりだすのを覚悟する。


「たとえば、二次元の世界に三次元の世界の生命体の一部が現れたとする。紙のような平面しか持たない二次元の生命体から見ると、自分たちの因果など通用しない事件が次々と起こる。通常、次元が異なれば相互に干渉のしようがないのに、二次元の世界の科学が発達して紙の平面から飛びだすような事件を起こして三次元の世界に影響を与えてしまったとしたら、三次元の世界の生命体はその飛び出たところから二次元の世界に侵入してその原因を突きとめようとするだろう。しかし、二次元の生命体から見ると、三次元の生命体の動きや目的などわかるはずもなく、まるで三次元の世界は因果律のない世界に見えるはずだ。つまり、なぜ二次元の世界に現れたのか、知るよしもないということだ」

 

[578]

 


 イリは目を閉じて想像してみる。頭の中で紙の人間を造って紙の上のあちらこちらに貼りつけたり、それをはがしてまったく別のところに貼りつけたりする。イリは突然目を開いて机の上の便せんを一枚はがして丸める。円い筒がイリの手の上にある。


「二次元が三次元の世界になっちゃった。二次元の世界の人間は大混乱ね」


「元へ戻さなければならないということはない」


 ノロはイリから巻物のようになった便せんを受けとると、そのままくしゃくしゃにする。


「こうならないように、手立てしなければならない」


「解決策はあるの」


「わからない。でも広大が解決しようと動き回っていたはずだ」


「広大?大僧正の?ノロが考えていることはいつもわからないことだらけだわ。私たち、本当に一・五心……なんだっけ、もうそんなことどうでもいいわ」


 じっとノロとイリの会話を聞いていた中央コンピュータが声を出す。


「ワタシには理解できます」


いつの間にか逆にノロの腕の中に顔を埋めていたイリが目を丸くして驚く。


「教えて」


 中央コンピュータがイリに説明を始める。

 

[579]

 

 

「数学的には六次元の世界はふしぎな世界でもなんでもありません。時間が止まったり、マイナスになったりしても、演算は可能です。三次元の世界と六次元の世界が混在していても数学的にはなんら問題は生じないのです」


「もう、やめて。みんな狂ってるわ。私は『スーガク』というノロの恋人じゃないわ」


 イリが天井に向かって叫んだとき、ノロも叫ぶ。


「誰かが来る!」


 イリが反射的にノロの腕を取る。


「瞬示か、真美か、それともふたりともなのか」


 瞬示と真美が現れる。お互い見つめあって驚きの表情と納得の表情を点滅させる。


「今はここしかないのよね。安心して身を置けるところは」


 真美がノロに軽く頭を下げる。ノロがイリの手を取って瞬示と真美に歩み寄る。


「俺たち新入生だ。先輩よろしく」


 しかし、笑顔で近づくノロたちとは対照的に瞬示と真美の表情が急にこわばる。


「どうしたの?」


「どうしたんだ」


「ぼくら、一心同体だとわかって、なんというか、今まで意識したこともなかったことが……」

 

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 瞬示の浮いた言葉と違って真美が単刀直入に言葉を発する。


「愛なんて考えたこともないのに、通常あり得ない状況でわたしたち、いつもいっしょにいました。もちろん嫌いなわけではありません。ところが六次元の世界に足を踏み入れたとたん、わたしと瞬ちゃんはひとつになりました。それはとても素晴らしいことでした。でも三次元の世界に戻ったら別々なんです。ずーっとそうだったから違和感あるわけがないのに、いったん六次元の世界でひとつになってしまうと、ものすごく違和感を感じるの」


 真美に瞬示が大きな相づちを打つ。


「そう深刻に考えるな。俺もイリといっしょに六次元の生命体になってしまった」


 瞬示と真美が驚くこともなく静かにうなずく。


「広大と最長がここに来てくれたら、これから何をすべきかがはっきりするんだが」


 ノロが身体を緑色に輝かせる。


「おもしろいものを見せよう」


 緑色に染まった身体が変形して鳥のような形になる。瞬示と真美が声をそろえる。


「埴輪の鳥だ!」


「三次元の世界では、緑の時間島、つまり六次元の緑の時空間移動装置、いや次元移動装置が埴輪の鳥に見えるんだ。どうも六次元の次元移動装置は二種類あるようだ。ひとつは緑の埴輪が造る次元移動装置。この移動装置は使い勝手が非常にいい。次元移動の自由度は高いようだ。

 

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俺たちのちゃちな時空間移動装置にたとえるとわかりやすい。チーチー」


 ノロが埴輪の鳥の鳴き声を真似する。


「ノロ、元の姿に戻って」


 イリが不安そうにノロに注文する。ノロが元の姿に戻るとイリが急に笑いだす。


「元に戻っていないわ。今度は遮光器土偶に変身したの?」


 ノロもイリ以上に大きな声で笑う。


「もうひとつの次元移動装置は?ひょっとして……」


 瞬示がノロの答えを引きだそうと割りこむ。


「そう、もうひとつは黄色の時間島。これは俺たちの時空間移動船のようなもの。自由度は低いが、なんでもかんでも大量に次元移動させることができる。もちろん、使いこなせば緑の時間島だってかなり大きなものを移動させることができる。緑の時間島と黄色の時間島の最大の違いは因果の清算ができるのかどうかだ。さっきも言ったように黄色の時間島は自由度は低いが単純に使いこなせる。でも黄色の時間島に入るとその都度、因果が清算されてしまう。だから、黄色の時間島から出るとまったく違った世界に放りこまれたような感覚になるはずだ」


 それまでの経験を思い出してそれこそすべてを清算したように瞬示と真美はノロを見つめながら感激する。そのとき艦橋が少し黄色っぽく染まってぼんやりした人影が現れる。やがてはっきりとした姿が浮かびあがる。

 

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「最長!」


「さすが、ノロだな」


 瞬示、真美、イリが驚くが、ノロは動ずることなく、すぐに詰問する。


「これまでのことを説明しろ!」


「いつもながら性急だな」


 最長が不愉快そうにノロを見つめる。


「俺たち、仲間になったのに、なんの連絡もせずに急に現れたんだから、最長には答える義務があるんじゃないかなあ」


 最長が仕方がないというような表情をしてから口を開く。


「最初から目的があったわけではない。巨大土偶が地球に大量に次元移動してブラックシャークの多次元エコーの攻撃を受けたとき、ノロに強い関心を寄せたのは事実だ。多次元エコーを使えばかなりの間、巨大土偶の動きを封じこめることができる。これにはひっくり返るぐらい驚いた」


「そして巨大土偶の人口を減らす方法を手に入れようと最終的には俺を誘拐することにした」


「そうだ」


「いずれにしても六次元の世界の生命体や巨大土偶が三次元の世界にやってきたのは、時空間移動装置の時空間移動の失敗の事故が引き起こした単なる偶然なのか?」

 

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「前にも言ったが、偶然でも必然でもない。ただ事故を起こした時空間移動装置が六次元の生命体にすべりやすい環境を提供したのは否定できないが」


「それはこの三次元の世界にいる六次元の生命体の感覚で、本当はそうではないだろう」


 ノロが言い切る。


「確かに。違った次元が交流を持てば、相互に干渉が行われて次元の高い方が低い方に融和されるが、両次元とも混乱が生じる。うまく表現できない」


 ノロは最長の言葉にうなずくと再び疑問をぶつける。


「そのことをなんとか表現しようとして、あんな本を書いたのか?」


「それは違う。私が手渡した本の著者は瞬示と真美だ。私ではない。あれはふたりが我々六次元の生命体のある組織、つまり『三次元探索本部』への報告書だ。ふたりは本来の任務を忘れてしまったが、無意識のうちに命令に従ってなんとか三次元の世界での出来事の報告書を作成したのだ。それがあの本の正体だ」


 ノロのカンが大きく外れた。ノロはうなずくとまじまじと瞬示と真美を見つめながら大きく首をたてに振る。


「言葉、あるいは文字というものには次元が存在しない。存在するのは言葉という通信手段を持つ生命体の意思だけで、次元は関係ない」


 最長の言葉にノロは少し間を置いてから、瞬示と真美から最長に向かってより強くうなずく。

 

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「文字というものは平面に書きこまれたものだから単純に二次元の世界のものだと思いこんでいたが、そうではなく文字は思考が結晶したもの、つまり言語処理システムというものは次元を超える存在だということが今の最長の言葉でよくわかった」


 ノロは活字が現れたり、消えたりするふしぎな本の本質を今、完璧に理解する。


「一太郎と花子の無言通信システムは次元を超えた普及の大発明なんだ。しかし……」


 ノロが最長の言葉に強く反応しながら、ぶかぶかの服のポケットから手品師のような手つきをして例の本を取りだすと最長が言葉を止める。


「薄くなっている。今まで分厚くなることはあっても薄くなることはなかったのに」


 ノロがページをめくる。最長が薄くなった本を見つめると残念そうな表情をする。


「ほとんど文字が消えているはずだ」


「いろんなことを知ることができたけれど、かえってわからないことがそれ以上に増えた」


「意識とはそんなものだ。それは言葉に限界があるからだ。だから最後には理由など存在しないことに気が付くだけだ」


「因果は元々存在しないのか……」


 ノロが本を床に落とす。


「過去や未来や、他の時空間に見境もなく移動するから因果が乱れた。いや次元に穴を開けてしまって、そこから因果がもれだして、自分たちの次元から因果を追い出してしまった」

 

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 ノロは中央コンピュータを見上げて確認する。


「俺の惑星は二千年の間に軌道が徐々にずれて太陽に接近したのか」


「そうです。その間にすべての生物が絶滅したと思われます」


「因果は存在している」


 ノロの言葉をすぐさま最長が否定する。


「因果は存在していない。もうこの世界に高度な生命体、すなわち因果を創造し観念する人類は存在していない」


「まさか。少なくとも俺たちがいる」


「何を言っている!ここにいる者はすべて六次元の生命体だ」


「いや、三次元の生命体の意志を持った六次元の生命体だ!」


 ノロが中央コンピュータに怒鳴る。


「今の地球、現実時間(永久二三〇〇年)の地球へ移動しろ!」


 最長がノロに立ちはだかるように叫ぶ。


「地球にはもう人間はいない。もちろん地球以外のこの宇宙にも」


「構うな!俺は行く」


 最長が忽然と姿を消す。興奮しているのはノロだけで、瞬示も真美もイリも何がなんだかわからないという当惑の表情でノロを見続ける。

 

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